「全部ちょうだい」と姉に言ったのは、姉を逃がすためでした
「お姉様のもの、全部ちょうだい」
言えた、と思った。
四月十日。お姉様の十八の誕生日の夜会。大広間の大時計が八つ鳴り終えて、お姉様の左手首に、銀の印が浮かんだ。細い蔓が手首をひとめぐりしたような、腕輪のかたちの印。
お父様が、お姉様の手首を高く持ちあげて、招待客に見せた。
「家を継ぐ者の誉れだ」
拍手が鳴った。その拍手の中で、わたくしは、桃色のドレスの裾をつまんで、一歩前に出た。
一年、この台詞を練習してきた。鏡の前で、毎晩。わがままで、欲張りで、憎たらしい妹の声で言えるように。
招待客が、ざわめいた。
お母様が、扇を口もとに当てて、笑った。
「まあ、フローラったら」
お母様の目は、笑っていなかった。
お姉様だけが、笑わずに、わたくしを見ていた。ドレスの中で、膝ががくがくと震えていた。裾が揺れているのを、お姉様に見られなければいいと思った。
*
祖母の日記を見つけたのは、一年前の春、十五のときだった。
屋根裏の、古い衣装箱の底。革の表紙の、薄い帳面。祖母ヒルデガルトの、丸くてやさしい字が並んでいた。
――ヴァイスベルクの長女の印は、誉れではない。
最初のページに、そう書いてあった。
――印は、家じゅうの厄を、長女ひとりの身に集める。病も、不運も、すべて。わたしの母も、伯母も、印を持った長女は、皆、二十五を待たずに死んだ。
――印は、長女の持ち物に宿り、長女を家に縛る。名を縫いとった物。長女の部屋。形見。家の決めた婚約者。継承の指輪。そして、長女という名前。
――長女が、恨みや諦めで「もういらない」と手放したとき、印は、その持ち物ごと、手放させた者へ移る。
そのあとのページは、何枚か、破りとられていた。
わたくしは、屋根裏の床に座りこんで、日記を抱えて、夜まで動けなかった。
お姉様は、来年の春に、十八になる。
夜ふけ、日記を抱えて屋根裏の階段を下りると、階段の下に、オルガが燭台を持って立っていた。
「お読みになりましたね」
「オルガ……知っていたの?」
「大奥様から、うかがっておりました。いつか、どなたかが、その箱を開けるだろうと」
「おばあさまは、印があったのに、どうして長生きしたの? 破れたページには、何が書いてあったの?」
「それは、わたくしにも、お話しくださいませんでした」オルガは、首を横に振った。「ただ、『答えは、いつも目の前にある』とだけ」
「お姉様に、教えなきゃ」
「お教えになれば」とオルガは静かに言った。「ヘレナ様は、ご自分ひとりで抱えておしまいになります。長女だから、と。……そういうお方です」
わたくしは、日記を胸に押しあてた。オルガの言うとおりだった。
*
小さいころ、雷の夜になると、わたくしは枕を抱えて、お姉様の寝台にもぐりこんだ。
「お姉様、手をつないで」
「怖いの?」
「怖くないけど、つないで」
本当は、怖かった。でも、怖いと言ったら、お姉様が心配するから、言わなかった。お姉様は、わたくしの手を握って、雷が遠くなるまで、子守歌を歌ってくれた。
お姉様は、いつも、わたくしに譲ってくれた。おもちゃも、新しいドレスも、菓子のいちばん大きなひと切れも。お父様に「長女は我慢するものだ」と言われて、黙って譲ってくれた。わたくしは、それを当たり前のように受けとって、甘えていた。
日記を読んだ夜、わたくしは、決めた。
お姉様の持ち物を、全部、わたくしがもらう。お姉様が、わたくしを恨んで、「もういらない」と言うまで。
お姉様に、憎まれるまで。
何度も考えた。打ち明けたら、お姉様は、きっと「いいのよ、わたしは長女だから」と言う。そして、印を抱えたまま、我慢して、二十五を待たずに死ぬ。我慢するのは、お姉様のいちばん得意なことだから。
