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また彼女を優先なさるのですね」と言うのをやめた日、王太子殿下の予定表から私の名前を消しました ~婚約破棄は承りましたので、八年分の公務もお返しいたします~

作者: カルラ
掲載日:2026/05/09

「エレノア・リーデン。君との婚約を破棄する」


王立学院の卒業記念舞踏会。


祝福の音楽が流れる大広間の中央で、私の婚約者である王太子アルヴィン殿下は、よく通る声でそう告げた。


磨き上げられた大理石の床。幾百もの蝋燭を灯したシャンデリア。壁際には着飾った貴族の子女たちが並び、楽団の奏でる優雅な旋律は、殿下の言葉を聞いた瞬間に乱れた。


誰かが息を呑む音がした。


けれど、私の胸は不思議なほど静かだった。


殿下の隣には、白いドレスをまとった男爵令嬢ルミナ・ベル様がいる。


彼女は今にも倒れそうな顔で胸元を押さえ、潤んだ瞳で殿下を見上げていた。けれど、その細い指だけはしっかりと殿下の腕に絡みついている。


私はその姿を見て、以前の自分ならきっとこう言っただろうと思った。


――また彼女を優先なさるのですね。


観劇の日も。


国賓との茶会の日も。


王都慈善院の子どもたちが殿下を待っていた日も。


私は何度もそう言った。


責めるためではない。ただ、確認するためだった。


殿下が何を選び、何を捨てたのか。私自身が、何を期待し、何を諦めなければならないのか。それを一つずつ心に刻むために。


けれど今夜、もうその言葉を口にする必要はなかった。


だって殿下は、最後に私ではなく彼女を選ぶと、これ以上なくはっきり宣言してくださったのだから。


「聞いているのか、エレノア」


殿下の声が、わずかに苛立ちを帯びる。


「はい、殿下」


私は静かに答えた。


王太子アルヴィン殿下は、昔から華やかな方だった。


金糸のような髪に、晴れた空を思わせる青い瞳。幼い頃から人々の視線を集め、笑えば誰もが許してしまう。そんな方だった。


私は七歳の時、殿下の婚約者に選ばれた。


それから十一年。


王妃教育は、呼吸をするのと同じくらい私の生活に染みついていた。


朝は歴史と法学。昼は語学と外交儀礼。夕方は舞踏、礼法、宮廷作法。夜には翌日の式典予定を確認し、殿下が読むべき書類に印をつける。


殿下は細かい仕事が苦手だった。


だから私は、殿下が人前で恥をかかないよう、いつも準備をした。


会議で問われそうなことを短くまとめ、難しい言葉を平易な表現に直し、相手国の風習や禁句を事前に伝えた。


殿下が地方領主の名を覚えられないなら、招待状の席次表に小さな印をつけた。


殿下が慈善院への視察を面倒がるなら、子どもたちが殿下に渡すはずだった花束を、私が代わりに受け取った。


すべて、未来の王太子妃として当然のことだと思っていた。


少なくとも、そう思おうとしていた。


「君は、ルミナを傷つけた」


殿下は私を睨みつけながら言った。


「病弱で心優しい彼女に嫉妬し、何度も冷たい言葉を投げかけた。彼女は何度も泣いていた。君のような冷酷な女を、私は未来の妃にするわけにはいかない」


「アルヴィン様……」


ルミナ様が震える声で殿下の名を呼ぶ。


「わたくし、エレノア様を責めたいわけではございません。ただ、殿下のお側にいると、どうしても胸が苦しくなって……。でも、それはきっと、わたくしが弱いせいなのです」


「違う、ルミナ。君は何も悪くない」


殿下は彼女の肩を抱いた。


広間に小さなざわめきが走る。


気の毒そうに私を見る者。面白そうに成り行きを見守る者。ルミナ様に同情する者。殿下の無分別さに顔をしかめる者。


私はそれらの視線を受け止めながら、ゆっくりと息を吸った。


そして、微笑んだ。


「承りました」


「……何?」


「婚約破棄を、お受けいたします」


殿下が目を見開いた。


おそらく、泣いてすがると思っていたのだろう。もしくは怒り、ルミナ様を罵るとでも。


けれど、私はどちらもしなかった。


もう、殿下のために心を乱す時間すら惜しかった。


「ずいぶんと潔いな。罪を認めるということか」


「罪については、後ほど正式な場でご確認いただければと存じます。ただ、婚約破棄については承りました」


私は腰に下げていた銀の鍵を外した。


その鍵を見た瞬間、侍従長の顔色が変わる。


王太子執務室と、王家予定簿を保管する時計塔の鍵。


それは王太子の婚約者として、私にだけ預けられていたものだった。


「侍従長」


「は、はい」


「こちらをお返しいたします」


私が鍵を差し出すと、侍従長は両手で受け取った。


殿下は眉をひそめる。


「何の真似だ」


