試着室事件
三姉妹が訪れた、春のショッピングモールでの一コマ。
お買い得なニットを試着した長女・真奈を、思わぬ「罠」が待ち受けていました。
土曜日の午後、三姉妹はショッピングモールに来ていた。
「春物、見ようよ」
佳奈が服屋の前で立ち止まった。ウィンドウには、パステルカラーのワンピースやカーディガンが並んでいる。
「いいね。新学期も始まったし、何か新しい服欲しいかも」
結菜も頷く。
「じゃあ入ろう」
3人で店に入ると、入り口近くにセールのコーナーが目に入った。「SPRING SALE30%OFF」の文字が躍っている。
結菜がニットを手に取った。ローゲージのプルオーバーで、柔らかそうな生地だ。ゆったりとしたシルエットで、今年らしいデザイン。
「まー姉、これ似合いそう」
「え、私?」
「うん。まー姉、こういう色好きでしょ」
結菜が差し出したのは、淡いベージュのニットだった。確かに真奈の好みの色だ。落ち着いた色味で、どんな服にも合わせやすそうだ。
「でも、春はあっという間に夏に変わるし、せめて2月いや3月だったらよかったんだけど……」
真奈が値札を見た。定価から30%オフで、かなりお買い得だ。
「今なら安いよ。来年も着られるし」
「そうね。試着してみたら? サイズも合うかわからないし」
佳奈も勧めた。
「じゃあ、試着してみようかな」
真奈はニットを受け取って、試着室に向かった。奥にある試着室のコーナーは、カーテンで仕切られた個室が3つ並んでいる。
「お客様、こちらへどうぞ」
店員さんが空いている試着室を案内してくれた。
「ありがとうございます」
真奈は試着室に入り、カーテンを閉めた。
壁には大きな鏡があり、フックには上着をかけられるようになっている。真奈は上着を脱いで、フックにかけた。
そして、ニットを手に取る。柔らかくて、触り心地がいい。
真奈は制服のブラウスの上からニットに手を通す。まず右腕、次に左腕。そして、頭からかぶった。
鏡を見る。
悪くない。サイズもちょうどいいし、色も思った通り似合っている。ゆったりとしたシルエットが、制服のスカートとバランスよく見える。今は決まっているように思う。
でも、先ほど言った言葉を思い出し考えた。気温もこれから上がっていく。桜が咲き始めているし、もうすぐ暖かくなる。このニットを着られるのは、せいぜいあと数週間だろう。そして来シーズンまで待つことになる。
今年はあまり着る機会がないかもしれない。
せっかく買っても、クローゼットにしまったままになりそうだ。
今回はなしかな。
真奈はそう判断して、ニットを脱ごうとした。
まず右腕を袖から抜こうとする。
でも、腕が動かなくなった。
「えっ?」
真奈は少し力を入れて引っ張った。でも、腕が抜けない。
「あれ?」
何かに引っかかっている。袖の中で、何かが腕を掴んでいるような感覚だ。
真奈は左手で確かめようとしたけれど、ニットの中で手が思うように動かない。ニットが体に密着していて、中で手を動かすのが難しい。
じゃあ、首から脱ごう。
真奈は首を引き抜こうとした。でも、右腕が引っかかっているせいで、ニットが上がらない。引っかかった側の腕は上がらない。無理に引っ張ると、制服のブラウスまで一緒に上がってしまいそうだ。
頭は半分くらいニットから出たけれど、右腕がニットの袖の中に閉じ込められたまま、変な体勢になってしまった。
鏡を見る。ニットが頭と右腕に絡まって、まるで何かの生き物に襲われているような状態だ。
「……どうしよう」
真奈は小さく呟いた。一人で何とかしようと、もう一度右腕を引っ張ってみる。でも、やっぱり動かない。
「……助けて」
真奈はこもった声で言った。カーテンの向こうにいるはずの佳奈と結菜に聞こえるように。
「真奈? どうしたの?」
すぐに佳奈の声が聞こえた。
「……脱げない」
「え?」
「ニットが……脱げない」
「どういうこと?」
結菜の声も聞こえた。心配そうなトーンだ。
「腕が……引っかかって……」
「カーテン開けていい?」
佳奈が聞いた。
「……うん」
カーテンが少し開いて、佳奈が中を覗いた。そして、真奈の状態を見て、一瞬固まった。
「……何これ」
「脱げないの」
「わかった。ちょっと待って」
佳奈が試着室に入ってきた。結菜も後ろから覗いている。
「うわ、すごい状態」
結菜が驚いた声を出した。
「どうなってるの?」
「腕が……」
「とりあえず、ニットから顔を出そう」
佳奈が真奈の頭に来ているニットを優しく引っ張った。ニットから真奈の顔が完全に出た。髪が少し乱れている。
「はあ……」
真奈が大きく息をついた。ニットに顔が半分埋まっていて、息苦しかった。
「次に、ニットの袖から手を抜いて」
「でも、引っかかってて……」
「引っかかってる方じゃなくて、左手。左手は大丈夫でしょ」
「あ、そっちね」
真奈は左腕をニットの袖から無事抜けた。これで少し楽になった。少なくとも、片手は自由に動かせる。
