『あの日』
『あの日』。そう。最初は何も変わりない、幸せな日だったんです。
そして、それはこれからも続くのだと、愚かにも疑いもしなかった。
「エヴァ!」
貴女は鈴も羨むような可愛らしい声で、私の名を呼びます。(私の名は、私が知らなかったので、奥様がつけてくださいました。)貴女は何をしているのかと言うと、木に登っておられるのです。
「ファティマ様!危ないです!」
私は木の下から貴女に呼びかけます。それほど高いわけではありませんが、危ないものは危ないのです。
「だいじょーぶ!このきのうえにきれいなおはながあるの!エヴァにあげる!」
貴女はその木の花を私に贈ろうとしてくださっているようで、貴女の優しさには感服しますが、私は貴女が心配なのです。
「落ちたらどうするんです!?」
「だいじょーぶ!エヴァが拾ってくれるでしょ!」
貴女は私を信じて疑わないという笑顔で私に笑いかけた。
「それは、まぁ、間違いなく受け止めますが。」
「じゃあ〜なんにも〜もんだい〜な〜い!」
貴女は少し変わった節をつけて歌うように言いました。
そして、少し強い風が吹きました。そして貴女が乗っている枝も大きく揺れました。
「あわ」
貴女はその枝の上でバランスを崩し、落ちてしまいました。その真下で私は受け止めようと構えましたが、木の根に足を引っ掛けて転んでしまいました。とっさに貴女から目を離すまいと仰向けになると、腹の辺りに鋭い衝撃が走りました。
「んぐっ」
息苦しくなるような衝撃にむせて私が咳き込んでいると、私の上に背中から落ちた貴女が身体を起こしました。それでこの息苦しさがなくなるわけではありませんが、無事なようで安心しました。
「ご無事で何よりです。お怪我はありませんか?」
声が少し変になりましたが、私は貴女に問いかけました。貴女に心配かけまいと、衝撃の苦しさを押し込むようにして、呼吸を無理やりゆっくりにし、荒くならないように抑えながら起き上がると、私は貴女の服の汚れを払いました。そして、貴女の身体に何もないことを確認すると、私も立ち上がりました。すると、倒れ込んだときに地面にぶつけた頭が少しふらふらしました。そして、足が痛むのを感じました。転んだときに捻ったのでしょうか。でも、何事もないように、そこを庇わないように、いつも通り歩くように心がけたんですが、貴女に気づかれてしまいましたね。
「エヴァ。どこかいたいの?」
「私は大丈夫ですよ?」
「ちがう。だって、あるきかたがへんよ。」
上がらないように抑えている呼吸が、息をしているが息を止めているようで苦しかったし、足も痛くて仕方なかったが、私は貴女に笑いかけました。
「大丈夫ですよ。今日はとりあえず中に戻りましょうか。」
貴女は素直に頷いてくださいましたが、それでも優しい貴女の心配そうな表情は変わりませんでした。
「じゃあ、おててをつないであるこう?」
貴女は首をかしげながら手を差し出します。あぁ、そんなふうにされては私は断れないことをわかっているのでしょうね。そして私は貴女の手を取りました。
それから、貴女は私の手を引いて、旦那様、貴女のお父様、の元に行きました。
「おとーさま!」
貴女がそう声をあげたとき、私がさっと手を離すと、貴女は可愛らしい動きで旦那様に駆け寄ると、その胸に飛び込みました。
「あぁ、ファティマ、どうしたんだい?」
旦那様は貴女を抱きしめながら穏やかに尋ねられました。
「あのね、あのね、エヴァが……」
貴女はその問いにもじもじとして唇をもにょもにょ動かしながら答えられます。
「エヴァがどうしたんだい?」
「あのね、ええと……」
貴女は旦那様の腕の中で、小さな手をふにふにと揉みながら答えにくそうにしていました。
「じゃあエヴァに聞いてみよう。エヴァ、ファティマがまた何かしたのかい?」
旦那様は私に優しく目を向けました。
「ファティマ様は今日もとても可愛らしく、元気いっぱいです。」
「エヴァ、苦しそうだが、大丈夫か?」
「え?」
旦那様は私に心配そうな目を向けました。私は驚きました。貴女のみならず、旦那様にまで気づかれるなんて。
「エヴァはわるくないの!」
突然、貴女は声をあげました。
「おとーさま、エヴァをおこらないで。ファティマがきにのぼってたの。そしたら、かぜがびゅーんてして、おっこちちゃったの。そしたら、エヴァがたすけてくれたのよ。」
「危ないからもう木に登るのはやめなさい?」
「うん。それで、それからエヴァがげんきないの。」
「私は大丈夫ですよ?元気です。」
旦那様は片手を私の方に伸ばし、私の頭を撫でました。
「一応少し休みなさい。」
そして、近くにいたメイドの1人に声をかけました。
「サーシャ、エヴァを連れて行きなさい。」
そして私は彼女に手を引かれて旦那様の部屋を出ました。まぁ、親子の楽しい時間を邪魔してはいけませんね。部屋を出た途端、気が抜けたのか、倒れてしまったようです。
目が覚めたときには、全てが終わっていました。お昼だったのが夕方になるまで私は眠っていたようでした。そして目を覚ますと近くに座っていたサーシャに声をかけました。
