ふたりは姉妹 前編
ちょっとシリアスになります。
身体測定の日、佳奈は保健室の前で順番を待っていた。
廊下には1年生の女子が列を作っていたが、今はもう2人しかいない。前から順番に呼ばれて、保健室に入っていく。大抵の場合森北は最後のほうになる。
「森北佳奈さん」
名前を呼ばれて、佳奈は保健室のドアを開けた。
白い壁、消毒液の匂い。
「靴を脱いではだしになってください」
養護教諭が優しく言った。
佳奈は靴を脱いで靴下も脱いだ。そして身長体重計の下に立った。背筋を伸ばす。バーが降りてきて一瞬頭に触ると上に戻っていった。
「はい、いいですよ」
養護教諭がデジタル表示の測定データを見せてくれる。
佳奈は軽くうなずいた。身長は158.4センチで去年より1センチ伸びている。悪くない。平均よりも少し高いくらいだ。体重はあまり大きな変動はなかった。
記録用紙に数字を書き込む。
「ありがとうございました」
佳奈は保健室を出た。
廊下に戻ると、次の順番を待っていた結菜と目が合った。
「佳奈ちゃん、何センチだった?」
結菜が明るい声で聞いてきた。
「158.4」
「お、伸びたね。じゃあ私も期待しちゃおうかな」
「うん。みんな測り終えてるよね、結菜で最後でしょ。あいうえお順だといつもこうだもんね」
「うん」
その時、保健室から声がした。
「森北結菜さん」
「呼ばれた。じゃあ行ってくる」
結菜が保健室に入っていく。佳奈は廊下で待つことにした。
窓の外では、春の日差しが校庭を明るく照らしている。桜の花びらが風に舞っている。
「日陰はまだ寒いな」
腕をさする佳奈。
数分後、結菜が保健室から出てきた。
「佳奈ちゃん!」
結菜が嬉しそうに駆け寄ってきた。
「何センチだった?」
「159.6センチだった!」
結菜の声は弾んでいた。
その瞬間、佳奈の胸の奥で何かが引っかかった。
「……えっ」
悔しさと焦りが突然、胸に渦を巻く。
159.6センチ。
つまり、結菜の方が1.2センチ高い。
去年は私の方が高かった。
10ヶ月後に生まれた妹に、身長を抜かされた。
佳奈は一瞬、言葉が出なかった。でも、すぐに笑顔を作った。
「すごいね」
「でしょ? 去年より3.4センチも伸びたの」
「3.4センチ? それすごい伸びだね」
「佳奈ちゃんとほとんど変わらないよね」
「……そうだね」
結菜は無邪気に笑っている。悪気はない。ただ、嬉しいだけだ。身長が伸びたことが嬉しくて、それを姉に報告したいだけ。
でも、佳奈の胸の奥には、自分でも認めたくないもの、でも確かに存在する感情。
悔しさ、焦り、嫉妬。
「教室戻ろうか」
佳奈が先に歩き出した。
「うん」
結菜が後ろからついてくる。その足音が、いつもより軽やかに聞こえる。
教室に戻ると、クラスメイトたちが身体測定の結果を話しで盛り上がっていた。
「私、去年と変わらなかった」
「私は1センチ伸びた」
「朝抜いてきたのに体重が――」
佳奈は席に座った。机の上には、数学のプリントが置かれている。次の授業の準備だ。
結菜は友達と身長の話をしている。
「結菜、何センチだった?」
「159.6」
「160超えそう」
「去年より3.4センチ伸びたの」
「すごすぎ」
佳奈はプリントを見つめた。でも、文字が頭に入ってこない。
「1.2センチ……」
わずかな差。でも、その差が大きく感じられる。
同じ学年なのに。10ヶ月先に生まれたのに。
今は結菜の方が背が高い。
⸻
放課後、真奈と合流し3人は自転車で帰る。
いつもなら、佳奈が先頭を走り、結菜が後ろを走る。真奈は一番後ろで、2人を見守るように走る。それが、森北家の三姉妹の自転車の隊列だった。
でも、今日は違った。
走り出した瞬間、結菜が自然と前に出た。
ペダルの回転が軽い。一漕ぎで進む距離が、少し長い。
佳奈は慌ててペダルを踏み込む。けれど、差は埋まらない。
結菜の背中が、じわりと遠ざかる。
信号が赤になり、3人は止まった。
「佳奈ちゃん、遅いよ」
振り返った結菜は、ただ笑っているだけだ。
「……うん」
信号が青に変わる。
また結菜が先頭に出る。
佳奈は歯を食いしばってペダルを漕いだ。
背中は、やっぱり遠いままだった。
家に着く頃には、佳奈の額には汗がたっぷりと浮かんでいた。息が上がっている。
結菜は少し息が弾んでいるだけで、余裕がありそうだった。
「ただいま」
3人で玄関に入る。
「おかえり」
母が笑顔で迎えてくれた。
「お母さん、今日身体測定だったんだよ」
結菜が嬉しそうに言った。
「そう。どうだった?」
「身長が159.6」
「あら、伸びたわね」
「去年より3.4センチも」
「すごいわね。佳奈は?」
「158.4」
佳奈は小さな声で答えた。
「あら、結菜の方が高いのね」
母は特に驚いた様子もなく、普通に言った。悪気はない。ただの事実。
「うん。でも、佳奈ちゃんとほとんど変わらないよね」
結菜が笑った。
「そうね。2人とも順調に成長してるわ」
母が優しく言った。
佳奈は何も答えず、自分の部屋に直行した。
ドアを閉めて、机に突っ伏す。
大きく息をつく。
「何で……」
自分でも、何に対して「何で」と思っているのかわからない。
身長が抜かれたこと?