「婚約が破棄された以上、私は殿下の代理権を失います。王家予定簿の管理権限も、王太子執務室への入室権限も、本日をもってお返しいたします」


「そんなもの、明日でいいだろう」


「いいえ。婚約破棄は、先ほど殿下が皆様の前で宣言なさいました。であれば、今この時点で私には資格がございません」


「資格だと? 君は私の婚約者だったのだぞ。最後まで責任を持つべきだ」


私は少しだけ首を傾げた。


「最後、でございますか」


「そうだ」


「殿下がお決めになった最後は、たった今でございます」


殿下の顔に不快感が浮かぶ。


私は続けた。


「明日以降の通商条約確認会、王都慈善院への支払い承認、北部領主会議への返信、王妃陛下主催の茶会準備、春季叙勲式の席次調整、すべて殿下ご自身でお願いいたします」


「何を馬鹿な。そんな雑事は侍従や文官がすることだろう」


「侍従や文官は補佐をいたします。ですが、王太子殿下の名で行われる公務の最終確認と代理署名は、これまで婚約者である私が正式な委任を受けて行っておりました」


「つまり、君は私を脅すつもりか」


「いいえ」


私はまっすぐ殿下を見た。


「解放していただいたのです」


広間がしんと静まり返った。


その静寂の中、一人の男性がゆっくりと歩み出た。


深い銀灰色の髪に、落ち着いた菫色の瞳。黒を基調とした隣国式の礼装をまとった青年。


隣国ヴェルナー公爵家の若き当主、ライナス・ヴェルナー公爵だった。


彼は私の前で足を止め、深く礼をした。


「リーデン公爵令嬢。長きにわたり、我が国との外交にご尽力いただいたこと、ヴェルナー公爵家として感謝申し上げます」


思いがけない言葉に、私は瞬きをした。


「公爵閣下、私は当然のことをしたまででございます」


「その当然を、丁寧に積み重ねてくださった方に礼を述べるのも、また当然のことです」


殿下が苛立ったように声を上げる。


「ライナス殿。これは我が国の問題だ」


「はい、殿下。ですから、貴国の王太子殿下が明朝の通商条約確認会にご出席なさるかどうか、我が国の使節団として楽しみにしております」


殿下の表情が固まった。


明朝の予定を、覚えていなかったのだろう。


私は静かに礼をして、広間を後にした。


背後でルミナ様が小さく笑った気配がした。勝ち誇ったような、甘い吐息。


けれど、私は振り返らなかった。


その夜、私は一人で時計塔へ向かった。


王宮の東端に建つ古い塔。王家の公務予定を記した予定簿が保管されている場所だ。


壁に掛けられた魔導時計が、夜の十時を告げていた。


厚い扉を開けると、紙とインクの匂いがした。何度も訪れた部屋。何度も夜を明かした机。書棚には過去十年分の予定簿が整然と並んでいる。


私は中央の机に置かれた、今年の王家予定簿を開いた。


王太子アルヴィン・レイナード。


その公務欄の隣には、委任代理者として私の名が記されている。


エレノア・リーデン。


十一年前は、その名が誇らしかった。


殿下を支え、国を支え、未来の王妃となる。そう教えられ、そう信じてきた。


けれどいつからだろう。


その名を見るたび、胸が苦しくなったのは。


観劇の席で一人残された日。


国賓を前に、殿下の不在を笑顔で詫びた日。


慈善院の子どもが「王子様は来ないの?」と尋ね、私は答えに詰まった日。


ルミナ様が殿下の隣で笑い、殿下が私に向かって「君はもう少し優しくなれ」と言った日。


そのたびに私は、自分の感情を折り畳んできた。


王太子妃になるのだから。


国のためなのだから。


私が我慢すれば済むのだから。


けれど、もう済ませなくていい。


私はペンを取り、委任代理者の欄に書かれた自分の名前へ、まっすぐ線を引いた。


ただそれだけのことだった。


それなのに、胸の奥で何かがほどけた。


深く息を吸う。


まるで初めて呼吸をしたような気がした。


翌朝、王宮は混乱した。


まず、アルヴィン殿下は通商条約確認会に遅刻した。


いつもなら、私は朝のうちに殿下の侍従へ衣装の指定、必要書類、会議の要点、相手方の出席者名簿を渡していた。殿下が朝食を終える頃には、机の上に発言順を記した紙が置かれている。


けれど、その日は何もなかった。


侍従たちは身支度を整えることはできても、どの書類を持たせればよいかまでは判断できない。王太子の公務の内容を最終的に確認するのは、王太子本人の責務だからだ。


殿下は三十分遅れで会議室に現れたという。


しかも、持参した書類は去年の港湾協定の写しだった。


隣国使節団は困惑し、ライナス公爵は静かに尋ねた。


「殿下。今回の議題は、南部街道の関税率改定と、穀物輸送路の安全保障についてです。先月、エレノア様より大変明快な草案をいただいておりますが、殿下としてはこの条件を承認なさいますか」