だから、言わない。わたくしは、わがままな妹のまま、全部ちょうだいと言う。
*
「まず、そのリボン」
わたくしは、お姉様の髪の、白い絹のリボンを指さした。端に、青い糸でHの刺繍がある。祖母が、お姉様の十の誕生日に贈ったものだ。日記の言う、「名を縫いとった物」。
「……どうぞ」
お姉様は、首を横に振らなかった。振らないと、わかっていた。
リボンを受けとった瞬間、指先が、氷にふれたように冷たくなった。わたくしは、それを髪ではなく、自分の左手首に、ぐるぐると巻きつけた。
巻きながら、見た。手首の内側に、細い銀の線が一本、うっすらと浮かびはじめていた。リボンで、すぐに隠した。
招待客の誰かが、くすりと笑った。「お姉様のものなら、何でも欲しいのね」と、誰かが言った。
ええ、そうよ。全部、欲しいの。
わたくしは、にっこり笑ってみせた。
*
五月の雨の日、わたくしは、お姉様の部屋の扉を開けた。
「お姉様の部屋も、ちょうだい」
南向きの、窓の大きな部屋。壁には、家紋の浮き彫りがある。長女の部屋の印だ。
お父様は、いつものように、わたくしの願いをかなえた。お父様は、わたくしの言うことなら、何でも聞く。わたくしが、「生き残る子」だからだ。そのことを、わたくしは、日記を読んではじめて知った。
老侍女のオルガが、黙って、お姉様の荷物を北の屋根裏へ運んだ。オルガは、運びながら、一度だけ、わたくしを見た。
――本当に、よろしいのですか。
オルガの目は、そう言っていた。祖母の代からいるオルガは、日記のことを知っていた。わたくしが日記を見つけた夜、屋根裏の階段の下で、わたくしを待っていたのは、オルガだった。
わたくしは、小さくうなずいた。
その夜、南の部屋の寝台で、わたくしは、はじめて咳をした。壁の家紋が、暗闇の中で、ほんのかすかに、銀色に光っていた。
*
六月、わたくしは、お姉様の胸もとの鎖を見て言った。
「その時計も」
「おばあさまの形見よ」
「だから、ちょうだい」
日記の言う、「形見」。わたくしは、いちばん言いたくない言葉を、いちばん憎たらしい声で言った。
お姉様は、時計を握りしめて、それから、いつもの癖で蓋を開けて、時刻を見た。そして蓋を閉じて、鎖ごと、わたくしの手のひらにのせた。
わたくしも、蓋を開けて、時刻を見た。三時十分。すぐに閉じた。
蓋の内側に、細かい蔓の模様が彫ってあった気がする。でも、わたくしは、時刻しか見ていなかった。手が震えて、それどころではなかった。
「ありがとう、お姉様」
にっこり笑った。お姉様は、わたくしの笑顔から、目をそらした。
*
六月の終わり、屋根裏へ続く階段の下で、声が聞こえた。
「ヘレナ嬢。印のお加減は、いかがですか」
婚約者のディルク様の声だった。
わたくしは、日記の一節を思い出していた。
――家が長女に決める婚約者は、印の番人。印を持つ者を、家から出さないために、代々雇われる。
ディルク様は、お姉様を好きなのではない。お姉様の手首の印を、見張っているのだ。
*
七月、庭の白い薔薇の前で、お姉様とディルク様が並んで歩いていた。
わたくしは、日傘をくるくる回しながら、二人の前に出た。回していないと、手が震えているのが、ばれてしまう。
「ディルク様も、ちょうだい」
ディルク様は、少しも驚かなかった。お姉様の腕から、そっと自分の腕を抜いて、言った。
「……伯爵がよいとおっしゃるなら」
そして、ためらいもなく、わたくしの手を取った。ディルク様の目が、一瞬、わたくしの手首の白いリボンのあたりに落ちた。
番人が、印についてきた。印は、ちゃんと、わたくしに移りはじめている。
薔薇の前に立ちつくすお姉様を、わたくしは、振り返らなかった。振り返ったら、走って戻ってしまいそうだった。
