冷たい妻だと思われていましたが、義実家の穴埋めをしていたのは私ひとりでした
離縁届に署名する前、私は最後に帳簿の角をそろえた。
厚い革表紙の上に指を置く。冬の終わりの乾いた空気のせいか、紙はいつもより少しだけ硬かった。机の向こうでは、暖炉の火が小さく鳴っている。夜会の準備をする音も、使用人たちの忙しい足音も、もうこの部屋までは届かない。
伯爵家の夫人の私室だというのに、音が少なかった。
私が静かな部屋を好むからだと、人は言う。
違う。無駄なものを減らしていった結果、こうなっただけだ。
花を多く活ければ花代がいる。茶器を増やせば磨き手がいる。夜会を重ねれば仕立屋に支払いが生じる。笑顔でそれを受け入れられるほど、アークライト伯爵家の帳面は厚くなかった。
だから減らした。
花も、茶器も、夜会も、贈り物も。
そのたびに、私は冷たい妻だと言われた。
扉が二度、控えめに叩かれた。
「奥様、旦那様がお見えです」
家政長のマルタが、いつもの抑えた声で告げる。
「通して」
私が答えると、扉が開いて夫が入ってきた。
ルシアン・アークライト。金に近い茶髪をきちんと撫でつけた、穏やかな顔立ちの伯爵だ。社交の場では誠実で通っている。実際、誠実な人なのだと思う。ただ、その誠実さがいつも正しい相手へ向くだけではない。
彼は机の上の書類を見て、わずかに眉を寄せた。
「……まだ仕事をしていたのか」
「ええ。月末ですから」
「今日は母上と弟が来ている。夕食は一緒にと伝えただろう」
「伝言は受けました」
「なら、少しは愛想よくしてくれ。母上は君に怯えている」
私は帳簿を閉じた。
その仕草だけで、彼はますます居心地悪そうな顔をした。
昔は、その顔を見るたびに胸が痛んだ。今は違う。痛むところはとっくに擦り切れて、代わりに薄い疲労だけが残っている。
「お義母様が怯えるのは、私が送金の上限を決めたからです」
「言い方というものがあるだろう」
「三か月続けて予定外の請求が届けば、数字で返すしかありません」
ルシアンは溜息をついた。
「君はいつもそうだ。何でも数字で片づける」
「数字で片づけないと、片づかないものがあります」
「母上は家族だ」
「だからこそ、際限なく穴を広げさせるわけにはいきません」
彼は黙った。反論したいのに、反論の中身が見つからないときの沈黙だった。
こういう時間が増えた。
私が伯爵家へ嫁いで三年。最初の一年は、まだ私も信じていた。新しい家に馴染み、夫婦で支え合い、いつかこの家の主人と女主人として並べるのだと。
だが二年目には、アークライト家には私たち夫婦の家と、ルシアンの実家が混ざり合って存在しているのだと分かった。
義母マリベルは、未亡人になって以降も先代伯爵夫人の暮らしを捨てなかった。別邸の維持費、侍女の数、衣装の新調、寄付という名の見栄。義弟セドリックは投機に失敗するたび、兄へ「一時的なつなぎだ」と頭を下げてきた。小さな赤字はやがて癖になり、癖は当然になり、当然になったものは家の財布の中で腐り始める。
最初に気づいたのは、厨房の仕入れだった。
伯爵家本邸の食費が妙に削られている一方で、王都南の別邸へは上等なワインと果物が頻繁に送られていた。帳簿係に聞けば、旦那様のご意向です、と困ったように答える。ルシアンに尋ねると、母上は寂しい思いをしているから、と言った。
寂しさの単価を私は知らない。
だが、小作人の冬越し用の補助金が遅れたまま、南の別邸へ新しい銀器が入る光景なら知っている。
それ以来、私は帳簿を握った。
最初は補助のつもりだった。支出を見直し、重複する人件費を切り、不要な納入を減らし、必要なところへ回す。それだけで十分だと思っていた。
けれど現実は、穴を塞ぐたび別の場所から水が噴き出すようなものだった。
私は花嫁道具の中から二つ、使わない宝石箱を売った。嫁いだ年に持参した刺繍入りのテーブルクロスも換金した。春の茶会は一度減らした。秋の狩猟会は規模を半分にした。新しい馬車は見送った。傷んだ倉庫の修繕を優先した。
そのたびに、義母は泣いた。
「まあ、セレナさんは本当に現実的なのね」
そう言って扇の陰で目元を押さえる仕草は、私よりよほど貴婦人らしかった。
義弟は笑った。
「義姉上は、伯爵家を商会にでもしたいのかな」
ルシアンは困った顔で私を見た。
「もう少し柔らかく言えないか」
いつもそれだった。
やめろでもなく、従えでもなく、もう少し柔らかく。
柔らかく言えば、柔らかく穴が広がるだけだというのに。
「今日は義母上がお前のことをずいぶん気にしていた」