殿下は答えられなかった。


草案を読んでいなかったからだ。


読んでいたとしても、内容を理解していたかは怪しい。


会議は延期された。


次に、王都慈善院から使者が来た。


今月分の薬代と食糧費の支払い確認が済んでいないという。


殿下は「財務官に言え」と怒鳴ったそうだ。


しかし財務官は首を横に振った。


その支払いは王太子殿下の個人慈善事業として処理されており、毎月不足分を補填していたのは私の持参金だった。


殿下はそれを知らなかった。


さらに午後には、北部領主たちから問い合わせが相次いだ。


雪解けの時期に合わせた道路補修費の承認状が届いていない。王太子殿下からの見舞い状が来ない。昨年約束された橋梁工事の進捗確認はどうなっているのか。


それらの手紙も、これまで私が下書きをしていた。


殿下は署名するだけだった。


署名するだけで、人は自分が仕事をしたと思えるらしい。


だが、その紙がどこから来て、誰の手で整えられ、どれだけの調整を経て机に置かれていたかを知らなければ、署名すらできない。


昼過ぎ、侍従長がリーデン公爵邸を訪ねてきた。


私は応接室で彼を迎えた。


父と母も同席している。


侍従長は憔悴しきった顔で頭を下げた。


「エレノア様。大変恐縮ではございますが、殿下が至急お戻りいただきたいと」


「どちらへでしょうか」


「王宮へ、でございます」


「何のために?」


「その……明日以降のご予定の整理と、本日の会議の補佐を」


私は紅茶のカップを置いた。


「侍従長。私は昨日、殿下との婚約を破棄されました」


「はい」


「王太子殿下の代理権も返上いたしました」


「承知しております」


「であれば、私が王宮へ戻る理由はございません」


侍従長はさらに深く頭を下げた。


「ですが、このままでは公務が滞ります」


「それは王太子殿下の問題です」


その言葉を口にした瞬間、私は少しだけ驚いた。


ああ、言えるのだ。


私は、殿下の問題を自分の問題にしなくてもいいのだ。


侍従長は何も言えず、やがて肩を落として帰っていった。


その日の夕方、別の訪問者があった。


ライナス・ヴェルナー公爵である。


彼は正式な訪問状を出し、父の許可を得て、花束ではなく小さな菓子箱を持って現れた。


「突然の訪問をお許しください」


「ようこそお越しくださいました、公爵閣下」


「どうかライナスと。昨日、貴女は私を公爵閣下と呼ぶ余裕すらない状況だったでしょうから」


冗談めかした言い方ではなかった。けれど、不思議と責められている気はしなかった。


庭園に面した小さな応接室で、私たちは向かい合って座った。


母が気を利かせて席を外す。もちろん扉の向こうには侍女が控えている。礼儀に外れることは何もない。


ライナス様は茶器に視線を落とし、少し間を置いてから言った。


「昨日の今日で申し上げるべきことではないかもしれません。ただ、一つだけお伝えしたかった」


「何でしょうか」


「貴女の八年間は、無駄ではありません」


その言葉に、胸が詰まった。


無駄ではない。


誰かに、そう言ってほしかったのかもしれない。


けれど私は微笑みを崩さずに答えた。


「私は、するべきことをしただけです」


「そうですね。貴女はいつもそう仰る」


ライナス様は鞄から数枚の書類を取り出した。


「これは、昨年の雨季前に貴女が作成された輸送日程案です。国境付近の村に負担が集中しないよう、荷馬車の経路を三つに分けている。さらに、我が国の聖花祭の日程を避けて会談を組んでくださった」


「当然の配慮です」


「その当然を、こちらから頼む前に行ってくださった」


彼は次の書類を示した。


「こちらは、南部街道の補修計画。貴女は工期を短くする案ではなく、街道沿いの宿場町に利益が落ちる案を選んだ。時間はかかりますが、民が疲弊しない」


「それは……短期的な効率だけを見れば、別の案もありました」


「けれど貴女は人を数字として扱わなかった」


ライナス様の声は静かだった。


「私は、貴女の文書を読むたび、書いた方はとても誠実な人なのだと思っていました」


息がうまく吸えなくなった。


褒められたことは、何度もある。


完璧だと。王太子妃にふさわしいと。よくできた令嬢だと。


けれど、それは私の役割を褒める言葉だった。


ライナス様の言葉は、私がその裏で何を考え、何を大切にしていたかを見ているようだった。


「私は……」


声が震えそうになり、慌ててカップを持った。


「私は、ただ失敗したくなかっただけかもしれません。殿下が恥をかかないように。国が困らないように。誰かに責められないように」


「それでも、貴女の仕事で助かった人がいます」


ライナス様は優しく言った。


「私も、その一人です」


窓の外では、春の花が風に揺れていた。


王宮にいた頃は、花が咲く時期すら予定表で知った。庭を見る余裕などなかった。


「エレノア様」


「はい」


「空いたご予定があるのなら、最初の一日を私にいただけませんか」


私は思わず彼を見た。


心のどこかが警戒する。


また何かを求められるのではないか。


また、役に立つことを期待されるのではないか。


けれどライナス様は、私の不安に気づいたように小さく首を横に振った。


「貴女を働かせるためではありません」


「では、何のために?」


「休ませるために」


その言葉は、あまりにも予想外だった。


休む。


私が。


そんなことを考えたこともなかった。


「何をすればよろしいのでしょう」


思わずそう尋ねると、ライナス様は少しだけ目を丸くした。


そして、初めて小さく笑った。


「何もしないのです」


「何もしない……」


「はい。庭を歩く。お茶を飲む。花の名前を知らなければ、知らないまま眺める。疲れたら座る。話したくなければ話さない」


「それは、予定と言えるのでしょうか」


「立派な予定です」


私は返事をしなかった。


けれどその夜、真新しい予定帳を開き、明日の欄に小さく書き込んだ。


――何もしない日。


その文字を見て、私はなぜか泣きそうになった。


数日後、王宮から正式な召喚状が届いた。


差出人は国王陛下。


内容は、婚約破棄に伴う一連の疑義について、関係者を集め確認を行うというものだった。


父は私を心配したが、私は出席することにした。


逃げる必要はなかった。


王宮の小会議室には、国王陛下、王妃陛下、数名の重臣、父、母、アルヴィン殿下、ルミナ様、そしてライナス様がいた。


ルミナ様は青ざめた顔で椅子に座っている。今日も胸元に手を当てていたが、その指先が震えているのは演技だけではなさそうだった。


殿下は疲れた顔をしていた。


たった数日で、華やかだった金髪は乱れ、目の下には薄い影がある。


国王陛下が重々しく口を開いた。


「エレノア・リーデン。まずは、このたびの件について、王家を代表して謝罪する」


私は立ち上がり、礼をした。


「陛下のお言葉、恐れ入ります」


「そなたに長く負担をかけた。王太子の補佐という名目で、本来アルヴィンが学ぶべきことまで担わせていた」


アルヴィン殿下が顔を上げる。


「父上、私は――」


「黙れ」


国王陛下の一言で、殿下は口を閉じた。


続いて、宰相が書類を読み上げる。


ルミナ様が訴えていた被害の記録についてだった。


階段から突き落とされたとされる日、私は隣国使節との会談に出席していた。出席者全員の署名が残っている。


毒入りの茶を出されたとされる茶会では、使用された茶葉はルミナ様自身が持ち込んだものだった。しかも、毒は検出されていない。ただし顔色を悪く見せる刺激性の香油が、彼女のハンカチから見つかった。


