変異
次の日、私は朝早く起き、着替えていつも通り髪を低い位置で乱雑に一つにまとめると、一目散に主の部屋に向かった。いつ目覚めても良いようにメイドたちが交代で一晩中ついていてくれたそうだが、お目覚めにはならなかったそうだ。そして、その時番をしていたメイドに話しかけた。
「おはよう、イリーナ、ファティマ様は?」
「おはよ、エヴァ。変わりないよ。」
「そっか……」
私が少し落胆していると彼女は微笑んで窓の方を示した。
「カーテンを開けてやったらどうだい?明るくて目を覚ますかもしれないよ。」
そう言われて私は窓に歩みより、カーテンを開けた。何も変わりなかったが、ベッドの側のイリーナの隣の椅子に座ると、力なく置かれた手をそっと握った。
「ファティマ様、朝ですよ。エヴァが、貴女のエヴァが来ましたよ。どうか、起きてください。」
だんだん祈るようになりながら言葉をかけていったが、それでも様子は変わらなかった。そして美しい淡い色の金髪が傷んでいるのを見て苦しくなった。
「もしかしたら、起きるのが怖いのかもしれないね。」
「え?」
「起きたら、また現実を見ないといけないじゃないか。」
「……」
「なーんてね。」
沈黙。イリーナが少し茶化したが、私はどう言葉を続ければ良いのか分からなかった。だが、その考えは私の中で怒りと呪いを煮えさせるのには十分だった。あぁ、イリーナの言葉が本当だったらどうしよう。
沈黙。どのくらい座っていたか分からない。ふと、足音が近づいているのに気付いた。気付いただけで扉を開ける元気はなかったが、それでも動かなきゃと思うころにはイリーナが扉を開けていた。その足音を聞き間違えられる筈がないのだが、その扉の向こうにいたのはラドヴァンだった。
「やぁ、イリーナ、ちょっとエヴァに用があるんだ。どうせここに来ているだろうと思ってな。」
快活に、と言える程明るくはないが、よく通る声が重苦しい部屋の空気を震わせた。
「あまり大きな声を出さないでよ、病人がいるんだからね。」
「クソガキをちょっと借りていくだけだ。」
そう言いながら彼はその大きな手で私を掴んで持ち上げ、脇に抱えて歩き始めた。
「3日もサボるなんて良い度胸じゃないか。」
「げ。オホメニアズカリコウエイデス。」
褒められていないことは私にもわかる。
「褒めてないからな。全く、もう辞めるのか?」
「やるっ!やるもん!」
ラドヴァンは私の頭をがしがしと揺らした。これが撫でているつもりなのはよく知っている。少し痛かったが、彼のおかげで重苦しくなりすぎないで済んだことは間違いなかった。
しかし、ファティマの部屋を離れても、この頭からそのことが離れることはなかった。
「どうした、エヴァ?覇気がないな。」
「ねぇ、奴らはどうなったの?」
淡々と素振りをこなしながら聞いた。意識だけをラドヴァンの方に向けた。
「死んだんでしょう?死体はどうなったの?」
「あぁ、それはなぁ……」
嫌がっている、というのに近いような躊躇い。それを見て私は分かった、彼は知っている。でも、その上で私に言うべきか迷っている。
「どこにあるの?」
「お前なぁ……」
「害のある者として殺された死体は何日か保管されるんでしょう?記憶の解析魔術で記憶を探り、何があったのか、他にも仲間がいるのか知るために。ねぇ、そいつらの死体はどこにあるの?連れて行って。死体でも良いから奴らを殺したい!」
――殺したい。
そんな言葉が自分の口から出たことに自分で驚いた。そして、ラドヴァンもまた、驚いたようだ。
「もう死んでいるんだ。死体は殺せないだろう。」
いつもははきはきと聞き取りやすいように話す彼が、絞り出すように言った。それでも、自分の中に溢れ出始めたものを止められなかった。自分が発しているのに、何を言っているのか頭が追い付かないようだった。
「無駄でも良い、奴らを切り刻んで、殴って、千切って、踏み潰してやりたい!私は私がどれだけ汚れようとも、ファティマ様を傷つけた奴らに仕返したい!私は、私はっ!!」
「エヴァ!」
突然の大きな声に驚いて私は身体をビクッと震わせた。段々と自分の口から溢れ出た言葉を理解していき、恐ろしさが込み上げて来た。
「そんなことのために、お前の剣を汚すな。」
そして彼は私の横にしゃがみ、私の肩を掴んで私を彼の方に向けさせた。私は顔を向けられなかったから、ただ俯くしかなかった。