目の前の夫が、今も同じ言葉を口にした。
「本邸へ来る費用も厳しいと」
「先月、新しい侍女を二人増やしています」
「母上にも事情がある」
「こちらにもあります」
私が言うと、彼はとうとう机に近づき、閉じた帳簿へ視線を落とした。
「セレナ」
その呼び方は、昔なら少しだけ甘く聞こえた。今は、説得の前触れにしか聞こえない。
「最近の君は、私にも冷たい」
「数字が冷たいだけです」
「そうやってまた」
彼は言いかけてやめた。
何を言っても帳簿に負けると思っているのだろう。あるいは、負けるのが分かっているから、勝ち負けの話にしたくないのかもしれない。
「……私は、君と争いたいわけじゃない」
「私もです」
「なら、なぜこんな顔をする」
私は少し考えた。
こんな顔。きっと彼は、私が結婚当初みたいに笑わなくなったと言いたいのだろう。
「足りないものを数えている顔です」
ルシアンは、わずかに傷ついたように目を伏せた。
それが誰にとっての足りなさなのか、彼にはまだ分からない。
私は椅子から立ち、机の端に置いていた封筒を持ち上げた。
「こちらを」
彼は受け取らなかった。
「何だ」
「離縁届です」
暖炉の薪が、ぱちりと弾けた。
ルシアンの顔から色が引くのが分かった。
「……冗談はよせ」
「冗談ではありません」
「なぜ急に」
「急ではありません」
私は静かに封筒を机へ戻した。
「私はずっと、家の帳面と一緒に夫婦の帳面も見ていました。どこに何が流れ、どこが空になり、どこへ補填が必要か」
「夫婦を帳簿にするな」
「帳簿にしなかったから、今こうなっています」
彼が何か言い返そうとしたとき、外で食器のぶつかる音がした。たぶん義母が気に入らない皿でも見つけたのだろう。あるいは義弟が酒をこぼしたのかもしれない。
私はその音に耳を澄ませもせず、封筒の下にもう一冊、薄い帳簿を置いた。
「離縁を望むなら、先にこれを読んでください」
「何だ、これは」
「三年分の補填記録です」
「補填……?」
「私個人の資産から出した分だけを抜き出しました。読み終えて、それでも同じことを言えるなら、署名します」
彼は帳簿を見た。見ただけで、まだ手に取らない。
「どうしてそんなものを、今まで」
「必要がなかったからです。夫婦なら、言葉で足りるはずでした」
そこまで言って、私は初めて少しだけ笑った。
自分でも驚くほど、乾いた笑いだった。
「足りなかったようですが」
私は一礼し、部屋を出た。
廊下に出ると、夜の冷気が頬に触れた。窓の外では庭木が風に揺れている。春が近いのに、まだ枝は硬い。
マルタが少し離れたところで待っていた。
「奥様」
「夕食は欠席します」
「承知しました」
彼女はそれ以上何も言わない。けれど視線だけで、問いを置いてくる。
私は首を振った。
「今夜は、旦那様に読んでいただくしかないの」
マルタは静かに頭を下げた。
「……あのお方は、遅いだけです」
「遅いものは、時々、間に合わないわ」
それだけ告げて、私は客用の小さな応接間へ向かった。
離縁届を渡したのだから、本来なら胸がすくべきなのかもしれない。実際には、何かを切る感覚より先に、力が抜ける感覚が来た。
もう支えなくていいのだと思えば、安堵してもよさそうなのに。
私は椅子に座り、膝の上で手を組んだ。
花嫁道具を売った日のことを思い出す。母から贈られた青い耳飾りを外したとき、鏡の中の私は驚くほど平然としていた。泣きもしなかった。怒りもしなかった。ただ計算した。これで別邸の未払い分が埋まる、これで倉庫の梁が直せる、これで小作人へ冬麦の種を渡せる。
その平然が、今日まで私を冷たい女に見せてきた。
しばらくして、外の騒がしさが変わった。義母の高い声が、いつもの泣き真似ではない強さを帯びる。義弟の笑い声が消える。使用人たちの足音が早くなる。
何か起きたのだろうかと思ったが、私は立たなかった。
今夜だけは、家のすべてに自分から手を伸ばすのをやめると決めた。
やがて扉が開いた。
ルシアンだった。
顔色が悪い。怒っているわけでも、泣いているわけでもない。もっと始末が悪い。自分が何を見落としていたのか、ようやく理解し始めた人の顔だ。
「セレナ」
私は立ち上がらなかった。
「読みましたか」
彼は頷く代わりに、手に持っていた薄い帳簿を机へ置いた。
その上に、もう一冊、さらに分厚い帳簿がある。私が渡していないものだ。
「書庫の鍵を、マルタが」
「頼んだのですね」
「……頼んだ。補填記録だけでは足りなかった」
彼の声はひどく掠れていた。