庭の角を曲がったところで、ディルク様が、わたくしの耳もとで、低い声で言った。
「印は、あなたに移りつつありますね、フローラ嬢。……ご安心を。わたしは、印のあるほうに、お仕えします」
わたくしは、ディルク様の手を振りほどきたいのをこらえて、笑った。
*
夏のあいだに、お姉様の頬に、色が戻っていった。
春からずっと続いていたお姉様の咳が、聞こえなくなった。そのかわり、わたくしの咳が増えた。
「フローラ、その咳……」と、ある晩、お母様が言った。
「夏風邪よ、お母様」
「ヘレナは、近ごろ、咳をしなくなったわね」
お母様は、わたくしの手首のリボンを見て、何か言いかけた。わたくしは、先に言った。
「そうね。よかったわね、お母様」
お母様は、それ以上、何も言わなかった。言えなかったのだと思う。手首の銀の線は、二本、三本と増えて、いつのまにか、リボンの下で、腕輪のかたちになりかけていた。
八月のある朝、階段で、お姉様とすれちがった。
わたくしは、お姉様の顔をじっと見た。頬が、ばら色だった。春の、青白い顔とは、まるで違っていた。
「お姉様、顔色がよくなったわね」
「ええ。あなたのおかげでね」
皮肉なのは、わかっていた。でも、その皮肉が、うれしかった。お姉様は、ちゃんと、元気になっている。
「そう。よかった」
本当に、よかった。
わたくしは、白いリボンを巻いた手首を背中に隠して、階段を上った。上りきったところで、壁に手をついて、声を殺して咳きこんだ。
九月の晩餐では、こらえきれずに、扇で口もとを隠して、小さく咳をした。向かいの席のお姉様は、ちらりとこちらを見て、すぐにスープの皿に目を戻した。
気づかれなかった。よかった、と思った。
*
十月一日、継承の儀。
お父様は、家紋の彫られた銀の指輪を、わたくしの指にはめた。
「家はフローラが継ぐ」
お父様にしてみれば、最初からそのつもりだったのだ。印を持つ長女は、二十五まで生きない。だから、家を継ぐのは、はじめから「生き残る子」のわたくし。お父様は、それを知っていて、お姉様には何も言わずに、「誉れ」と呼んだ。
お母様は、うつむいて、ハンカチを握りしめていた。
「わたしには、何も残らない」
お姉様の小さな声が、聞こえた。
誰にも聞こえなかったと、お姉様は思っただろう。わたくしには、聞こえていた。指輪をはめた指が、氷のように冷たかった。
残るのよ、お姉様。命が、残るの。
*
十月の末の、霧の深い朝。
お姉様は、茶色の小さな鞄ひとつを持って、屋敷の門の前に立っていた。
わたくしは、淡い水色のショールを肩にかけて、門の前に立った。左手首には、お姉様の白いリボン。その下の銀の印は、もう、ほとんど腕輪の形になっていた。
あとひとつ。「長女という名前」。
わたくしは、最後の台詞を言った。
「お姉様の名前も、ちょうだい。この家の長女は、今日から、わたくしよ」
お姉様が、わたくしの顔を見た。長いあいだ。それから、疲れたように、目を伏せた。
「……全部、あげるわ。もう、いらない」
その瞬間、左手首が、焼けるように熱くなった。
わたくしは、右手で、手首を強く押さえた。リボンの下で、銀の印が、ぐるりと手首をひとめぐりして、閉じるのがわかった。
お姉様の手首は、真っ白だった。印は、跡形もなかった。
――生きて。
言いたかった。行かないで、とも。手をつないで、とも。
わたくしは、代わりに言った。
「二度と、戻ってこないで」
声が、途中でかすれた。お姉様は、門を出た。一度も、振り返らなかった。
霧の中に、茶色の鞄が見えなくなるまで、わたくしは、門の前に立っていた。
*
冬になって、わたくしは、寝ついた。