「じゃあ、右手はどうなってるか見てみよう」
佳奈がニットの袖を覗き込んだ。結菜も一緒に見ている。
「あー、わかった」
「何?」
「制服の袖のボタンが、ニットの袖に引っかかってる」
「ボタン?」
「うん。制服の袖口のボタン。ニットの編み目に引っかかって、絡まってるね」
「そんなことになってるの?」
真奈が驚いた。まさか制服のボタンが原因だとは思わなかった。
「うん。ローゲージだから、編み目が大きいでしょ? そこにボタンが入り込んじゃったみたい」
「どうすれば……」
「待って。今ほぐすから」
佳奈が真奈の右腕をそっと持って、ニットの袖の中を確認した。制服のボタンがニットの編み目にしっかりと引っかかっている。無理に引っ張ると、ニットが伸びてしまいそうだ。
「結菜、こっち持ってて」
「うん」
結菜がニットの袖口を持って、佳奈が慎重にボタンを編み目からほぐしていく。まるで外科手術のような慎重さだ。
「痛くない?」
「大丈夫」
「もうちょっと……ボタンがしっかり引っかかってるね」
佳奈が丁寧に作業を続ける。
⸻
「あ、取れた」
佳奈がボタンを編み目から外した。
「じゃあ、真奈、制服のボタンを握って」
「え?」
「ボタンを握ったまま、ニットから手を引いて。そうすれば、また引っかからないから」
「あ、なるほど」
真奈は制服の袖のボタンを手のひらで握りしめて、ゆっくりと腕をニットの袖から抜いた。
無事に取れた。
「やっと脱げた……」
真奈がほっと息をついた。閉じ込められていた右腕を動かす。少し痺れている。
「大丈夫だった?」
「うん。ありがとう、佳奈」
「ううん。でも、こんなこともあるんだね」
結菜が笑った。
「笑わないでよ」
「だって、まー姉、ニットに襲われてるみたいだった」
「ひどい」
真奈が拗ねた顔をする。
「でも、本当にそう見えたよね」
佳奈も笑った。
「2人とも……」
「ごめん、ごめん」
3人は試着室を出た。
「で、どうする? 買う?」
結菜が聞いた。さっき着ていた時は似合っていたし、値段も手頃だ。
真奈は少し考えて、首を横に振った。
「買わない」
「え、似合ってたのに」
「危ないから」
「危ない?」
「だって、また引っかかったら怖いし」
真奈が真面目な顔で言った。
「それって、真奈が脱ぎ方間違えただけじゃ……」
佳奈が言いかけたけれど、真奈は首を横に振った。
「いや、このニット危険だよ。理論上、また引っかかる可能性がある」
「理論上……」
「それは……そうだけど」
「そういうことにしておこうか」
佳奈は肩をすくめた。
「うん。まー姉がそう言うなら」
結菜が頷いた。
真奈は店員さんのところに行った。
「すみません、試着したんですけど、サイズが合わなくて」
「そうですか。ありがとうございました」
店員さんが笑顔でニットを受け取った。
3人は店を出た。
「でも、本当に似合ってたのに。もったいない」
結菜が残念そうに言った。
「また今度、別のニット探そうよ。もっと編み目が細かいやつ」
佳奈が提案した。
「うん。でも、次はボタンが絡まらないやつにする」
「袖にボタンがついてない服で試着すればいいんじゃない?」
「……そういう方法もあったか」
真奈がハッとした顔をした。今更気づいた。
「まー姉らしいね」
結菜が笑った。
「まあ、いい経験になったでしょ」
佳奈が優しく笑った。
「うん……でも、あの時は本当に焦った」
「そうだよね。顔が半分以上埋まってたもんね」
「息苦しかったし」
「次からは気をつけようね」
「うん」
真奈は少し恥ずかしそうに頷いた。
「てか、なんで今日制服で来たの」
佳奈が疑問をぶつける。
「急に出かけることになるとつい、一番着慣れてるのを選んじゃう」
「じゃあ、今回の件は惰性の結果ってことね」
「うっ。でも違う、たまたま、偶然」
3人はモールの中を歩き続けた。春の新作が並ぶショーウィンドウを眺めながら、次はどの店に入ろうか相談している。
「あ、あそこのパン屋、おいしいって評判のお店」
佳奈が指差した。パン屋からは、焼きたてのパンのいい香りが漂ってくる。
「行こうよ。お腹空いた」
「賛成」
三姉妹は並んでパン屋に向かって歩いていく。
「佳奈、パンの目利きはさすがだよね」
「まあね。将来パン屋になるつもりだし」
「私も何か買おうかな」
結菜が言った。
「真奈は?」
「私も。でも、選ぶのは佳奈に任せようかな」
「いいよ。おすすめ教えてあげる」
試着室事件は、また1つ、森北家の思い出になった。そして、真奈が服を試着する時は、袖にボタンがないものの時という新しいルールが加わったのだった。
「でも、まさかニットに襲われてるとは思わなかったよ」
結菜がまだ笑っている。
「もう言わないでよ」
「ごめん、ごめん」
3人の笑い声が、モールの中に響いた。春の午後、姉妹のショッピングは続いていく。