「そんなことは俺がいくらでもやってやる。代わってやる。お前がそんなことしても何にもならないということは、お前はよく分かっているだろうからな。そんなことに気を取られているうちに、お前の大切なものにまた傷をつけられるぞ。いいか、一番の復讐になることを教えてやる。」
本当に、この人は、苦しくなるほどに優しい。なんで、こんな私のために、こんな言葉を吐けるんだよ。それから彼はニッと笑った。
「笑え。」
「わらう?」
思ってもみなかった言葉につい顔をあげてしまって、慌てて下げなおす。
「笑うんだ。誰も何もお前らを傷つけられないと見せつけてやるんだ。馬鹿にしてやるんだ。どんな攻撃もお前から笑顔を奪うことはできないと、お前とお嬢様の絆は、誰がどう頑張っても触れられさえしないと、示してやるんだ。努力が無駄に壊されて鼻で笑われるほどの屈辱はないだろう?」
私は笑えなかった。代わりに涙が溢れてきた。笑おうと顔に意識をし過ぎて他のところが足りなくなったのかもしれない、私は身体の力が抜け、膝から崩れ落ちた。そして彼はまた私の頭をぐりぐり回しながら言った。
「罰として、明日は素振り1万回追加な。」
「酷い」
本当に、この人は、厳しさにお釣りが来るほど、優しい。
また次の日、また私はファティマの部屋に行ったが、何も変わってなかった。イリーナに言われるより先にカーテンを開けた。彼女は目を覚ます気配もなかった。
「うーん、どうしたものかねぇ。」
私はただ手を握っていた。
「寝たままだと、食事もできないから、そのまま死んじゃいそうで、心配になるね。」
「不吉なこと言わないで、イリーナ。」
イリーナはおどけたように笑ったが、イリーナも恐れているのに違いはないようで、以前みたく輝くように笑いきれていなかった。
「ねぇ、エヴァ。王子様の目覚めのキスが必要なんじゃない?」
「は?」
イリーナはついに壊れたのか?もとから、強い好みを熱く押し付けて来ると、彼女と同い年で友人のサーシャが言っていたが。
「おとぎ話にあるじゃない。王子様がキスして、お姫様は目を覚ますんでしょ?」
「ふざける気持ちになれないよ。」
イリーナがやれやれといった顔で私に諭すように言った。
「おとぎ話だったとしても、可能性があるなら試してみたくない?」
「だからといってよその人間を入れるというの?」
待ってましたとばかりにイリーナが微笑んで顔を近づけて来たので、私は本能的に少し身体を引いた。
「じゃああなたがキスしたら良いのよ。」
「は?」
本当に何を言っているのかわからない。
「何を言っているの?」
「あなたが、ファティマ様にキスするの。男の子みたいな格好してるんだし、十分王子様でしょ。」
ニマニマ笑いながらグイグイ顔を近づけてくるイリーナから一歩一歩離れ、どういう理屈だよ、と思いながらそっとファティマ様の方に視線を向けた。相変わらず眠ったまま、その唇は薄く開いて柔らかく閉じられている。顔に少しかかった髪が朝日を通して透明に輝き、まさに天使が眠っているようだった。あれに?私が?駄目だ。
「無理だよ」
「えー、いけるいけるって。」
「あの美しいものを私が汚してはいけない!無断で触れるなど!無礼だっ!」
私の声が外に聞こえたのか、近くを通りかかったらしいサーシャが入ってきて、まだ何か言いたげなイリーナを叱った。でも、イリーナの自由さに、どこか救われたかもしれない。
私がそっとファティマの方に視線を向けると、その口がもにょもにょ動いているのが見えた。驚き、感動と懐かしさに思わず二人の腕を掴んでしまった。そしてその目が薄く開かれた。美しい、新緑を煮出して綺麗に張ったような緑色の瞳を、もう長らく見ていなかったような気がした。
「ファティマ様!お目覚めになられましたか!エヴァですよ!」
私は崩れ落ちるようにベッドの側に駆け寄った。しかし、そのままぼんやりと瞬きしたあと、少しぼーっと私の方を見て、そのまま目を閉じた。
何もなかったかのように、それだけだったが、私の心臓を突き動かすには十分だった。暖かさはあったが不安だったのが軽くなったようだった。サーシャもイリーナもしっかり見ていた。生きてる、良かった、と泣きながら抱き合うには十分だった。