熱が下がらなかった。咳が止まらなかった。お医者様は、首をかしげるばかりだった。
お父様は、真っ青になった。
「なぜだ。なぜ、おまえが倒れる。おまえは、生き残る子のはずだ」
「お父様」わたくしは、かすれた声で言った。「印のことを、知っていたのね。お姉様が、二十五まで生きられないことを」
お父様は、目をそらした。
「……長女とは、そういうものだ。わたしの姉も、そうだった」
「お姉様は、そういうものじゃないわ」
お父様は、何も言わずに、部屋を出ていった。
ディルク様は、毎日見舞いに来た。
「お加減は、いかがですか」
「印のお加減、でしょう?」
わたくしが言うと、ディルク様は、少しだけ口の端を上げた。
「おわかりなら、話が早い。わたしは、印のある方のそばにいるのが役目ですので」
けれど、ディルク様が寝台のそばに座るのは、ほんの少しだけで、あとはずっと、お父様の書斎で、家の財産の話をしていた。印のある者が亡くなったあと、番人の家にいくら支払われるのか。そんな話が、廊下まで聞こえてきた。
お母様は、寝台の横で、ただ泣いていた。
「フローラ……どうして、あなたが」
わたくしは、天井を見ていた。
これでいい。お姉様は、南の町で、生きている。
*
一月のある夜、オルガが、紐でくくった手紙の束を、わたくしの枕もとに置いた。
「旦那様の、書き物机の奥にございました」
封筒の宛名は、どれも、同じ字だった。お姉様の、きちんとした字。
――母上と、フローラへ。
十一月、十二月、一月。毎月、一通ずつ。お父様が、誰にも見せずにしまいこんでいたのだ。
わたくしは、震える指で、封を切った。
――元気でいます。リンデンの薬草園で、住みこみで働いています。薬草の名前を、少しずつ覚えています。
短い手紙だった。恨みの言葉は、一つも書いていなかった。
宛名に、わたくしの名前があった。毎月、毎月。
「お嬢さまが、お発ちになる朝」と、オルガが言った。「裏口で、わたくしに、こうおっしゃいました。……フローラは、季節の変わり目に、よく熱を出すの。気をつけてあげて、と」
わたくしは、手紙を胸に抱いて、声をあげて泣いた。
お姉様は、わたくしを、憎んでいなかった。全部奪われても。
*
三月、わたくしは、お姉様に手紙を書いた。
書きたいことは、たくさんあった。ごめんなさい。ありがとう。会いたい。手をつないでほしい。
でも、お姉様が戻ってきたら、いけない。印のあるこの家に、お姉様を近づけてはいけない。
わたくしは、一行だけ書いた。
――もう、戻ってこないで。
封をする前に、オルガが、その手紙を預かった。「わたくしが、出してまいります」と言って。
二枚目を入れたことを、オルガは、わたくしに言わなかった。わたくしがそれを知ったのは、ずっとあとのことだ。
*
四月の終わり。
窓の外で、白い薔薇が、ほころびはじめていた。わたくしは、寝台の上で、ほとんど起きあがれなくなっていた。
廊下で、足音がした。オルガの声と、もうひとつ、なつかしい声。
扉が開いた。
「フローラ」
お姉様だった。髪に、見たことのない、青い細いリボンを結んでいた。後ろに、日に焼けた、背の高い男の人が立っていた。
「……どうして」
わたくしは、かすれた声で言った。
「どうして、戻ってきたの。戻ってこないでって、書いたのに」
言いながら、目は、お姉様の髪の青いリボンから離れなかった。
「そのリボン……」
「自分で選んだの。生まれてはじめて」
「……似合ってる」
「でしょう?」
それから、お姉様は、わたくしの最初の問いに答えた。
「戻ってきたんじゃないわ」とお姉様は言った。「会いに来たの」
お姉様は、寝台のそばにひざをついた。
「ルドルフさんが、手紙の紙から、薬の匂いがするって言ったの。苦艾と、咳止めの。それで、二枚目を開いたの」
