第3話「お茶の、約束」
お茶をきっかけに、菜々子と植え込みの奥のおにいさんの距離が少しずつ近づいていく物語です。
次の日も、わたしは公園に来た。
手には、水とう。
麦茶を入れてきた。
お母さんには、ないしょ。
だって、「知らない人に近づいちゃだめ」って、いつも言われてるから。
でも、おにいさんは、知らない人じゃない。
……ううん。
本当は、知らない人。
名前も、知らない。
でも、知らない人って感じがしない。
うまく言えないけど。
植え込みの前に、しゃがむ。
葉っぱのすきまからのぞくと、今日もおにいさんはいた。
同じ場所。
同じかっこう。
「おにいさん」
水とうをすきまから差し出す。
「お茶。飲む?」
おにいさんは、答えない。
でも、昨日よりちょっとだけ、顔をこっちに向けた気がした。
わたしは、水とうを地面に置いた。
おにいさんの手が届くところに。
「ここ、置いとくね」
それだけ言って、少し離れる。
近くにいすぎると、いやがるから。
遠すぎると、聞こえないから。
ちょうどいい距離が、ある。
わたしは、それをもう覚えた。
おにいさんのとなりに行くんじゃなくて。
おにいさんが、手を伸ばせるところに置く。
それが、今のわたしにできる、いちばん近い場所だった。
水とうの外側が、冷たい。
中の氷が、まだとけてない。
おにいさんに、冷たいまま、飲んでほしいから。
わたしは、家を出る前に、冷蔵庫の氷をいっぱい入れてきた。
だから、ちょっと重かったけど。
平気。
しばらくして。
水とうのふたが、かちゃ、と鳴った。
飲んだ。
おにいさん、お茶、飲んだ。
わたしは、うれしくて、にこっとした。
でも、声には出さない。
声を出すと、おにいさんがはずかしがるから。
心の中でだけ、つぶやく。
やった、って。
その音は、小さかった。
でも、わたしには、返事みたいに聞こえた。
そんな日が、いくつも続いた。
あさがおが、咲いて、しぼんで、また、咲いた。
蝉の声が、少しずつ変わっていく。
はじめはジージーだったのが、今はシャワシャワって鳴く蝉もまじる。
お母さんが、「もうすぐ、お盆ね」って、言ってた。
夏が、半分すぎた。
わたしは、毎日公園に来た。
水とうと、ときどき、あめ玉と。
一度、おにぎりを持っていったら、それは食べてくれなかった。
でも、お茶は、いつも飲んでくれる。
おにいさんは、少しずつ顔を上げるようになった。
まだ、笑わない。
まだ、名前も、教えてくれない。
でも、わたしが「お茶」って言うと、小さくうなずく。
それだけで、わたしは、うれしかった。
おにいさんの世界の入り口が、ほんの少しだけ、開いたみたいだった。
でも。
おにいさんは、相変わらず、長そでのまま。
相変わらず、植え込みのいちばん奥にいる。
わたしがいくらお茶を持っていっても、そこから、一歩も出てこない。
まるで、植え込みがおにいさんの家みたいに。
わたしは、それがずっと気になっていた。
ある日。
いつものように、水とうを差し出したとき、おにいさんがぽつりと言った。
「……きみ、なんで、毎日くるの」
はじめて、おにいさんから話してくれた。
わたしは、びっくりして、水とうをぎゅっとにぎった。
「えっと」
うまく、答えられない。
なんで、だろう。
自分でも、よく、わからない。
「……ほっとけないから」
やっとそれだけ言った。
おにいさんは、少しだまった。
それから、小さく笑った。
ううん。
笑ったんじゃないかも。
でも、口のはしが、ちょっとだけ動いた。
「……変なやつ」
そう言って、おにいさんは、また下を向いた。
でも、その声は、もう、あのときの悲しい声じゃなかった。
変なやつ。
いやな言い方じゃ、なかった。
わたしのことを、ちゃんと見て言った、はじめての言葉だった。
その日から、おにいさんは、少しだけ話すようになった。
ぽつり、ぽつり。
一言か、二言。
でも、それだけで、わたしには宝物だった。
名前は、まだ教えてくれない。
わたしも、聞かない。
聞いたら、おにいさんが、困る気がするから。
名前を教えるって、なんだか大切なことだから。
おにいさんが、教えたくなるまで、待つ。
わたしは、待てる。
待つ、ということも。
見ている、ということなのかもしれない。
あるとき、わたしは、聞いてみた。
「おにいさんは、どうして、ここにいるの」
おにいさんは、しばらくだまっていた。
それから、小さく言った。
「……ここが、いちばん、安全なんだ」
安全。
変な言葉だ、と思った。
公園の植え込みの奥が、どうして安全なんだろう。
家の中のほうが、ずっと安全なのに。
でも、おにいさんには、ここが安全なんだ。
わたしには、見えない何かが、あるんだ。
家より、学校より、ここがいいっていう何かが。
それって、すごく悲しいことだ、と思った。
理由は、うまく言えない。
でも、それだけは、わかる。
一度、わたしがもっと近づこうとしたら、おにいさんは、急にこわい顔をした。
「……来るな」
そして、すぐに言いなおした。
「……ごめん。そうじゃなくて」
おにいさんは、うつむいて、小さく言った。
「きみが、ぼくといると。きみまで、巻きこまれる。けがをするかもしれない」
巻きこまれる。
何に?
わたしには、すぐにはわからなかった。
でも、おにいさんが、わたしを心配してくれてるのがわかった。
自分が、こんなに大変なのに。
わたしのことを心配してる。
わたしは、なんだか悲しくなった。
その日の帰り道。
わたしは、いつもみたいにスキップできなかった。
家に帰って、ごはんを食べて、おふろに入って、ふとんに入って。
天井を見ていたら、急にこわくなった。
おにいさんは、まだ長そでのままだ。
まだ、植え込みの奥にいる。
毎日、お茶を飲んでくれる。
ちょっとだけ、話してくれる。
でも、それだけ。
おにいさんは、あそこから、全然出られない。
わたしが、お茶を持っていくだけじゃ。
何も、変わらない。
わたしじゃ、助けられない。
ずっとわかってた。
でも、見ないふりをしてた。
お茶を飲んでくれるだけで、満足してた。
本当は、ちがうのに。
おにいさんに必要なのは、お茶じゃ、ない。
お茶は、入り口だった。
でも、出口じゃなかった。
もっとちゃんとした助け。
大人の、助け。
わたしは、まだ六さいで。
力も、ないし。
難しいことも、できない。
でも、一つだけできることが、ある。
大人を呼ぶこと。
わたしじゃできないなら、できる人を連れてくればいい。
誰を呼ぼう。
お父さんは、忙しい。
お母さんも、忙しい。
学校の先生は、夏休みでいない。
……でも。
一人、いる。
ひまそうで、やさしくて、困った人の話を聞いてくれる人。
明日、あの人のところへ行こう。
わたしは、ふとんの中で、目をぎゅっとつぶった。
明日。
明日、絶対、大人を呼ぼう。
もう、決めた。
——おにいさん。
待ってて。
ジオンさんがくれば、きっとなんとかなる。
わたしは、そう、自分に言い聞かせた。
本当に、なんとかなるのかは、わからなかった。
でも、今、できることは、それだけだった。
麦茶ひとつで人を救おうとする六歳がいてもいい。小さな優しさの回でした。( ^^) _旦