冷たい言葉をかけられたという訴えについては、同席していた侍女たちの証言があった。


私が言ったのは、「医師をお呼びしましょうか」「お部屋までお送りいたします」「殿下は本日、国賓との会談がございます」の三つだけ。


そのどれもが、いじめとは言い難かった。


宮廷医師も証言した。


「ベル嬢に、王太子殿下を頻繁に呼び出さねばならぬほどの重い発作は確認されておりません。少なくとも、ここ半年に訴えられた症状の多くは、医学的所見と一致いたしませんでした」


「嘘です……」


ルミナ様がか細い声で言う。


「わたくし、本当に苦しくて……」


国王陛下が冷たく見た。


「ではなぜ、発作が起きる時間はいつも王太子の公務直前だったのだ」


「それは……」


「なぜ、エレノアが同席していない場では元気に庭を散歩していた」


「違います、わたくしは……」


ルミナ様は殿下にすがるような目を向けた。


「アルヴィン様、信じてくださいますよね? わたくしはただ、殿下をお慕いしていただけで……」


殿下は唇を噛んだ。


数日前なら、迷わず彼女を庇っただろう。


けれど今の殿下には、その余裕がなかった。


自分がどれだけ多くのものをエレノアに任せていたのか、嫌でも思い知らされた後だったからだ。


「ルミナ……君は、本当に病ではなかったのか」


「そんな言い方、ひどいですわ」


ルミナ様の瞳に涙が浮かぶ。


「殿下まで、わたくしを疑うのですか? エレノア様が何か言ったのでしょう? わたくしを陥れようとして――」


「私は何も申し上げておりません」


私は静かに言った。


「証拠が語っているだけです」


ルミナ様の顔が歪んだ。


その表情を見て、殿下の目に初めて迷いが浮かぶ。


彼女は可憐で弱く、守るべき存在だった。


けれど、それは殿下がそう見たかっただけなのかもしれない。


重い沈黙の中、殿下が私を見た。


「エレノア」


「はい」


「君は……本当に、ルミナを責めていなかったのか」


「はい」


「だが、君はいつも言っていただろう。『また彼女を優先なさるのですね』と」


「はい。申し上げました」


「それは責める言葉ではないのか」


私は少しだけ考えた。


そして、まっすぐ答えた。


「事実を確認しておりました」


「事実……?」


「私は、殿下に私を優先してほしかったのではありません」


殿下の瞳が揺れる。


「国賓との約束。慈善院の子どもたち。地方領主との会談。殿下を信じて待っていた人々。それらを優先していただきたかったのです」


殿下は言葉を失った。


「ルミナ様を大切になさること自体を、責めたことはございません。ただ、王太子として果たすべき責務を後回しにし続けたことについて、私は確認しておりました」


「私は……」


殿下は顔を伏せた。


「私は、君が嫉妬しているのだと……」


「そう思われた方が、殿下には楽だったのでしょう」


自分でも驚くほど、声は穏やかだった。


「私を冷たい女にしてしまえば、殿下はご自身の責務から目を逸らせますから」


殿下の肩が震えた。


国王陛下が宣言する。


「アルヴィン・レイナード。そなたの王太子位を一時停止し、継承権について再審議する。今後一年、政務から離れ、王族としての基礎教育をやり直せ」


「父上……!」


「また、ルミナ・ベルとの婚約は認めぬ。ベル男爵家には監督処分を下す。ルミナ・ベルは虚偽申告および王族公務妨害の疑いにより、王都修道院で謹慎とする」


「そんな……!」


ルミナ様が悲鳴を上げた。


「わたくしは愛されただけですわ! 殿下が勝手にわたくしを選んだのです! わたくしは何も――」


「黙りなさい」


王妃陛下の冷たい声が響いた。


「愛されたことを免罪符にして、他人の責務を壊してよい理由にはなりません」


ルミナ様は青ざめ、椅子に崩れ落ちた。


その後、殿下がゆっくりと私に近づいた。


ライナス様が一歩動きかけたが、私は視線で制した。


これは私が終わらせるべきことだった。


「エレノア」


「はい、殿下」


「戻ってきてくれないか」


部屋の空気が凍る。


「君がいなければ、私は……私は何もできない」


その言葉を、昔の私が聞いたらどう思っただろう。


必要とされていると喜んだだろうか。


まだやり直せると、手を伸ばしただろうか。


でも今の私には、はっきりわかった。


殿下は私を愛していたのではない。


私がしていたことを、必要としていただけだ。


「殿下」


私は静かに微笑んだ。


「私はもう、あなたの予定表にはおりません」


殿下の顔から血の気が引いた。


「どうか、ご自身の予定はご自身でお決めください」


それ以上、言うことはなかった。


会議が終わった後、国王陛下は改めて私と父に謝罪した。


リーデン公爵家への慰謝料と名誉回復の公告、私の王宮職務からの正式な解放が約束された。


王妃陛下は、私の手を取って言った。


「あなたを娘のように思っていたわ。だからこそ、甘えてしまったのね」


「王妃陛下」


「もう、誰かのためだけに生きなくてよいのですよ」


その言葉に、胸が温かくなった。


けれど私は、王宮には戻らなかった。


数週間が過ぎた。


アルヴィン殿下は離宮に移り、教育を受け直していると聞いた。ルミナ様は修道院で、最初の一週間ずっと泣き暮らしたらしいが、誰も特別扱いをしなかったため、やがて泣くのをやめたという。