それから少しして、またゆっくりと目が開いた。イリーナは旦那様と奥様に報告しに行っていた。ぼんやりとしたまま少し私達を見て、目を見開いた。そしてその目を恐怖に染めて、泣き出しそうになった口を震える手で抑えた。それは私を困惑させた。私の知っていた彼女が泣くときはいつも惜しげもなく大きな声をあげて泣いていたのに。それから毛布にくるまると、震えながらベッドの端に寄り、その小さな身体を縮こまらせて丸まった。私は自分の中に怒りが込み上げて来ているのを感じた。あの自由気ままで、純粋な彼女をこんなふうにさせるなんて。そして彼女は伺うように私の方を見た。
不意に部屋の外からダダダダダと勢いのある足音が近づいてきたのが聞こえた。そして、扉が鋭い音をたてて開き、旦那様と奥様が姿を表した。
「ひぃっ」
大きな音に驚いたのか、ファティマは身体を大きく震わせて、より一層縮こまってしまった。
「旦那様、奥様、しー、です。」
私は慌てて注意をし、お二方は素早く頷いた。サーシャが状況を二方に話し始めたので、それはサーシャに任せることにして、私は小さくなっている少女に向き直った。そして私は私の出しうる限りの優しい声を出して、声をかけた。
「ファティマ様、大丈夫ですよ。何も怖いことはありません。貴女のエヴァが、怖いもの全てからお守りしますので、大丈夫です。」
「ぁ…ぅ……」
私は彼女の方へ手を伸ばしたが、彼女がビクッと震えたのを見て私は手を止めた。そしてそのまま彼女のベッドの上におろした。彼女は不安げに指をしゃぶりながら私の手をまじまじと見つめた。そうしていると、彼女の両親は彼女をあまり刺激しないようにと今日のところは一旦引くということになったようだった。彼らは私とサーシャに、また何か変化があれば伝えるようにと言って去って行った。
彼女が指を咥えて丸まったまま眠りについたようなので、私はその手を拭い、彼女をまっすぐに寝かし直してやってからサーシャに何かあれば伝えるようにと行って部屋を出た。
そして、私はラドヴァンにしっかりとしごかれてから一日を終えた。
次の日、私は急いで身支度をすると主の元へ駆けていった。サーシャと挨拶を交わすと、私はカーテンを開け、主の寝ているベッドの側に座り、声をかけた。
「おはようございます、ファティマ様、エヴァが来ましたよ。」
ファティマは眠っていたが、手を握って少し撫でていると、ゆっくりと目が開かれた。
「ェ…ヴァ……?」
小さかった上掠れてはいたが私がその声を聞き間違える筈も聞き逃す筈もなかった。
「はい。エヴァですよ。」
私は嬉しさによる高揚で声が大きくなるのを必死に抑えながら答えた。それからサーシャに急いで飲み物を頼んだ。彼女はそれから奇声を上げると、私は咄嗟に少し離れてしまった。その隙に彼女はさっとそこを飛び出し、近くにあったものを手当たり次第私の方に投げつけた。毛布、枕、ペン、ヘアブラシ、燭台、本、ハサミ……少しずつ部屋の離れた端に移動しながら、何でも掴んだものを私に投げつけた。私は急いでその中を腕で身を守りながら歩み寄り、彼女を抱きしめた。少しの間、彼女は悲鳴を上げて暴れたが、しばらくすると落ち着いて、と思うとまた決壊したように涙を流しながら、スンスンと泣き始めた。
サーシャからの報告と部屋からの奇声に次ぐ悲鳴を聞いて駆けつけてきた面々と飲み物を持ってきたサーシャが、泣いている彼女を抱きしめている血まみれの私を見て目を丸くしたのは無理もないだろう。
サーシャから飲み物をもらった彼女はこんどは嗚咽しながら私の膝の上で私にくっついていた。彼女が、奴らを思い出させるのか、大人のような背の高い人、特に男性に怯えを見せたので、旦那様たちは部屋を離れることになった。旦那様は落ち込んでいた。子供でその上小柄な私だけがちょうど良いだろうということだったが、部屋の隅にメイドの中でも小柄なアニーが、そのうえで大きく見せないようにと少し身体を縮めて座っていた。アニーはサーシャやイリーナと学生時代同級生で、今でも休みの日は3人一緒にしてもらって出かけているそうだ。
「エヴァ、エヴァ、ごめんね……」
「貴女が謝ることはありません。貴女は何も悪くないのですから。」
私は途切れ途切れに私の名を呼んでは謝る彼女をただ撫でて、貴女は悪くない、と言い続けるしかなかった。しかし、何か違和感を覚えた。
「あたしが、わるいこだから。エヴァが、けがしちゃった。」
「こんなの、怪我にも入りません。」
「ごめんね、ごめんね。」
私は違和感を一旦無視した。
