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冷たい妻だと思われていましたが、義実家の穴埋めをしていたのは私ひとりでした

掲載日:2026/03/20

離縁届に署名する前、私は最後に帳簿の角をそろえた。


 厚い革表紙の上に指を置く。冬の終わりの乾いた空気のせいか、紙はいつもより少しだけ硬かった。机の向こうでは、暖炉の火が小さく鳴っている。夜会の準備をする音も、使用人たちの忙しい足音も、もうこの部屋までは届かない。


 伯爵家の夫人の私室だというのに、音が少なかった。


 私が静かな部屋を好むからだと、人は言う。


 違う。無駄なものを減らしていった結果、こうなっただけだ。


 花を多く活ければ花代がいる。茶器を増やせば磨き手がいる。夜会を重ねれば仕立屋に支払いが生じる。笑顔でそれを受け入れられるほど、アークライト伯爵家の帳面は厚くなかった。


 だから減らした。


 花も、茶器も、夜会も、贈り物も。


 そのたびに、私は冷たい妻だと言われた。


 扉が二度、控えめに叩かれた。


 「奥様、旦那様がお見えです」


 家政長のマルタが、いつもの抑えた声で告げる。


 「通して」


 私が答えると、扉が開いて夫が入ってきた。


 ルシアン・アークライト。金に近い茶髪をきちんと撫でつけた、穏やかな顔立ちの伯爵だ。社交の場では誠実で通っている。実際、誠実な人なのだと思う。ただ、その誠実さがいつも正しい相手へ向くだけではない。


 彼は机の上の書類を見て、わずかに眉を寄せた。


 「……まだ仕事をしていたのか」


 「ええ。月末ですから」


 「今日は母上と弟が来ている。夕食は一緒にと伝えただろう」


 「伝言は受けました」


 「なら、少しは愛想よくしてくれ。母上は君に怯えている」


 私は帳簿を閉じた。


 その仕草だけで、彼はますます居心地悪そうな顔をした。


 昔は、その顔を見るたびに胸が痛んだ。今は違う。痛むところはとっくに擦り切れて、代わりに薄い疲労だけが残っている。


 「お義母様が怯えるのは、私が送金の上限を決めたからです」


 「言い方というものがあるだろう」


 「三か月続けて予定外の請求が届けば、数字で返すしかありません」


 ルシアンは溜息をついた。


 「君はいつもそうだ。何でも数字で片づける」


 「数字で片づけないと、片づかないものがあります」


 「母上は家族だ」


 「だからこそ、際限なく穴を広げさせるわけにはいきません」


 彼は黙った。反論したいのに、反論の中身が見つからないときの沈黙だった。


 こういう時間が増えた。


 私が伯爵家へ嫁いで三年。最初の一年は、まだ私も信じていた。新しい家に馴染み、夫婦で支え合い、いつかこの家の主人と女主人として並べるのだと。


 だが二年目には、アークライト家には私たち夫婦の家と、ルシアンの実家が混ざり合って存在しているのだと分かった。


 義母マリベルは、未亡人になって以降も先代伯爵夫人の暮らしを捨てなかった。別邸の維持費、侍女の数、衣装の新調、寄付という名の見栄。義弟セドリックは投機に失敗するたび、兄へ「一時的なつなぎだ」と頭を下げてきた。小さな赤字はやがて癖になり、癖は当然になり、当然になったものは家の財布の中で腐り始める。


 最初に気づいたのは、厨房の仕入れだった。


 伯爵家本邸の食費が妙に削られている一方で、王都南の別邸へは上等なワインと果物が頻繁に送られていた。帳簿係に聞けば、旦那様のご意向です、と困ったように答える。ルシアンに尋ねると、母上は寂しい思いをしているから、と言った。