「花嫁道具の売却、南別邸の未払い、セドリックの負債の肩代わり、厨房の赤字補填、小作人への立替金……」
彼は一つ言うごとに、言葉に傷ついていくようだった。
「君は、三年でこんなに」
「家を回しただけです」
「私に一度も」
「言いました」
私は淡々と答えた。
「何度も。別邸の送金が多すぎること。義弟の投機の尻拭いを止めること。倉庫修繕を優先すること。使用人の離職が増えていること。冬支度に回す現金が足りないこと」
「……」
「あなたはそのたび、もう少し柔らかく言えと言いました」
ルシアンは唇を噛んだ。
私は追い詰めたいわけではなかった。ただ、今ここで曖昧にしてしまえば、また同じところへ戻ると分かっていた。
「帳簿の一ページ目をご覧になりましたか」
彼はゆっくり頷いた。
「君の持参金、だった」
「ええ。結婚初年度の冬、小作人への支払いが遅れたときに使いました」
「二ページ目は宝飾品」
「別邸の暖房費です。あの冬、お義母様は侍女を減らしたくないとおっしゃったので」
彼は両手で顔を覆った。
私はそこで初めて、少しだけ怒りを覚えた。
今さら苦しそうな顔をするくらいなら、最初の一度でこちらを見てほしかった。
「私が冷たいのは知っています」
手の隙間から、彼の肩が揺れた。
「違う」
「違いません。私は誰かを慰めるより、支払期日を守る方を先に選びます。泣き声に同情するより、翌月の赤字を止める方を先に選びます」
「それは冷たいんじゃない」
「では何ですか」
彼は顔を上げた。
目が赤い。けれど涙は落ちていない。
「私が、君に全部やらせていた」
その答えは、思っていたより正しかった。
私は息を吐いた。
「あなたは優しい人です」
「そんな言い方はやめてくれ」
「優しいから、誰にも嫌われたくなかった。お義母様にも、義弟にも、私にも。だから線を引く役目を、全部私へ渡した」
ルシアンは何も言えなかった。
暖炉の火が小さくなる。応接間の隅には、夕食へ出す予定だった銀盆が置きっぱなしになっている。誰もそれを片づけに来ないのは、伯爵家の空気が今、別の緊張で張っているからだろう。
「さっき、母上が君を責めていた」
「でしょうね」
「食費を削った、侍女を解雇した、弟を馬鹿にした、家を壊しているのは君だと」
「間違ってはいません。壊さないために切っていますから」
「セドリックは、君が兄の妻のくせに商人みたいだと言った」
「それも聞き慣れました」
「でも」
彼は帳簿を見下ろした。
「本当に家を壊そうとしていたのは、私の方だった」
私はそこでようやく立ち上がった。
彼の前まで歩いていき、机の上の帳簿を閉じる。
「壊れるのは、まだこれからでも止められます」
「セレナ」
「ただし条件があります」
彼は息を止めたように見えた。
「お義母様への定額送金は今月で終わりです。別邸の侍女は半分に減らします。義弟の借財は、今後一切アークライト家で肩代わりしません。必要なら弁護士を立てます」
「……分かった」
「本当に?」
「分かった」
「その場しのぎではなく?」
「違う」
彼は一歩近づいた。
「今夜、母上にも弟にも言う。明日の朝には送金口を閉じる。書面も作る」
私は彼の顔を見た。
いつもの温和さはなかった。その代わり、ようやく当主の顔があった。
それでも、信じ切るには遅すぎる時間を過ごしてきた。
「離縁届は」
彼の声が低くなる。
私は封筒のことを思い出した。
「まだ机の上です」
「破ってもいいか」
「いいえ」
彼は目を見開いた。
「今はだめです」
私ははっきりと言った。
「書類は破るためではなく、必要がなくなったと確認するために残すものです」
彼は少しの間、黙ってから、苦く笑った。
「本当に、君らしい」
「そうでしょう」
「……君を、愛のない人だと思ったことはない」
「そうですか」
「ただ、私へ愛想を尽かしたのだと思っていた」
「それは半分当たりです」
彼は目を伏せた。
「でも半分なら、残りがあるんですね」
ずるい聞き方だと思った。
私はすぐには答えず、応接間の窓へ視線をやった。庭の端で、夜露を受けた枝が月を反している。
「残りがあるから、帳簿を渡しました」
その瞬間、彼の表情が変わった。
救われたような顔をする資格があるのか、と問い詰めたくなるほど、あからさまな安堵だった。
けれど同時に、それは私がずっと欲しかった顔でもあった。
自分の見ていないものを、ようやく見ようとした人の顔。
「セレナ」
彼はそっと私の手に触れた。結婚式の日以来みたいに丁寧な手つきだった。