お姉様の手には、小さく折りたたまれた便箋があった。オルガの字だった。
――フローラ様は、お嬢さまの印を、ご自分の身に移されました。大奥様の日記に、そう書いてございました。お嬢さまに恨まれなければ移らないと、フローラ様は一年、悪い妹を演じておられました。
「ばかね」
お姉様は、泣きながら、笑った。
「本当に、ばかね。あなたは、昔から、怖いときほど、怖くないって言う子だった」
「だめ、お姉様。近づいたら、印が……また、お姉様に戻ったら」
「戻らないわ」
お姉様は、枕もとの小卓に置いてあった、祖母の懐中時計を手に取った。
*
お姉様は、いつもの癖で、蓋を開けた。
それから、時刻を見ずに、蓋の内側に目を落とした。
「薬草園で、教わったの」とお姉様は言った。「見分けがつかないのは、目が悪いからじゃない。違いがあると思って見ていないからだって。……この時計を、わたし、何千回も開けたのに、時刻しか見ていなかった」
お姉様は、時計をわたくしの目の前に差し出した。
蓋の内側の、細かい蔓の模様。窓の光にかざすと、それは、模様ではなかった。蔓のように絡みあった、小さな、小さな文字だった。祖母の字だった。
――印を解くのは、奪うことでも、手放すことでもない。贈ることだ。
わたくしは、息をのんだ。
日記の、破りとられたページ。その答えは、ずっと、わたくしの手の中にあったのだ。毎日、蓋を開けて、時刻だけを見ていた、この時計の中に。
*
お姉様は、わたくしの左手首から、白いリボンを、そっとほどいた。
リボンの下で、銀の印が、ぐるりと手首をひとめぐりしていた。お姉様は、それを見て、唇をかんだ。
それから、そのリボンを、もう一度、わたくしの手首に結んだ。今度は、ていねいに、ちょうちょ結びにして。
「このリボン、あなたにあげる」とお姉様は言った。「取られたんじゃないわ。わたしが、あなたにあげたいの」
手首が、ふわりと温かくなった。
わたくしは、震える手で、指から継承の指輪を抜いて、お姉様の手のひらにのせた。
「この指輪、お姉様にあげる。……お姉様に、似合うと思うから」
お姉様は、指輪を握って、わたくしの手を、両手で包んだ。
「名前も、あげるわ」とお姉様は言った。「この家の長女の名前は、あなたにあげる。そのかわり、わたしは、あなたのお姉様っていう名前を、もらうわね」
手首の銀の印が、細かい光の粒になって、ほどけはじめた。
光の粒は、お姉様の手首にも、どこにも宿らなかった。窓から入ってきた春の風に乗って、白い薔薇のほうへ、きらきらと流れていった。
わたくしの手首には、白いリボンだけが残っていた。
戸口に立っていた男の人が、そっと部屋に入ってきて、わたくしに頭を下げた。
「はじめまして。ルドルフといいます。リンデンで、薬草園をやっています」
「……お姉様を、よろしくお願いします」
「こちらこそ」ルドルフさんは、やわらかく笑った。「お姉さんは、毎月、宛名にあなたの名前を書いていましたよ。書くたびに、自分でもどうしてかわからない、と言いながら」
お姉様が、顔を赤くして、ルドルフさんの袖を引いた。
「余計なことを、言わないでください」
「すみません。でも、知っておいてほしかったので」
*
そのとき、扉が乱暴に開いた。
「ヘレナ、戻ったのか! ならば、印は――」
お父様と、ディルク様だった。ディルク様は、わたくしの手首を見て、それからお姉様の手首を見て、顔色を変えた。
「印が……消えている。どちらにも」
「消えたのではありませんな」
廊下から、もうひとり、灰色の外套の男の人が入ってきた。胸に、王家の紋章をつけていた。
「王家の監察官でございます。先代の奥様の侍女から、ヒルデガルト様の日記を受けとりました」