 寂しさの単価を私は知らない。


 だが、小作人の冬越し用の補助金が遅れたまま、南の別邸へ新しい銀器が入る光景なら知っている。


 それ以来、私は帳簿を握った。


 最初は補助のつもりだった。支出を見直し、重複する人件費を切り、不要な納入を減らし、必要なところへ回す。それだけで十分だと思っていた。


 けれど現実は、穴を塞ぐたび別の場所から水が噴き出すようなものだった。


 私は花嫁道具の中から二つ、使わない宝石箱を売った。嫁いだ年に持参した刺繍入りのテーブルクロスも換金した。春の茶会は一度減らした。秋の狩猟会は規模を半分にした。新しい馬車は見送った。傷んだ倉庫の修繕を優先した。


 そのたびに、義母は泣いた。


 「まあ、セレナさんは本当に現実的なのね」


 そう言って扇の陰で目元を押さえる仕草は、私よりよほど貴婦人らしかった。


 義弟は笑った。


 「義姉上は、伯爵家を商会にでもしたいのかな」


 ルシアンは困った顔で私を見た。


 「もう少し柔らかく言えないか」


 いつもそれだった。


 やめろでもなく、従えでもなく、もう少し柔らかく。


 柔らかく言えば、柔らかく穴が広がるだけだというのに。


 「今日は義母上がお前のことをずいぶん気にしていた」


 目の前の夫が、今も同じ言葉を口にした。


 「本邸へ来る費用も厳しいと」


 「先月、新しい侍女を二人増やしています」


 「母上にも事情がある」


 「こちらにもあります」


 私が言うと、彼はとうとう机に近づき、閉じた帳簿へ視線を落とした。


 「セレナ」


 その呼び方は、昔なら少しだけ甘く聞こえた。今は、説得の前触れにしか聞こえない。


 「最近の君は、私にも冷たい」


 「数字が冷たいだけです」


 「そうやってまた」


 彼は言いかけてやめた。


 何を言っても帳簿に負けると思っているのだろう。あるいは、負けるのが分かっているから、勝ち負けの話にしたくないのかもしれない。


 「……私は、君と争いたいわけじゃない」


 「私もです」


 「なら、なぜこんな顔をする」


 私は少し考えた。


 こんな顔。きっと彼は、私が結婚当初みたいに笑わなくなったと言いたいのだろう。


 「足りないものを数えている顔です」


 ルシアンは、わずかに傷ついたように目を伏せた。


 それが誰にとっての足りなさなのか、彼にはまだ分からない。


 私は椅子から立ち、机の端に置いていた封筒を持ち上げた。


 「こちらを」


 彼は受け取らなかった。


 「何だ」


 「離縁届です」


 暖炉の薪が、ぱちりと弾けた。


 ルシアンの顔から色が引くのが分かった。


 「……冗談はよせ」


 「冗談ではありません」


 「なぜ急に」


 「急ではありません」


 私は静かに封筒を机へ戻した。


 「私はずっと、家の帳面と一緒に夫婦の帳面も見ていました。どこに何が流れ、どこが空になり、どこへ補填が必要か」


 「夫婦を帳簿にするな」


 「帳簿にしなかったから、今こうなっています」


 彼が何か言い返そうとしたとき、外で食器のぶつかる音がした。たぶん義母が気に入らない皿でも見つけたのだろう。あるいは義弟が酒をこぼしたのかもしれない。


 私はその音に耳を澄ませもせず、封筒の下にもう一冊、薄い帳簿を置いた。


 「離縁を望むなら、先にこれを読んでください」


 「何だ、これは」


 「三年分の補填記録です」


 「補填……?」


 「私個人の資産から出した分だけを抜き出しました。読み終えて、それでも同じことを言えるなら、署名します」


 彼は帳簿を見た。見ただけで、まだ手に取らない。


 「どうしてそんなものを、今まで」


 「必要がなかったからです。夫婦なら、言葉で足りるはずでした」


 そこまで言って、私は初めて少しだけ笑った。


 自分でも驚くほど、乾いた笑いだった。


 「足りなかったようですが」


 私は一礼し、部屋を出た。


 廊下に出ると、夜の冷気が頬に触れた。窓の外では庭木が風に揺れている。春が近いのに、まだ枝は硬い。


 マルタが少し離れたところで待っていた。


 「奥様」


 「夕食は欠席します」


 「承知しました」