王宮の公務は一時混乱したが、国王陛下が直轄で立て直し、各部署に正式な責任者が置かれた。


私一人に押しつけられていた仕事は、ようやく本来の場所へ戻っていった。


私はというと、何もしない日の過ごし方を少しずつ覚えていた。


朝、予定帳を開かずに庭へ出る。


花の名前を知らないまま眺める。


紅茶が冷めても、誰にも叱られない。


読みかけの本を途中で閉じても、誰にも迷惑をかけない。


そして時々、ライナス様が訪ねてくる。


彼は決して急かさなかった。


仕事の話をする日もあれば、しない日もある。


隣国の美しい湖の話。山間の修道院で作られる蜂蜜酒の話。彼が幼い頃、礼法の授業から逃げ出して庭師に叱られた話。


ある日、彼は庭園の東屋で私に一通の書状を差し出した。


「これは、我が国からの正式な招待状です」


「招待状?」


「はい。隣国ヴェルナー領で、来月、春の市が開かれます。もし貴女が望むなら、客人としてお迎えしたい」


私は書状を受け取った。


そこには、外交顧問や政略結婚といった文字はなかった。ただ、春の市への招待と、滞在中の安全を保証する文言だけが記されている。


「仕事ではないのですね」


「仕事ではありません」


ライナス様は穏やかに言った。


「もちろん、貴女が望むなら、いつかその知識を貸していただきたいと思う日は来るでしょう。ですが、それは貴女が選ぶことです」


「私が選ぶ……」


「はい。貴女はどこへでも行けます。私の国へ来てもいい。来なくてもいい。働いてもいい。働かなくてもいい」


彼は少しだけ照れたように視線を伏せた。


「ただ、貴女が貴女自身の予定を選べるよう、私は隣にいたいと思っています」


風が吹き、東屋の外で白い花びらが舞った。


私はしばらく何も言えなかった。


愛の言葉としては、遠回しすぎるのかもしれない。


けれど私には、それが何よりも深く響いた。


役に立つからではなく。


完璧だからではなく。


王太子妃にふさわしいからでもなく。


ただ、私が私のままでいることを許してくれる言葉だった。


「ライナス様」


「はい」


「私はまだ、自分の予定を決めるのがあまり上手ではありません」


「存じています」


「ひどいですわ」


「失礼。ですが、だからこそ練習すればよいのです」


彼は真面目な顔で言った。


「最初の予定は、何にしますか」


私は膝の上の予定帳を開いた。


以前の予定帳は、殿下の公務でびっしり埋まっていた。


誰に会うか。何を話すか。何を補うか。何を謝るか。


けれど今の予定帳は、ほとんど白紙だ。


その白さが、以前は怖かった。


今は少しだけ、眩しい。


私はペンを取り、一行目に文字を書いた。


――何もしない日。


そこまで書いて、少し迷う。


そして、続きを書き足した。


――隣に、ライナス様。


ライナス様がそれを見て、静かに目を細めた。


「光栄です」


「本当に何もしませんよ」


「ええ」


「会議もありませんし、書類も読みません」


「素晴らしい」


「紅茶を飲んで、花を眺めるだけです」


「最高の予定です」


私は思わず笑った。


笑ってから、自分がこんなふうに声を出して笑うのは久しぶりだと気づいた。


遠くで鐘が鳴る。


王宮の時計塔の鐘ではない。リーデン公爵家の庭にある、小さな午後の鐘だ。


私はもう、あの時計塔に縛られていない。


誰かの予定を整えるためだけに、朝を迎えなくてもいい。


誰かに後回しにされるたび、自分の心を折り畳まなくてもいい。


もう二度と、「また彼女を優先なさるのですね」と言う必要はない。


これからは、私を大切にしてくれる人と、自分自身の時間を選んでいく。


予定帳の白いページに、春の光が落ちていた。


その日、エレノアの予定表には初めて、誰かのためではなく、彼女自身の幸せが書き込まれた。


けれど、幸せというものは、予定帳に一行書き込んだだけで突然上手に扱えるようになるものではなかった。


翌朝、私はいつもの時間に目を覚ました。


まだ空は薄青く、庭師が朝露を払う前の静けさが屋敷を包んでいる。王宮にいた頃なら、すでに侍女に髪を結わせながら、その日の式典予定を確認していた時間だ。


私は寝台の上で上半身を起こし、しばらくぼんやりと窓の外を見た。


今日は何もしない日。


昨日、確かにそう決めた。


けれど心のどこかが落ち着かない。


何もしないとは、何をしないことなのだろう。


読書はしていいのか。刺繍は。庭の散歩は。手紙の返事は。朝食の後、父の書斎に顔を出して領地の帳簿を見せてもらうのは、やはり「何かをしている」ことになるのだろうか。


そんなことを真剣に考えている自分がおかしくて、私は小さく笑った。