オルガが、監察官の後ろで、深く頭を下げていた。
監察官は、日記の一ページを開いて、お父様の前に置いた。
「伯爵。長女の印を、招待客の前で『家を継ぐ者の誉れ』とおっしゃったそうですな。二十五を待たずに死ぬ誉れとは、どういう意味でございましょう」
お父様は、何も言えなかった。
「それから、番人の家。代々、長女ひとりの命と引きかえに、伯爵家から給金を受けとってこられた。その給金は、すべて調べさせていただきます」
ディルク様は、真っ青になって、後ずさった。
お姉様が、立ちあがって、お父様の前に出た。
「お父様。去年の五月、書斎で、わたしにおっしゃいましたね。印のある者は、家のためにある、と」
お父様の肩が、びくりと震えた。
「わたしは、家のためにあるのではありません。フローラも。……わたしたちは、わたしたちのために生きます」
お姉様の声は、少しも震えていなかった。わたくしの知っている、我慢ばかりしていたお姉様の声では、なかった。
*
その夜、お母様が、わたくしたちの部屋に来た。
お母様は、お姉様の前で、床にひざをついた。
「ヘレナ……ごめんなさい。あなたを愛したら、失うのが怖かったの。だから、目をそらしてきた。あなたは、何も悪くなかったのに」
お姉様は、しばらく黙っていた。それから、お母様の手を取って、立ちあがらせた。
「もう、いいの。お母様」
それだけ言った。お母様は、お姉様の肩に顔をうずめて、子どものように泣いた。
お母様が部屋を出ていったあと、戸口に、オルガが控えていた。
「オルガ。二枚目を、入れたのね」
「申し訳ございません」オルガは、深く頭を下げた。「オルガは、生まれてはじめて、お嬢さまとのお約束を破りました。……大奥様がお若いころ、オルガは、まだ小さな見習いでございました。あのとき何が起きたのか、オルガにはわかりませんでした。ただ、大奥様の妹君が、泣きながら手紙を書いておられたのを、覚えております。ですから、今度こそは、と」
「ありがとう、オルガ」
わたくしが言うと、オルガは、しわだらけの手で、目もとを押さえた。
*
五月。わたくしの熱は、すっかり下がった。
お姉様は、ルドルフさんと一緒に、リンデンに帰ることになった。帰る前の晩、わたくしたちは、屋根裏の、お姉様が一年過ごした部屋の窓辺に、並んで座った。
小さな窓の向こうに、祖母の植えた白い薔薇が、満開に咲いていた。
「ここから、ずっと、この薔薇を見ていたの」とお姉様は言った。「あなたに部屋を取られて、ここに来て、少しだけ、ほっとした。……あれも、あなたのおかげだったのね」
「わたくしは、お姉様から、全部取りあげたのよ」
「ええ。全部取りあげて、わたしを、生かしてくれた」
お姉様は、窓の外の薔薇を見たまま、聞いた。
「ねえ、フローラ。あなたは、何が好き?」
「お姉様が好きなものが、好き」
思わずそう答えると、お姉様は、目を丸くして、それから、くすくす笑った。
「だめよ。昔のわたしと同じことを言わないで。自分の好きなものを、言ってごらんなさい」
わたくしは、少し考えた。
「……白い薔薇。それから、雷の夜に、お姉様の寝台にもぐりこむこと」
「それは、もう、十六の子のすることじゃないわ」
「十七よ。この冬、ひとつ、年をとったもの」
窓の外で、遠く、春の雷が鳴った。
わたくしは、お姉様の袖を、そっと引いた。
「お姉様、手をつないで」
「怖いの?」
「怖くないけど、つないで」
お姉様は、笑って、わたくしの手を握った。昔と同じ、あたたかい手だった。
わたくしは、全部ちょうだいと言った。リボンも、部屋も、時計も、婚約者も、家も、名前も。
――全部もらったら、最後に、お姉様が残った。




