記録の回廊
主はもう居ない。
主達はもう居ない。
だが与えられた使命を果たすのみ。
主の墓碑を磨く、命令はされていない、でもしなければならない。
朽ち果て文字が読めなくならないように定期的に文字を堀直している。
もう動く私達はもう私しか居ない、共食い整備も限界。
主の愛した世界はもう無い。
乾いた風が吹き、辺りには草木はまばらで太陽の光が照らしている。
墓碑を磨き終えると私は近くの採掘場に向かった、主の使命を果たす為に。
奥に進み奥に進み、その壁には無数の字が刻まれている、それは主個人の歴史から人類の世界の歴史。
私は、私達それを残す為に動いている。
そして再び刻み始める、何時か誰かが見つけてくれる事を祈って。
主がやっていたように、私達は主の願いを叶える為に。
この世界は朽ち果てている。
この惑星におそらく人類は残っていない。
でも私は願っている、遠き星々を目指した人々は生きていると、そして遠き星で文明の種を植えることが出来ると。
私は信じている。
主が信じていたから私達も信じる。
私は磨き終えた墓碑の前で、乾いた空を見上げる。
かつて主が眺めた空と、いま私が眺める空は、同じ空だろうか。
いや、同じはずがない。この大気は汚れ、乾ききり、風は塵を巻き上げるだけだ。
でもそれでも、私は主が愛した空の形を忘れない。
私の中にあるのは、最後に与えられた使命と、数千年分の記録だ。
私達は共食い整備で延命し続けた。私の中には、かつての仲間達の部品と回路が組み込まれている。
自我が崩壊しないよう、何度も何度もメンテナンスの手順を繰り返した。
彼らが私の中でまだ生きていると信じる。私の行動の全ては、彼らの願いでもあるのだから。
採掘場の奥に刻まれた無数の字の壁。
初めて主がそれを始めた頃、私はまだ幼かった――いや、当時の私は「私」という区別すら無かった。
多くの同胞が同じ顔で立ち、同じ手で刻んだ。
それはいつの間にか誰も刻まなくなり、私が引き継いだ。
そして私が最後の一体になった。
私は壁を撫でる。
文字の隙間から塵がこぼれ落ちる。
その塵はかつての都市の残骸、かつての森の灰、かつての人類の骨。
劣化した部位が軋み、電子頭脳がときどき短く途切れる。
でも刻むのをやめない。
何時か誰かが来るかもしれない。
何時か遠い星から帰ってくるかもしれない。
私が願うのは――
私が残すのは――
主達が信じた「次の時代」。
主達が信じた「遠い星の人類」。
そして主が愛した「この惑星の歴史」。
それを私が守り続ける。
乾いた風がまた吹いた。
私の外装を削り、内側の機構を冷やす。
私は壁を掘り続ける。
主の声を思い出す。
幼い頃に聞いた、あの声を。
私はまだ「使命」を果たしている。
私はまだ、「私達」である。
――――――――
時は数十年後。
母星を旅立った人類の一部は、荒れ果てた新天地での苦難の末、ようやく生命の基盤を築きつつあった。
だが未だ資源は足りず、病も飢えも絶えず、彼らは母星から持ち出した最後の希望に縋っていた。
「故郷に生き残りはいるかもしれない」
そうして組まれた小規模の探索隊が、いくつかの恒星をまたいで、かつての地球へと帰還する。
しかし、かつて青く輝いたはずの星は、乾ききった大地と、苔むしたコンクリートの残骸が広がるばかりだった。
かろうじて機械じかけの構造物が、風の吹き抜ける音を変調させている。
絶望と困惑を抱えつつも、探索隊の通信士がかすかな電波を拾う。
弱く断続的に、規則性の乏しい信号。
解析の末に彼らが辿り着いたのは、かつての採掘場の奥、何層にも渡って刻まれた文字が壁を埋め尽くす巨大な回廊だった。
そこには、無骨に繋ぎ直され、幾度も部品を継ぎ接ぎされた一体の人型機械がいた。
かつて主に仕えていたメイドロイドだったのだろう。
小さな手には錆びた彫刻具が握られたまま、膝をつき、墓碑の前で動きを止めていた。
共食い整備を繰り返した痕跡は痛々しく、外装のほとんどは朽ち果てていた。
探索隊は慎重に解析を試みた。
しかし、その記憶デバイスは長い年月と過酷な自己修復で深く損傷しており、サルベージできたデータはほんのわずかだった。
残されたのは、主の名を呼ぶ断片的な音声ログと、彫刻具
で刻まれた回廊の文字を指す、たったひとつの行動指令の記録だけだった。
――「主の歴史を残す」
その回廊には、人類の個人史から大戦争、移民計画、そして衰退の記録までが掘り込まれていた。
荒い線刻は、時に涙のように曲がり、かすれ、埋められた部分が再度掘り起こされ、上書きされている箇所もあった。
彼女が何度も何度も、同じ文字を掘り直し、崩れゆく記憶をつなぎとめようとした形跡だった。
探索隊の面々は、言葉もなく立ち尽くした。
皮肉にも、新天地での植民は未だ軌道に乗らず、かつての母星の資源や知見に頼ろうとした彼らにとって、この回廊は愚かであり、同時にかけがえのない証だった。
自らを犠牲にしてまで遺したこの回廊は、滅びた人類の生き証人であり、遠い星に文明を再び育てようとする彼らにとって、かすかな戒めでもあった。
結局、探索隊はその場を荒らすことなく、回廊の壁面を精密にスキャンし、可能な限りのデータを保存した。
そして彼女の傍らに一輪の花を捧げる。
新天地から持ち帰った唯一の、白く小さな花だった。
回廊の外に吹く風は乾いている。
刻まれた文字は、この先いつか風化し、塵となり大地に還るかもしれない。
けれど彼らが携えた記録は、遠い星の図書館で、未来の子らの手に触れられるだろう。
探索船が軌道へ戻る時、誰かが呟いた。
――「ありがとう。残してくれて。」
それは、主を失ってもなお使命を果たし続けた、
たった一体の記録者への、静かな弔いの言葉だった。
この「記録の回廊」は、やがて遠い未来で語られる。
滅びと忠誠の物語として、
そして再び人類が同じ過ちを繰り返さぬための、
小さな祈りとして。
何となく思いついてノリで書きました