「お嬢様?」


寝室に入ってきた侍女のマリーが、不思議そうな顔をする。


「どうかなさいましたか」


「いいえ。ただ、何もしないというのは難しいのね」


マリーは一瞬目を丸くしたあと、ふわりと笑った。


「でしたら本日は、何もしない練習をなさればよろしいかと」


「練習」


「はい。お嬢様は何事も練習すればお上手になられますもの」


確かに、私は王妃教育も語学も舞踏も、練習して身につけてきた。


休むことも、練習すれば上手になるのかもしれない。


私はその日、本当に何もしない練習をした。


朝食後、母に誘われて庭を歩いた。母は花の名前を一つひとつ教えてくれたが、覚えなくてもいいと言った。


昼には、読みかけの本を開いた。けれど三ページほど読んだところで眠くなり、そのまま窓辺の長椅子でうたた寝をした。


誰にも叱られなかった。


夕方、ライナス様が訪ねてきた時、私は少しだけ誇らしい気持ちで彼に報告した。


「今日は二時間ほど、何も考えずに眠りました」


ライナス様は大変真面目な顔で頷いた。


「素晴らしい成果です」


「本当に?」


「ええ。私が同じことをすれば、家令に『公爵閣下がお疲れで倒れた』と大騒ぎされますから」


「それは日頃の行いではありませんか」


「耳が痛いですね」


そう言って、彼は微笑んだ。


その表情を見ていると、私の胸の奥がゆっくり温かくなった。


王宮にいた頃、私は誰かの微笑みを見るたび、それが何を意味するのか考えていた。


機嫌がいいのか。怒りを隠しているのか。何か頼み事があるのか。こちらが何を差し出せば場が丸く収まるのか。


けれどライナス様の微笑みは、ただ微笑みだった。


それだけでいいのだと、少しずつ思えるようになっていた。


数日後、王宮から一通の手紙が届いた。


差出人の名を見て、私はしばらく封を切れなかった。


アルヴィン・レイナード。


かつての婚約者。


王太子位を停止され、今は離宮で再教育を受けているはずの人。


封蝋は王太子のものではなく、王族個人に許された簡素な印だった。そこに、彼の今の立場が表れているように思えた。


私は応接室で一人、手紙を開いた。


そこには、飾り気のない文字で謝罪が綴られていた。


エレノア。


まず、君に直接謝罪する資格が私にあるかもわからない。


私は、君がしてくれていたことを何一つ理解していなかった。


君が私を支えていたのではない。私が君に寄りかかっていたのだと、今さら知った。


離宮で、私は毎日基礎から学び直している。


朝起きること。予定を確認すること。書類を読むこと。わからない言葉を調べること。自分の署名が何を意味するのか考えること。


どれも、以前の私なら些事だと笑っただろう。


けれど今は、その些事すらできなかった自分がどれほど愚かだったかを思い知っている。


君に戻ってきてほしいとは、もう言わない。


言う資格がない。


ただ、君が幸せであることを願っている。


そして、いつか私が王族としてではなく、一人の人間としてましになれた時、あの頃の君に謝ることを許してほしい。


アルヴィン。


読み終えた後、私は長い間その手紙を見つめていた。


胸に痛みはあった。


けれど、それは以前のような鋭い痛みではなかった。


長く履き続けた靴を脱いだ後、皮膚に残る痕のようなもの。もう締めつけられてはいないのに、そこに確かに痛みがあったことだけを思い出させる感覚だった。


私は返事を書いた。


アルヴィン殿下。


お手紙、拝読いたしました。


謝罪のお言葉は受け取りました。


私たちが過去に戻ることはありません。けれど、殿下がこれからご自身の責務と向き合われることを願っております。


どうか、誰かに支えられていることを当然と思わず、その手を見失わない方になってください。


エレノア・リーデン。


それ以上は書かなかった。


恨み言も、未練も、励ましすぎる言葉も必要なかった。


封をしてマリーに託した時、私はようやく一つの扉を閉めたのだと思った。


春の市へ向かう日が来た。


ヴェルナー領は、我が国との国境を越えた先に広がる豊かな土地だった。馬車の窓から見える風景は、王都とは少し違う。


丘陵には薄紫の花が咲き、遠くには雪をかぶった山々が見える。街道沿いの宿場町には色とりどりの布が吊るされ、人々は隣国から来た私たちにも明るく手を振った。


ライナス様は道中、私に地図を見せながら説明してくれた。


「あの川は秋になると水量が増えます。ですから輸送路を組む時は、橋の補修時期を必ず確認しなければなりません」


「なるほど。では雨季前に補強を終える必要があるのですね」


「……エレノア様」


「はい」


「これは観光です」


私ははっとした。


彼は笑いをこらえている。


