孤独な老人の話
どこの国なのかも分からない。
ただ一人、薪を割る老人がいた。
山の冬は、人を容易く殺す。
だから老人は、魔術で灯した火を背に作業を続けていた。
浅い呼吸。
そして、薪の割れる乾いた音。
それらが交互に、静まり返った森へ吸い込まれていく。
鳥の声はない。
寒さのせいか、それとも――この場所そのものを避けているのか。
痩せ細った身体。
無造作に伸びた白髪と髭。
その目は、とうの昔に生気を失っていた。
周囲に人影はない。
世界は、彼を置き去りにして進んでしまった。
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この世界では、都市と辺境の格差が極端だった。
都会では薪など不要だ。
術式が森林から資源を自動搬送し、各家庭へ届ける。
だがここには、それがない。
やがて老人は手を止め、ゆっくりと家へ戻った。
台所に立ち、鍋を覗き込む。
「……今日はシチューか」
返事の代わりに、冷たい風が背中を通り抜けた。
台所の隅には、一か月前の新聞が置かれている。
この山奥まで配達員は来ない。
だから月に一度、麓の街まで降りて買う。
新聞は、彼が世界と繋がる唯一の手段だった。
ここ四十年――見出しはほとんど変わらない。
災害。
飢餓。
そして種族間戦争。
西大陸では文明はすでに修復不能とされていた。
五十年の間に世界の半数の国家が都市機能を失い、飢餓による死者は増え続けている。
魔術成功率は史上最低を更新し続け、ついに魔法省は解体された。
残されたのは、観測装置だけ。
南方では新たな感染症が発生し、死者は四桁を突破。
正常に機能している都市は、もはや数えるほどしかない。
魔術教育すら受けられない子供が増えていた。
世界は、静かに崩れていた。
⸻
魔素暴走による災害も止まらない。
火災、嵐、洪水――
自然災害は魔素によって増幅され、被害はかつての倍以上となった。
理性を失った魔獣も増え続けている。
結界はすでに役目を果たしていない。
だが、この森だけは異様な静けさを保っていた。
理由は単純だった。
老人がここへ住み始めた際、周辺一帯の魔物と大規模な戦闘を行い――結果として魔物が近寄らなくなったのだ。
それでも二日に一度、巨大な猪が突進してくる。
老人は指をわずかに動かす。
空間に生じた電位差が雷となり、猪の脳天を撃ち抜いた。
倒れた肉を見下ろし、老人は小さく息を吐く。
かつて庶民の味として人気だった肉も、今では味が落ちた気がした。
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食後、老人はいつものようにバルコニーへ出た。
どれだけ寒くても外に出る。
家の中には、孤独を強めるものしか残っていないからだ。
椅子に身を沈め、空を見上げる。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
七十を越え、人族の平均寿命に達していた。
最近は、昔のことばかり思い出す。
魔法省に勤めていた頃。
忙しさに追われながら、何度も田舎での隠居を夢見た。
――思わぬ形で叶ったものだ。
「勇者、か……」
結局、世界は最悪の結末へ向かっている。
ならば勇者は存在しなかったのか。
それとも――。
あいつが、そうだったのか。
⸻
西大陸南部。
紛争地帯で魔力災害が発生し、大地そのものが崩れ始めたあの日。
若き日の老人と、回復魔導士、三人の剣士のパーティは――
名も知らぬ一人の剣士に敗れた。
理由は分からない。
突然剣を向けられ、足首を断たれ、魔術を発動する前に視界を奪われた。
回復魔導士のおかげで身体は戻ったが、剣士の一人は死亡した。
もしあれが勇者だったなら。
大陸は崩れなかったのかもしれない。
あの時、自分が死んでいれば――救えた命があったのかもしれない。
自分の使命は、命を賭して勇者を守ることだったのではないか。
……もっとも、あれが勇者だったなら、の話だ。
確かに異質だった。
剣技だけではない。
あの男が魔術を失敗するところを、一度も見ていない。
西大陸で成功率百パーセントなど、あり得ない。
ならば自分の役目は、あの時すでに終わっていたのだろう。
失敗という形で。
「……用済み、か」
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それから七日後。
老人は、誰の記録にも残らぬまま息を引き取った。
冷たさが身体を満たす。
重力が消え、詠唱もなく浮かび上がる感覚。
まぁ、いい。
誰かが引き継ぐだろう。
放っておいても、勇者は現れる。
そう思った。
身体から光が漏れ出す。
何かに吸い上げられるように。
そして――光は消えた。
⸻
世界の崩壊が始まるまでの猶予28年。
老人の死から七十一年前。
一人の少年が誕生する。
世界は、再び彼に人生を与えた。
――役割と共に。