「もう一度、やり直させてほしい」
「帳簿を?」
彼は一瞬きょとんとして、次に小さく笑った。
「夫婦も、帳簿も」
私はその答えに、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「なら、明日から朝食の前に三十分ください」
「三十分?」
「家計の見方を覚えてもらいます」
「それだけでいいのか」
「まずは」
彼は真顔で頷いた。
「分かった」
「途中で逃げませんか」
「逃げたら?」
「今度こそ署名します」
彼は、泣きそうな顔で笑った。
「逃げない」
そのとき、廊下の向こうでまた義母の高い声がした。
今度ははっきり聞こえた。
「ルシアン! あの子に何を吹き込まれたの!」
続いて義弟の声。
「兄上、まさか本気で送金を止める気じゃないでしょうね」
ルシアンは振り返った。ほんの少し前までなら、その声に困った顔を向けていただろう。
だが彼は私の手を離さず、静かに言った。
「セレナ、来てくれるか」
「横に立つだけなら」
「それでいい」
私たちは応接間を出た。
廊下の先には義母と義弟がいた。義母は涙ぐんだ顔で、義弟は苛立ちを隠さず立っている。使用人たちは距離を取り、マルタだけが背筋を伸ばして控えていた。
「ルシアン、この女はあなたを家族から引き離そうとしているのよ」
義母が震える声で言う。
「いいえ、母上」
ルシアンの返答は短かった。
「引き離していたのは、私の甘さです」
義母が目を見開く。義弟が鼻で笑う。
「兄上まで義姉上に毒されたか」
「毒ではない」
彼は私の方を一度も見ずに言った。
「帳簿だ」
義弟の笑いが止まった。
「明日以降、別邸への定額送金は止める。セドリックの負債も肩代わりしない。本邸の会計は今後、私とセレナが共同で管理する」
「そんな、急に」
義母の顔から血の気が引く。
「急ではありません」
私が静かに言うと、義母は私を睨んだ。
「あなたは本当に冷たい人ね」
その言葉に、以前の私は傷ついただろう。今は違う。
私はただ、まっすぐ義母を見返した。
「ええ。そう見えるでしょうね」
そしてそのまま続ける。
「ですが、冷たいと言われる方が、家を沈めるよりましです」
義母が息を呑む。義弟が何か言おうとして、ルシアンの視線に押しとどめられた。
「必要なものは切らない」
ルシアンが言った。
「でも、母上と弟上が必要だからといって、家を空にすることも許さない」
その声は大きくない。なのに廊下の空気が変わるのが分かった。
義母はようやく、自分のいつもの涙が効かないことを理解したらしい。義弟は口をつぐみ、苛立ちを噛み殺した。
「今夜はもうお引き取りを」
ルシアンが告げる。
義母は何か言いたげに唇を震わせたが、結局、侍女に支えられて去った。義弟も最後に私を睨みつけたものの、兄へは何も言えずに後に続いた。
廊下に静けさが戻る。
使用人たちが散り、マルタも一礼して下がった。
残ったのは私とルシアンだけだった。
「……終わったわけではありません」
私は先に言った。
「分かっている」
「別邸から抗議の手紙も来るでしょうし、義弟はどこかでまた借金を作るかもしれません」
「そのときは、私が最初に読む」
「何を」
「帳簿を」
その答えに、私は今度こそ小さく笑った。
笑うのはずいぶん久しぶりだった気がする。
彼はその笑いを見て、ほっとしたように息を吐いた。
「セレナ」
「はい」
「明日の朝、三十分と言わず、必要なだけ教えてくれ」
「長いですよ」
「構わない」
「数字は容赦しません」
「君も、もう少し容赦してくれると助かる」
「それは今後の成績次第です」
彼は苦笑し、それからおずおずと、けれど今度は逃げずに私の肩を抱いた。
体温が近い。
それだけのことに、胸の奥の硬かった場所がゆっくりほどける。
誰かに全部を分からせる必要はないのだと思った。
王都じゅうに真実を告げる必要も、義母へ土下座させる必要もない。
まず一人。
この家の主人が、ようやく私の隣に立った。
それで十分だと、今夜は思えた。
翌朝、朝食の前に、私は新しい帳簿を一冊開いた。
表紙には細い字でこう書いてある。
『伯爵家本邸 共通勘定』
向かいに座ったルシアンは、昨日より少し眠そうで、それでも逃げる気配なく椅子を引いた。
「最初からお願いします、先生」
「先生ではありません」
「では、私の妻」
私はペンを持ち直した。
「では、あなたの妻として、最初の赤字から説明します」
窓の外では、冬の終わりの庭に、ようやく朝の光が差し始めていた。