「あ、エヴァ、起きた?」
「あ、うん。」
「あまり無理しないで。みんな心配しちゃうのよ。」
私はサーシャの笑顔に輝きがないことを感じると、空気が暗く思いことに気づきました。
「うん……ねぇ、サーシャ、何かあったの?」
「え?」
それから、サーシャは少し俯いてから、躊躇うように言った。
「お嬢様が……いなくなったの。」
「え?」
貴女は、あのあと、私が倒れたことを聞いて、ショックを受け、屋敷の外へ抜け出して飛び出していったというのでした。そして、騎士が後をつけていたところ、拐われてしまったということでした。そして、まだ見つかっていないと。
私は慌てて寝かされていたベッドから飛び降りると、屋敷の外へと駆け出しました。しかし、その話を聞いた私が突っ走るのを予想していたのでしょう、すぐに私に剣術を教えていた騎士に捕まり、止められました。
「やめろ、エヴァ。俺達が探してまだ見つかっていないんだ。お前はじっとしてろ。」
「やだっ!私はっ、行かなきゃ!離してよ、ラドヴァン!行かせて!」
私は彼の腕の中で暴れました。彼も私がここまで暴れるとは思っていなかったようで驚いているようでした。
「エヴァ!お前までいなくなったらどうするんだ!」
「でもっ、ファティマ様を見つけなきゃ!」
子どもの私が大人の騎士を振りほどけるわけがありませんでした。暴れれば暴れるほど身動きが取れなくなっていました。そうしてそのまま私は彼に抱えられ、部屋に押し込まれてしまいました。
次の日、私はぼんやりはしていたが、何事もなかったかのように朝の鍛錬を終え、貴女の部屋に向かいました。そして、部屋に貴女がいないのを見つけ、狂ったように叫び、泣き崩れたそうです。そうです、と他人事のように言っているのは、私はそのときの記憶が飛んでいるからです。とにかく、私はどこか壊れてしまったようです。何度も屋敷を抜け出そうとして連れ戻されてを繰り返して、食事を摂らずその日は終わりました。
貴女がいなくなって二日目。私はまたぼんやりと一日を始め、鍛錬に身が入っていないと叱られ、食事を摂らずにまた屋敷を抜け出そうと、貴女を探しに行こうとして連れ戻されるのを繰り返しました。
三日目。よく眠れないまま、またぼんやりと一日を始めました。鍛錬をしようにも、訓練場に行く途中で倒れてしまったので、部屋に連れ戻されてしまいました。絶対に食べるようにと食事を出されたが、味のしない食事は喉をうまく通らず、自分がかつてどのように食事を摂っていたか忘れてしまうことに気付かされる羽目になりました。そのあと、カリナに叱られながらお粥を無理やり流し込まれました。そして、自室のベッドの上でぼんやりと一日を終えました。
四日目。またぼんやりと一日を始めました。カリナに部屋から出ることを禁じられ、真隣に座って構えているカリナの視線のせいで身動きが取れないまま、まどろんで、彼女を見ては浅く眠ってを繰り返していました。食事は前日と同じく流し込まれました。
五日目。朝ぼんやりと目を覚ますと、カリナが私のベッドに頭を置いて、椅子に座ったまま眠っているのを見つけました。それを見ると、無性に悲しくなって、彼女の頭をそっと抱きしめると何故か涙が溢れてきました。目を覚ました彼女は私を抱きしめて優しく撫でてくれました。私は彼女にひたすら謝りました。何に謝っているのか最早わからなくなっていましたが、ひたすら謝り続けました。そうしていると、サーシャが勢いよく駆け込んで来て、彼女も泣いていました、そして言ったのです、お嬢様が、そう貴女が、見つかったと。
そして私はカリナに目をやって、行っておいで、という言葉を受け取るや否や無我夢中に駆け出しました。
貴女の部屋に駆け込んだとき、貴女はベッドの上で寝ていました。汚れは綺麗に落とされていましたが、それでも傷痕がたくさん見えました。私は泣きました。いえ、泣き叫んだ、というのが相応しい表現でしょうか。喉が壊れても、身体が枯れても良いような勢いで、泣き叫びました。
泣き疲れたあと、私は前日にずっと動かず、ほとんど眠っているような状態だったので、眠れなかったのですが、そっと貴女の手を取りました。痣まみれになった腕の先についている小さな手の、もっと小さな爪が、汚れ、割れているのを見て身を千切られるような怒りに震えました。それでも、貴女の手が暖かいのを感じ、貴女の帰りを実感しました。
それから、旦那様と奥様に呼ばれ、ことの顛末を聞きました。拐かされ、暴行を受けたこと(どのようなことがあったのか、知っているようではありましたが、一切教えてはくださいませんでした)、そして、犯人たちは皆死んだこと。そして、お二方は私に、何も気に病むことはないと、私は悪くないのだと、慰めてくださいました。あぁ、いっそのこと、私が悪いのだと、私のせいだと責めてくだされば良かったのに。二人ともとても優しくて、それが逆に苦しいほどでした。
その後私は、もう自室で休み、また明日、貴女に会いに行くように言われました。