 彼女はそれ以上何も言わない。けれど視線だけで、問いを置いてくる。


 私は首を振った。


 「今夜は、旦那様に読んでいただくしかないの」


 マルタは静かに頭を下げた。


 「……あのお方は、遅いだけです」


 「遅いものは、時々、間に合わないわ」


 それだけ告げて、私は客用の小さな応接間へ向かった。


 離縁届を渡したのだから、本来なら胸がすくべきなのかもしれない。実際には、何かを切る感覚より先に、力が抜ける感覚が来た。


 もう支えなくていいのだと思えば、安堵してもよさそうなのに。


 私は椅子に座り、膝の上で手を組んだ。


 花嫁道具を売った日のことを思い出す。母から贈られた青い耳飾りを外したとき、鏡の中の私は驚くほど平然としていた。泣きもしなかった。怒りもしなかった。ただ計算した。これで別邸の未払い分が埋まる、これで倉庫の梁が直せる、これで小作人へ冬麦の種を渡せる。


 その平然が、今日まで私を冷たい女に見せてきた。


 しばらくして、外の騒がしさが変わった。義母の高い声が、いつもの泣き真似ではない強さを帯びる。義弟の笑い声が消える。使用人たちの足音が早くなる。


 何か起きたのだろうかと思ったが、私は立たなかった。


 今夜だけは、家のすべてに自分から手を伸ばすのをやめると決めた。


 やがて扉が開いた。


 ルシアンだった。


 顔色が悪い。怒っているわけでも、泣いているわけでもない。もっと始末が悪い。自分が何を見落としていたのか、ようやく理解し始めた人の顔だ。


 「セレナ」


 私は立ち上がらなかった。


 「読みましたか」


 彼は頷く代わりに、手に持っていた薄い帳簿を机へ置いた。


 その上に、もう一冊、さらに分厚い帳簿がある。私が渡していないものだ。


 「書庫の鍵を、マルタが」


 「頼んだのですね」


 「……頼んだ。補填記録だけでは足りなかった」


 彼の声はひどく掠れていた。


 「花嫁道具の売却、南別邸の未払い、セドリックの負債の肩代わり、厨房の赤字補填、小作人への立替金……」


 彼は一つ言うごとに、言葉に傷ついていくようだった。


 「君は、三年でこんなに」


 「家を回しただけです」


 「私に一度も」


 「言いました」


 私は淡々と答えた。


 「何度も。別邸の送金が多すぎること。義弟の投機の尻拭いを止めること。倉庫修繕を優先すること。使用人の離職が増えていること。冬支度に回す現金が足りないこと」


 「……」


 「あなたはそのたび、もう少し柔らかく言えと言いました」


 ルシアンは唇を噛んだ。


 私は追い詰めたいわけではなかった。ただ、今ここで曖昧にしてしまえば、また同じところへ戻ると分かっていた。


 「帳簿の一ページ目をご覧になりましたか」


 彼はゆっくり頷いた。


 「君の持参金、だった」


 「ええ。結婚初年度の冬、小作人への支払いが遅れたときに使いました」


 「二ページ目は宝飾品」


 「別邸の暖房費です。あの冬、お義母様は侍女を減らしたくないとおっしゃったので」


 彼は両手で顔を覆った。


 私はそこで初めて、少しだけ怒りを覚えた。


 今さら苦しそうな顔をするくらいなら、最初の一度でこちらを見てほしかった。


 「私が冷たいのは知っています」


 手の隙間から、彼の肩が揺れた。


 「違う」


 「違いません。私は誰かを慰めるより、支払期日を守る方を先に選びます。泣き声に同情するより、翌月の赤字を止める方を先に選びます」


 「それは冷たいんじゃない」


 「では何ですか」


 彼は顔を上げた。


 目が赤い。けれど涙は落ちていない。


 「私が、君に全部やらせていた」


 その答えは、思っていたより正しかった。


 私は息を吐いた。


 「あなたは優しい人です」


 「そんな言い方はやめてくれ」


 「優しいから、誰にも嫌われたくなかった。お義母様にも、義弟にも、私にも。だから線を引く役目を、全部私へ渡した」


 ルシアンは何も言えなかった。


 暖炉の火が小さくなる。応接間の隅には、夕食へ出す予定だった銀盆が置きっぱなしになっている。誰もそれを片づけに来ないのは、伯爵家の空気が今、別の緊張で張っているからだろう。


