アルネモイド家の話。
光臨歴四三二二年、八月二十二日。
豊かな森林と緩やかな丘陵に囲まれた国、ネリアス公国。
その北部、ヒュグノー領を治めるアルネモイド家の屋敷に、次男が誕生した。
産声はよく通り、力強かった。
出生体重、三一五九グラム。
当主リュトワー、その妻テネシア、そして控えていた侍女たちの間に、安堵の吐息が静かに広がる。
名は――ルークス。
「一族の光となる者へ」
父がそう願い、与えた名だった。
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ルークスは淡い銀灰色の髪を持って生まれた。
まだ柔らかな産毛のようなそれは光を受けるたび白にも見え、時に青みを帯びる。
瞳は深い蒼。
泣き疲れて目を閉じていても、不思議と印象に残る色だった。
幼子らしい丸みを帯びた顔立ちだが、時折見せる視線だけが妙に落ち着いている――と、侍女たちは口を揃えて言った。
もっとも、当人にその自覚はない。
いや。
自覚できるほどの「言葉」を、まだ持っていなかった。
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生まれて数週間、ルークスはよく眠り、よく泣き、よく乳を飲んだ。
だが一ヶ月を過ぎた頃から様子が変わる。
泣く回数が減り、代わりによく声を出すようになったのだ。
「あー……う、あ」
意味のない音。
当然、言葉にはならない。
それでも彼は目の前の顔をじっと見つめ、指を差し、何かを伝えようとしていた。
母テネシアや侍女たちは微笑みながら応じる。
まるで会話が成立しているかのように。
そしてルークスは満足そうに笑った。
――理由は分からないが、声を出すと安心した。
それだけは、確かな感覚として彼の中にあった。
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生後五ヶ月を迎える前、ルークスは揺籠を脱出した。
気づけば屋敷の廊下を這い回っている。
テネシアが見失うのは日常茶飯事だった。
廊下の角で眠っていたり、玄関近くで途方に暮れて泣いていたり。
とにかく、落ち着きがない。
「この子は本当に次男なのかしら……」
母は半ば呆れながら笑った。
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さらに驚くべきことに、生後六ヶ月で歩き始めた。
早すぎる成長だった。
長男ラウノートですら八ヶ月目前だったのだ。
四歳の兄ラウノートは剣術稽古を始めてから弟に付きっきりではなくなったが、それでも稽古後には必ず顔を出した。
汗まみれのままルークスを抱き上げ――
「ラウノート、着替えてからにしなさい」
父に叱られるまでが日課である。
ルークスは兄の木刀を杖代わりにして歩くのを好んだ。
時折、意味もなく振ろうとする。
当然、持ち上げきれない。
そのたびに兄の「剣術指導ごっこ」が始まり、屋敷は笑い声に包まれた。
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母テネシアは、隣国テルハーゲン出身の貴族令嬢だった。
柔らかな栗色の髪と穏やかな緑の瞳を持つ女性で、社交界では聡明さで知られていた。
ネリアス公国の貴族学校在学中、リュトワーと出会い結婚。
この世界では珍しい恋愛結婚である。
長男を二十三歳で、ルークスを二十七歳で出産した。
貴族社会において、長男は家を継ぐ者。
次男は支える者。
それが常識だった。
ゆえに教育も剣術中心。
魔術は最低限のみ。
近年、魔術師の価値は下がりつつあったからだ。
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父リュトワーはヒュグノー領の領主。
黒髪に鋭い灰色の瞳を持つ、静かな威圧感のある男だった。
林業と養蜂を発展させ、この地を「蜂蜜の街」と呼ばれるまでにした功績者でもある。
普段は政務に追われ屋敷に顔を出さない。
だが夕刻になると必ず子供部屋を訪れた。
「今日はな、川の橋を直す話になってな」
テネシアに一日の出来事を語りながら、眠るルークスを眺める。
その表情だけは、領主ではなく父親だった。
若い頃、一時的に家出し冒険者として過ごした過去を持つという噂もある。
剣を握る姿を見ると、それが事実だと誰もが理解した。
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ルークス一歳の誕生日。
それは公国貴族の伝統行事として、領民全体で祝われた。
屋敷の外では蜂蜜菓子が振る舞われ、街は祝福の空気に包まれる。
次男とはいえ、領主の子が無事一年を生きた。
それだけで十分な理由だった。
誰も知らない。
この幼子が、いずれ世界の均衡そのものに関わる存在になることを。
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そして――
ルークスに二度目の夏が訪れる。
まだ何も知らないまま。
ただ、理由の分からない「懐かしさ」だけを胸の奥に残して。