「す、すみません。つい」


「いえ。貴女らしくて、私は好きですが」


「好き……」


思わずその言葉を繰り返してしまい、頬が熱くなった。


ライナス様もわずかに耳を赤くした。


「その、言葉の選び方を間違えました」


「間違いなのですか」


「いえ、間違いではありません。ありませんが、今のは少し早かったかと」


「何が早いのでしょう」


「……到着してから、お話しします」


彼はそう言って窓の外へ視線を向けた。


その横顔が、珍しく困っているように見えたので、私は笑ってしまった。


ヴェルナー領の春の市は、想像以上に賑やかだった。


広場には白い天幕が並び、焼き菓子、刺繍布、硝子細工、蜂蜜酒、香辛料、革靴、絵本、楽器、花冠、見たことのない果物まで売られている。


子どもたちは走り回り、楽師が笛を吹き、老婦人たちは椅子に座って通り過ぎる人々を眺めていた。


私は何を見ればいいのかわからず、思わずライナス様の方を見た。


「好きなものを見てください」


「好きなもの……」


「はい。役に立つかどうかではなく、好きかどうかです」


それもまた、私には難しい問いだった。


役に立つものなら選べる。


相手にふさわしい贈り物なら選べる。


式典に必要な品なら選べる。


けれど、自分がただ好きなもの。


私は店先をゆっくり見て回った。


美しいレースの手袋。銀細工の髪飾り。薄い陶器の茶器。どれも素敵だったが、私はある小さな露店の前で足を止めた。


そこには、革の表紙の予定帳が並んでいた。


赤、青、緑、黒、茶色。


手のひらほどの小さなものから、机に置く大きなものまで。


店主の老人がにこにこと言った。


「お嬢さん、予定帳をお探しかい?」


「いえ、私はもう持っているのですが」


「なら、新しい予定のためにもう一冊いかがかな」


新しい予定。


その言葉に、私は深緑の小さな予定帳へ手を伸ばした。


表紙には金の糸で小さな葉の模様が刺繍されている。派手ではない。けれど触れると手に馴染んだ。


「それがお好きですか」


ライナス様が尋ねる。


私は少し考え、頷いた。


「はい。好きです」


そう口にした瞬間、心がふわりと軽くなった。


好き。


ただそれだけで選んでいいのだ。


ライナス様は店主に代金を払おうとしたが、私は慌てて止めた。


「自分で買います」


「贈らせてはいただけませんか」


「これは、私が初めて自分のために選んだ予定帳ですから」


ライナス様は一瞬黙り、それから深く頷いた。


「では、隣で見守る名誉をいただきます」


「大げさです」


「私にとっては、かなり重要な役目です」


私は自分の財布から銀貨を出し、その予定帳を買った。


店主は包みながら言った。


「お嬢さんの予定が、良いものでいっぱいになりますように」


私は予定帳を胸に抱いた。


その日の夕方、ライナス様は私を丘の上へ案内した。


春の市の喧騒が遠くなり、眼下には夕日に染まるヴェルナーの街が広がっている。屋根は赤く、川は金色に光り、遠くの鐘楼から柔らかな鐘の音が聞こえた。


風に花の香りが混じる。


私は新しい予定帳を膝の上に置き、隣に立つライナス様を見た。


「先ほどの続きを、聞いてもよろしいですか」


「先ほど?」


「到着してからお話しすると仰いました」


ライナス様はしばらく黙った。


そして、観念したように小さく息を吐いた。


「エレノア様」


「はい」


「私は、貴女を尊敬しています」


「ありがとうございます」


「貴女の仕事への向き合い方も、人を思いやるところも、傷ついても誰かを貶めることで自分を保とうとしない強さも」


彼の声は、いつもより少し低かった。


「けれど、それだけではありません」


胸が静かに高鳴る。


「私は、貴女が何もしない日を練習しているところも、観光の途中で輸送路の話を始めてしまうところも、予定帳を自分で買うと言って譲らないところも、花の名前を忘れて少し困った顔をするところも……好ましく思っています」


彼は私を見た。


「おそらく、私は貴女を愛しています」


おそらく、という言い方が彼らしくて、私は泣きそうなのに笑ってしまった。


「おそらく、なのですか」


「断定すると、貴女を急かしてしまう気がしました」


「ライナス様は、いつも私を急かしませんね」


「急かしたくなる時もあります」


「そうなのですか?」


「はい。今も、少し」


彼は困ったように微笑んだ。


「けれど貴女には、選ぶ時間が必要です。ですからこれは求婚ではありません。返事を求める告白でもありません。ただ、私の予定帳には、できればこれから先も貴女の名前を書きたいと思っている。そのことを、お伝えしたかった」