 「さっき、母上が君を責めていた」


 「でしょうね」


 「食費を削った、侍女を解雇した、弟を馬鹿にした、家を壊しているのは君だと」


 「間違ってはいません。壊さないために切っていますから」


 「セドリックは、君が兄の妻のくせに商人みたいだと言った」


 「それも聞き慣れました」


 「でも」


 彼は帳簿を見下ろした。


 「本当に家を壊そうとしていたのは、私の方だった」


 私はそこでようやく立ち上がった。


 彼の前まで歩いていき、机の上の帳簿を閉じる。


 「壊れるのは、まだこれからでも止められます」


 「セレナ」


 「ただし条件があります」


 彼は息を止めたように見えた。


 「お義母様への定額送金は今月で終わりです。別邸の侍女は半分に減らします。義弟の借財は、今後一切アークライト家で肩代わりしません。必要なら弁護士を立てます」


 「……分かった」


 「本当に?」


 「分かった」


 「その場しのぎではなく?」


 「違う」


 彼は一歩近づいた。


 「今夜、母上にも弟にも言う。明日の朝には送金口を閉じる。書面も作る」


 私は彼の顔を見た。


 いつもの温和さはなかった。その代わり、ようやく当主の顔があった。


 それでも、信じ切るには遅すぎる時間を過ごしてきた。


 「離縁届は」


 彼の声が低くなる。


 私は封筒のことを思い出した。


 「まだ机の上です」


 「破ってもいいか」


 「いいえ」


 彼は目を見開いた。


 「今はだめです」


 私ははっきりと言った。


 「書類は破るためではなく、必要がなくなったと確認するために残すものです」


 彼は少しの間、黙ってから、苦く笑った。


 「本当に、君らしい」


 「そうでしょう」


 「……君を、愛のない人だと思ったことはない」


 「そうですか」


 「ただ、私へ愛想を尽かしたのだと思っていた」


 「それは半分当たりです」


 彼は目を伏せた。


 「でも半分なら、残りがあるんですね」


 ずるい聞き方だと思った。


 私はすぐには答えず、応接間の窓へ視線をやった。庭の端で、夜露を受けた枝が月を反している。


 「残りがあるから、帳簿を渡しました」


 その瞬間、彼の表情が変わった。


 救われたような顔をする資格があるのか、と問い詰めたくなるほど、あからさまな安堵だった。


 けれど同時に、それは私がずっと欲しかった顔でもあった。


 自分の見ていないものを、ようやく見ようとした人の顔。


 「セレナ」


 彼はそっと私の手に触れた。結婚式の日以来みたいに丁寧な手つきだった。


 「もう一度、やり直させてほしい」


 「帳簿を?」


 彼は一瞬きょとんとして、次に小さく笑った。


 「夫婦も、帳簿も」


 私はその答えに、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。


 「なら、明日から朝食の前に三十分ください」


 「三十分?」


 「家計の見方を覚えてもらいます」


 「それだけでいいのか」


 「まずは」


 彼は真顔で頷いた。


 「分かった」


 「途中で逃げませんか」


 「逃げたら?」


 「今度こそ署名します」


 彼は、泣きそうな顔で笑った。


 「逃げない」


 そのとき、廊下の向こうでまた義母の高い声がした。


 今度ははっきり聞こえた。


 「ルシアン! あの子に何を吹き込まれたの!」


 続いて義弟の声。


 「兄上、まさか本気で送金を止める気じゃないでしょうね」


 ルシアンは振り返った。ほんの少し前までなら、その声に困った顔を向けていただろう。


 だが彼は私の手を離さず、静かに言った。


 「セレナ、来てくれるか」


 「横に立つだけなら」


 「それでいい」


 私たちは応接間を出た。