それから、サーシャがお粥を運んできたので、それを食べさせた。スプーンを口に近づけたら、小さな口でそれを咥え、もにゅもにゅと口を動かすのでとても可愛らしかった。しかし半分くらい食べたころ、突然彼女はお椀を叩いてひっくり返してしまった。床に落ちたお椀を拾い上げ、こぼれたものを片付けようと動くと、サッとアニーが現れて、私たちに微笑みかけてから片付け始めた。ファティマは自分の行動に驚いているようだった。そしてまた泣きながら謝ることを繰り返した。
それから泣きつかれたのか眠そうにし始めたので、私は彼女をベッドに下ろすと、そっと離れようとした。すると引っ張られている感覚に気づいて振り返った。そして彼女はまどろんだ目で私を見ながら言った。
「あたしは、ちゃんと、ファティマに、なれてたかな……?」
「え?」
私が聞き返すと彼女は慌てたように掴んでいる手を離して寝返りを打って向こうを向いた。
「なにもない。わすれて。」
駄目だ。無視できない。
ところどころ、引っかかってはいた。ファティマは自分のことを『あたし』と呼んだ。しかし以前までは自分を自分の名前で呼んでいた。そこに気づくと、あちこちに小さな違和感が見つかる。そしてあの最後の言葉。あれがもう私の頭から離れなくなって、思考を占領してしまった。
旦那様が、手が空いたら来るように、と言っていたと部屋から出るときにアニーから伝言を貰った。悶々と考えながら旦那様の執務室に着いてしまった。ノックをしてから声をかける。
「旦那様、エヴァでございます。お呼びと聞きました。」
「あぁ、入ってくれ。」
返事を聞いてから入ると、そこには情けないくらいに眉をハの字にした旦那様が座っていた。しかし、私を見るなり目を丸くした。
「待て待て、エヴァ。先にライザにその傷を見て貰わなかったのかい?」
あ、忘れてた。
「忘れてました。でもまぁ、大したことないので、大丈夫です。」
「大丈夫じゃないからね?」
それから旦那様はライザを呼んでくるようにメイドに言った。ライザはこの家の医者なのだ。普段はメイドの仕事をやっているが、女性で医者となったのはこの国の歴史上3人しかいない内の1人という、凄い人だ。そして彼は私の頭をぽんぽんと撫でた。
「みんな君のことが心配なんだよ。もちろん、僕もね。」
「おやめください。貴方の子どもじゃないんですから。」
「僕の子じゃなくてもうちの子だからね。それに、君がうちにやってきて、マリエラが可愛い可愛いって言うから、なんだか可愛く思えてきちゃって。」
それは、旦那様、奥様に洗脳されてません?旦那様は優しく笑った。
「それに、君の気持ち次第では僕の子になってたからね。諦めて撫でられなさい。」
「むぅ」
解せぬ。
それから私はファティマ様の様子を報告した。大体はサーシャの話で把握しているようなので、サーシャたちが離れてからの話を重点的にした。最後に、話すべきか迷ったが、やはり報告しておこうとした。一番気がかりなこと。
「あの、ファティマ様が、私が離れるときに、『ちゃんとファティマになれていたか』と聞いてきたんです。」
「ちゃんと、ファティマになれる……?」
「はい」
旦那様は理解が追いつかないようだった。私もわからない。
「マリエラとまた話し合っておくよ。エヴァ、また何かあったら教えてくれ。」
そして私は報告を終えた。
「エヴァ、マリエラと話し合ったんだけどね。もう、ファティマには自分の好きなようにさせてあげようと思うんだ。貴族としての関わりも含めてね、提案はしても、無理強いはしないでおこうと思ったんだ。あんなことが起こったのは、僕らのせいでもあるからね。君もできる範囲だけで、あの子の願いを全て叶えてやってくれないか?」
「私にできることでしたら、何でも。」
私が彼女の役に立てるのなら、何だって喜んでするつもりだ。
そして私は御前を退いて、部屋を出たところで待ち構えていたライザに捕まった。
「エヴァ!?あんたねぇ、何でもっと自分を大事にできないの!?全く、あんたの場合は大小関係なく、怪我したら報告しなさいって言ってるでしょう!もう!こんにゃろー!バーカバーカ!」
最後だんだん語彙力なくなってない?そして頬をつまんで引き伸ばした。私はライザの手をぺちぺちと叩くとやっと手が離れた頬を押さえた。
「もう。痛いよ?」
「本当に痛いと思ってんだか。あんたはしっかり目に叱っといた方が良い。あんたには痛いくらいがちょうど良いんだよ。」
解せぬ。そのまま私はライザにグチグチ言われながらラドヴァンのところに行き、しごかれると思っていたのにまた怒られた。