自転車で追いつけなかったこと?
それとも、結菜が嬉しそうにしていたこと?
どれも、別に悪いことじゃない。
妹が成長するのは、当たり前のことだ。喜ぶべきことだ。
でも。
胸の奥に、もやもやとした感情が渦巻いている。
悔しさ。焦り。そして、認めたくない嫉妬。
佳奈は顔を上げて、机の上の教科書を見た。
数学の教科書。次のテストの範囲だ。
「勉強なら……」
ふと思った。
身長は、どうしようもない。自転車も、脚力が関係する。昼休みに体育館で走り回っている結菜に、敵うわけもない。
でも、勉強なら。頭を使うことなら。
努力次第で、結果が変わる。
佳奈は教科書を開いた。でも、文字が頭に入ってこない。
集中できない。
その日の夜、夕食の席で、佳奈は結菜を見た。
結菜は普通に食事をしている。笑顔で、母や真奈と話している。
「今日の体育、楽しかった」
「何やったの?」
お椀を置いて母が尋ねる。
「バスケ。シュートが馬鹿みたいに決まるんだよ」
「すごいじゃない」
真奈が笑った。
佳奈は黙って食事を続けた。
⸻
食後、佳奈は結菜を呼び止めた。
「結菜、ちょっといい?」
「何?」
結菜が振り返った。
「数学のプリント、どっちが先に解けるか勝負しない?」
「えっ」
結菜が驚いた顔をした。
「いいけど……なんで急に?」
「ただ、やってみたいだけ」
佳奈は平静を装った。
「わかった。いいよ」
「真奈にも来てもらおう。公平に見てもらいたいから」
「わざわざまー姉に?」
「うん」
佳奈は真奈の部屋に行った。
ノックをして、ドアを開ける。
「真奈、ちょっとお願いがあるんだけど」
「何?」
真奈が本から顔を上げた。
「私と結菜が数学のプリントで勝負するの。審判をお願いしたい」
「審判?」
「うん。公平に見てほしいから」
真奈は少し考えてから、うなずいた。
「わかったわ」
真奈の部屋に佳奈と結菜が集まる。
「じゃあ、準備するわね」
真奈はテーブルの上にあるものを片付ける。
佳奈と結菜が座る。
「ネットで見つけた高校1年の問題を解いてもらう。範囲はそれほど広くはないから、全て解けるはず」
真奈がプリントを配る。
「ルールは簡単。同時にスタートして、どちらが先に全問解き終えるか。あと正解率」
「わかった」
佳奈と結菜がうなずく。
「準備はいい?」
「うん」
「よーい、スタート」
真奈の合図で、2人は一斉にペンを走らせた。
最初の問題。解き方は分かる。
でも、指先が止まる。
向こうから、迷いのないペンの音が聞こえる。
スラスラと、迷いなく。
結菜だ。
佳奈は焦った。
「早く、早く」
急いで計算を始める。でも、焦れば焦るほど、計算ミスが増える。
2×3を5と書いてしまう。
消しゴムで消して、書き直して。
結菜のペンの音は止まらない。
佳奈の心拍数が上がる。呼吸が浅くなる。手のひらに汗が滲む。
なんとか1問目を解き終えた。
次の問題。確率の問題。
これも解き方は分かる。
でも、向かいの結菜はもう3問目に取り掛かっているように見える。ペンの音が、プリントの上の方から聞こえてくる。
佳奈は必死に問題を解き続けた。
指先が震える。
汗が額に浮かぶ。
次の問題、次の問題。
でも、結菜のペンの音は、ずっと先を行っている。
最後の問題。図形の問題。
三角形の面積を求める。
佳奈は図を書いた。でも、手が震えて、線がまっすぐ引けない。
消して、書き直して、計算して、やっと答えが出た。
佳奈はペンを置いた。
「……できた」
小さな声で言った。
結菜もほぼ同時にペンを置いた。
「私も」
真奈は静かに近づき、2人のプリントを手に取った。
ゆっくりと目を通す。
佳奈の答案。結菜の答案。
「2人とも、よく頑張ったわね」
真奈が優しく言った。