 廊下の先には義母と義弟がいた。義母は涙ぐんだ顔で、義弟は苛立ちを隠さず立っている。使用人たちは距離を取り、マルタだけが背筋を伸ばして控えていた。


 「ルシアン、この女はあなたを家族から引き離そうとしているのよ」


 義母が震える声で言う。


 「いいえ、母上」


 ルシアンの返答は短かった。


 「引き離していたのは、私の甘さです」


 義母が目を見開く。義弟が鼻で笑う。


 「兄上まで義姉上に毒されたか」


 「毒ではない」


 彼は私の方を一度も見ずに言った。


 「帳簿だ」


 義弟の笑いが止まった。


 「明日以降、別邸への定額送金は止める。セドリックの負債も肩代わりしない。本邸の会計は今後、私とセレナが共同で管理する」


 「そんな、急に」


 義母の顔から血の気が引く。


 「急ではありません」


 私が静かに言うと、義母は私を睨んだ。


 「あなたは本当に冷たい人ね」


 その言葉に、以前の私は傷ついただろう。今は違う。


 私はただ、まっすぐ義母を見返した。


 「ええ。そう見えるでしょうね」


 そしてそのまま続ける。


 「ですが、冷たいと言われる方が、家を沈めるよりましです」


 義母が息を呑む。義弟が何か言おうとして、ルシアンの視線に押しとどめられた。


 「必要なものは切らない」


 ルシアンが言った。


 「でも、母上と弟上が必要だからといって、家を空にすることも許さない」


 その声は大きくない。なのに廊下の空気が変わるのが分かった。


 義母はようやく、自分のいつもの涙が効かないことを理解したらしい。義弟は口をつぐみ、苛立ちを噛み殺した。


 「今夜はもうお引き取りを」


 ルシアンが告げる。


 義母は何か言いたげに唇を震わせたが、結局、侍女に支えられて去った。義弟も最後に私を睨みつけたものの、兄へは何も言えずに後に続いた。


 廊下に静けさが戻る。


 使用人たちが散り、マルタも一礼して下がった。


 残ったのは私とルシアンだけだった。


 「……終わったわけではありません」


 私は先に言った。


 「分かっている」


 「別邸から抗議の手紙も来るでしょうし、義弟はどこかでまた借金を作るかもしれません」


 「そのときは、私が最初に読む」


 「何を」


 「帳簿を」


 その答えに、私は今度こそ小さく笑った。


 笑うのはずいぶん久しぶりだった気がする。


 彼はその笑いを見て、ほっとしたように息を吐いた。


 「セレナ」


 「はい」


 「明日の朝、三十分と言わず、必要なだけ教えてくれ」


 「長いですよ」


 「構わない」


 「数字は容赦しません」


 「君も、もう少し容赦してくれると助かる」


 「それは今後の成績次第です」


 彼は苦笑し、それからおずおずと、けれど今度は逃げずに私の肩を抱いた。


 体温が近い。


 それだけのことに、胸の奥の硬かった場所がゆっくりほどける。


 誰かに全部を分からせる必要はないのだと思った。


 王都じゅうに真実を告げる必要も、義母へ土下座させる必要もない。


 まず一人。


 この家の主人が、ようやく私の隣に立った。


 それで十分だと、今夜は思えた。


 翌朝、朝食の前に、私は新しい帳簿を一冊開いた。


 表紙には細い字でこう書いてある。


 『伯爵家本邸 共通勘定』


 向かいに座ったルシアンは、昨日より少し眠そうで、それでも逃げる気配なく椅子を引いた。


 「最初からお願いします、先生」


 「先生ではありません」


 「では、私の妻」


 私はペンを持ち直した。


 「では、あなたの妻として、最初の赤字から説明します」


 窓の外では、冬の終わりの庭に、ようやく朝の光が差し始めていた。

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