夕日が彼の横顔を照らしていた。


私は膝の上の予定帳を開いた。


最初のページは白紙だった。


真新しい紙。


これから何を書いてもいい紙。


私はペンを取り出し、ゆっくりと一行目に書いた。


――春の市。ライナス様と。


それから少し迷い、二行目に書いた。


――告白を聞く。


ライナス様が小さく咳き込んだ。


「そこまで予定に書くのですか」


「大切な予定ですから」


「それは……光栄です」


私は三行目にペン先を置いた。


手が少し震えた。


けれど、嫌な震えではなかった。


私は書いた。


――返事は、いつか。


ライナス様はその文字を見て、柔らかく笑った。


「はい。いつかで構いません」


「ただし」


私は顔を上げた。


「そのいつかまで、隣にいてくださいますか」


彼の瞳が大きく揺れた。


次の瞬間、彼は胸に手を当て、深く礼をした。


「喜んで」


その返事があまりに真剣で、私はまた笑ってしまった。


帰国した後、私の日々は少しずつ変わっていった。


私は王宮に戻ることはなかったが、完全に何もしない生活を選んだわけでもなかった。


最初は父の領地経営を手伝った。


ただし、以前のように全てを背負い込むのではなく、週に三日だけ。午前中だけ。午後は休む。


その条件を父が提案した時、私は驚いた。


「それでよろしいのですか」


「よろしいも何も、働きすぎれば私がライナス殿に叱られる」


「なぜお父様がライナス様に叱られるのです」


「彼は穏やかな顔をして、なかなか圧が強いからな」


父は真面目な顔でそう言った。


母は横で笑っていた。


やがて私は、隣国との小規模な文化交流会の相談役も務めるようになった。


それは誰かに押しつけられた仕事ではなかった。


私が選び、私が引き受け、私が無理のない範囲で行う仕事だった。


不思議なことに、自分で選んだ仕事は、以前よりずっと楽しかった。


もちろん疲れる日もあった。


失敗することもあった。


けれど失敗しても、世界は終わらなかった。誰かの顔色を恐れて眠れなくなることもなかった。


ライナス様とは、手紙のやり取りが続いた。


彼の手紙はいつも少し変わっていた。


今日は領内の山羊が脱走しました。


家令が追いかけ、私も追いかけ、最終的に山羊は私の執務机の上の書類を食べました。


幸い、重要書類ではありません。


ただし、私が半日かけて書いた貴女への手紙でした。


山羊は恋文の味を知ったことになります。


私はその手紙を読んで、声を上げて笑った。


私も返事を書いた。


山羊に食べられるほど美味しいお手紙だったのでしょう。


次回からは、私宛の手紙には蜂蜜を近づけないことをおすすめします。


それから半年が過ぎた。


秋の終わり、ライナス様が正式にリーデン公爵家を訪れた。


父と母に挨拶を済ませた後、彼は庭園の東屋で私と向かい合った。


あの日、私が初めて「何もしない日」と予定帳に書いた場所だ。


庭の花は春とは違い、落ち着いた色に変わっている。


ライナス様はいつになく緊張していた。


「エレノア様」


「はい」


「今日は、急かすつもりで参りました」


私は瞬きをした。


「珍しいですね」


「はい。半年待ちましたので、私としてはかなり辛抱強かったと思います」


「そうかもしれません」


「ですから、どうかお許しください」


彼は立ち上がり、私の前に跪いた。


差し出された小箱の中には、深緑の宝石を嵌めた指輪があった。


春の市で私が買った予定帳の表紙と同じ色。


「エレノア・リーデン嬢」


ライナス様の声が、少し震えていた。


「貴女の予定帳のこれから先に、私の名を書かせていただけませんか」


胸がいっぱいになった。


以前の私なら、結婚とは役割だった。


家のため。国のため。王太子妃となるため。


けれど今、目の前にあるこの求婚は違う。


これは、私が選んでいい未来だった。


私はゆっくりと自分の予定帳を開いた。


半年の間に、そこにはたくさんの予定が増えていた。


何もしない日。


母と庭を歩く日。


父の領地帳簿を見る日。


マリーと菓子を焼く日。


ライナス様に手紙を書く日。


春の市。


告白を聞く。


返事は、いつか。


その「いつか」の下に、私は新しい一行を書いた。


――今日、返事をする。


そして顔を上げた。


「ライナス様」


「はい」


「私でよろしければ」


「貴女がよいのです」


答えは早かった。


あまりにも早くて、私はまた笑ってしまった。


「では、よろしくお願いいたします」


ライナス様は目を閉じ、深く息を吐いた。


それから、まるで壊れ物に触れるように、私の指に指輪を通した。


「ありがとうございます」


「こちらこそ」


「これからも、貴女を働かせすぎないよう尽力します」


「そこなのですか」


「最重要事項です」


「では私は、ライナス様が山羊に手紙を食べられないよう尽力します」


「助かります。あれは本当に悲しかった」


私たちは顔を見合わせて笑った。


その笑い声は、秋の庭に柔らかく溶けていった。


その後、アルヴィン殿下からもう一度だけ手紙が届いた。


そこには、私の婚約を祝う言葉が短く記されていた。


おめでとう。


君の予定表に、君自身の幸せが増えていくことを願っている。


私はその手紙を読んで、静かに封筒へ戻した。


もう痛みはなかった。


過去は消えない。


けれど、過去に縛られたまま生きる必要もない。


数年後、私はヴェルナー公爵夫人となった。


隣国での暮らしは穏やかで、時に忙しく、時に騒がしかった。


私は外交顧問として働く日もあれば、一日中庭で本を読む日もあった。ライナス様は本当に、私が働きすぎるとすぐに気づいた。


「エレノア、今日は休む日です」


「ですが、この書類だけ」


「その書類は明日も逃げません」


「けれど」


「私が逃がしません」


そう言って書類を取り上げる彼に、最初は戸惑ったものだが、今では私も素直に手を止められるようになった。


予定帳には、今もたくさんの予定が書き込まれている。


仕事の予定。


茶会の予定。


友人と会う予定。


何もしない予定。


ライナス様と散歩する予定。


そして時々、何の意味もない落書き。


かつての私なら、予定帳に余白があることを恐れただろう。


今の私は、その余白が好きだった。


そこには、まだ決まっていない未来がある。


誰かに押しつけられたものではなく、自分で選べる時間がある。


ある春の日、私は東屋で古い予定帳を開いた。


一番最初のページには、懐かしい文字が残っている。


――何もしない日。


――隣に、ライナス様。


隣に座っていたライナス様が、それを覗き込んだ。


「懐かしいですね」


「ええ。ここから始まりました」


「貴女はあの日、本当に何もしないことが下手でした」


「今は上手になりましたか」


「大変上達されました」


「それはよかったです」


私は笑いながら、新しい予定帳を開いた。


「明日の予定は?」


ライナス様が尋ねる。


私はペンを取り、少し考えてから書いた。


――何もしない日。


その下に、もう一行。


――隣に、愛する人。


ライナス様が静かに息を呑んだ。


「エレノア」


「はい」


「それは、ずるいです」


「何がですか」


「そんなふうに書かれたら、私は明日どころか一生、隣にいるしかなくなる」


私は微笑んだ。


「そのつもりで書きました」


ライナス様はしばらく私を見つめ、それから幸せそうに笑った。


かつて私は、誰かに後回しにされるたび、自分の心を折り畳んでいた。


また彼女を優先なさるのですね。


そう言いながら、本当は自分の価値を少しずつ手放していた。


けれど今は違う。


私はもう、誰かの予定表の空白を埋めるためだけに生きてはいない。


私の予定表には、私の時間がある。


私の選んだ仕事がある。


私の選んだ休息がある。


そして、私を大切にしてくれる人の名前がある。


春の風が、白いページをそっと揺らした。


その余白は、もう怖くなかった。


これから先、どんな予定を書き込むのかは、まだわからない。


けれど一つだけ、確かに決まっていることがある。


私はもう二度と、自分を後回しにしない。


その日、エレノアの予定表には、穏やかで、自由で、愛おしい未来が続いていた。


終幕


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赤ちゃん用のハンドル付きのベビーカーを後ろから押してもらってキャッキャしてたアルヴィン殿下がようやく自分の足で歩くようになってよかったな 周回遅れじゃ済まないレベルまで教育が遅れてそうだから、王太子に…
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