その一言で、佳奈は焦りを一瞬だけ落ち着ける。
でも、心の奥ではわかっている。
結菜は無意識に、また少しずつ、佳奈の世界に踏み込んできている。
「どっちが早かった?」
結菜が聞いた。
「ほぼ同時ね。でも……」
真奈が少し考えてから言った。
「結菜の方が、ほんの少しだけ早かったかもしれない。見直しもしてたし」
佳奈の胸の奥で、何かが弾けた。
「そっか、じゃあ私の『勝ち』だよね」
結菜が笑って佳奈を見た。
「そうだね、今回の勝負は結菜の勝ちだよ」
佳奈は心ここに在らずな感じでうなずく。
「でも、佳奈もすごく早かったよ」
佳奈は何も答えなかった。答えられなかった。
⸻
学校の帰り道、3人は自転車で走った。
佳奈は歩幅を意識するように、ペダルを漕ぐ速度を意識した。少し早めに。
でも、結菜は自然に同じ速度で合わせてくる。
そして、ふとした瞬間に、また先頭に出る。
真奈は一歩後ろで、静かに2人の走りを見守っている。
佳奈は思う。
「まだ勝負は残ってる……けど、油断できない」
⸻
次の日の昼休み。
佳奈は結菜を体育館に呼び出した。
「バスケ、やろう」
「1対1?」
「うん」
結菜は少し驚いた顔をしたが、すぐに笑った。
「いいよ」
体育館の床は冷たく、ボールの音が乾いて響く。
真奈が少し離れた場所に立った。
佳奈がドリブルを始める。
目の前の結菜は、軽い。
フェイントをかける。切り返す。
わずかな隙ができる。
シュート。
リングに当たって、外れた。
「惜しい」
真奈の声。
結菜がボールを拾う。
速い。
身体が自然に流れるように動く。
止めようとしても、半歩届かない。
結菜のシュートは、音もなくリングに吸い込まれた。
「ナイス」
真奈が小さく拍手する。
佳奈は悔しかった。
でも――ほんの少しだけ、嬉しかった。
あんなにきれいに決められるなんて。
「もう1回」
「いいよ」
2回、3回。
結果は同じだった。
佳奈のボールは、バックボードには当たるのにリングに弾かれる。
結菜のボールは、迷いなく落ちる。
昼休みの終わりのチャイムが鳴る。
「佳奈ちゃん、さっきのフェイントすごかったよ」
結菜が笑う。
「今日は、ちょっと運がなかっただけだね」
佳奈はゆっくりうなずく。
胸の奥が、じんわりと熱い。
悔しいのに、誇らしい。
気持ちがうまく別れてくれない。
「佳奈ちゃん、うまかったよ。ディフェンスもシュートも惜しかった。今日は佳奈ちゃん、完全にリングに嫌われてたね。なんであれで入んないんだろう」
結菜が笑顔で言った。
「そうかもね……ありがとう」
佳奈は力なく答えた。
その日の放課後。
佳奈は教室の片隅で、机に突っ伏していた。
手元には、今日出された数学のプリントが置かれている。また別の応用問題。
何度解いても、答えが合わない。
解説を見ても、理解できない。
後ろで、結菜もプリントに向かっていた。
佳奈は目を閉じた。
胸の奥に、もやもやとした感情が渦巻いている。
身長。自転車。数学。バスケ。
どれも、結菜に追いつかれている。いや、追い越されている。
10ヶ月後に生まれたのに。
同じ学年なのに。
妹なのに。
「もう……!」
思わず声が出た。
手元のプリントがぐしゃぐしゃになりかけている。
佳奈は顔を上げた。
「佳奈ちゃん?」
結菜が心配そうに近づいてきた。
「大丈夫?」
優しい声。
でも、その優しさが、余計に胸を締め付ける。
何も悪くないのに、笑顔で鉛筆を走らせる結菜。
その姿が、胸の奥でざわざわと突き上げてくる。
真奈が教室に入ってくると、ピリピリした空気感を感じ取る。
「佳奈、大丈夫?」
真奈の声は、柔らかく、でもどこか重みを帯びている。
その声が、余計に焦りをかき立てる。
「大丈夫じゃない!」
ついに佳奈は机をバンと叩いた。




