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一日の勤めを終え、イチコはわが家へと帰ってきた。
彼女の暮らす家は、都の中にありながらも比較的閑静な雰囲気の集落の中にあった。神職に携わっている時以外は、普通の人々の輪の中で、質素に暮らしたいというのが、彼女の思いだった。格好も、祈祷の時と比べれば質素で、袴の朱の色合いも穏やかである。基本的ないでたちは変わらないが、一応仕事着と普段着は振り分けていた。
夕食が済み、イチコは暖炉の前でくつろぎながら、わずかに張り出しはじめたお腹をさすっていた。その様子を、一人の子供が興味深そうに眺めている。イサミという名のこの少年は、戸籍上は義兄夫婦の息子になっているが、実のところイチコの実子である。
「赤ちゃんは、お母さんのお腹の中から生まれてくるんですよね」
イサミが訊いてきた。当たり前の質問ながら、イチコは「そうね」と優しく応える。
「――では、その赤ちゃんは、お母さんのお腹の中に、どうやって入ってくるのですか?」
「そうねえ……」
考えてみれば、子供がどうしてできるのか、イチコ自身も明確に分かっているわけではなかった。まして、子供に説明するとなると、どう答えればいいのだろうか。
「きっと、神様が運んでくださるのよ」
イチコは少し考えてから言ったものの、内心しっくりくるものがあった。自分の信念からの言葉だと思える。けれども、イサミは難しい顔をして、うーん、と首を傾げた。
「何か引っかかることがあるの?」
「……そういうわけではないのですが」
「遠慮しないで、言ってみなさい」
イチコは優しく促す。イサミはこくり、とひとつ頷いた。
「神様が命をくださるとすれば、それはとても素晴らしいことだと思います。でも、この世界に人はたくさんいるでしょう。その人間すべてに、神様は子供をお与えになるのでしょうか。人間だけではありません。生きとし生けるもの、すべてに新しい命は宿ります。そのすべての命をお作りになられているとしたら、いくら神様だって大変じゃないでしょうか?」
「うーん……」
どう答えればよいものかイチコは悩む。子どもだてらに、難しいことを考えるものだ。しかし、そんな曖昧な理屈を取り繕ったところで、イサミには納得してもらえない気がした。心にわだかまりが残ってしまうようなら、それは適切な回答とはいえないだろう。彼女はしばらく考え込んでしまった。
そこへ、玄関の方からガラリ、と戸が開く音がした。しばしの足音の後、現れたのは少し我儘そうな瞳と、ひねくれたように下向いた唇が特徴的な青年だった。イチコの夫のトワリである。彼は二人の様子を交互に見た後、改めてイサミに向かって言った。
「何だお前、また小難しい質問をして、イチコを困らせてんのか」
イサミは彼から目を逸らした。
「そんなつもりはありませんでしたが……」
「ガキのくせに、こまっしゃくれてんなぁ、お前は」
からかうように笑うトワリ。イサミの顔がますます曇る。そんなトワリに対し、イチコはわざとらしくにっこりとした笑顔をつくって言った。
「あなたにそっくりだよ」
すると、彼も少しバツの悪い顔になり、頭を掻いて、「そうかよ」と言う。
「仕事は終わったの?」
「ああ、とりあえず今日の分はな。だが、兄貴たちはまだ残って、作業を続けてる。お前、やっぱ今日は、ここに泊まることになりそうだぞ――」
トワリはイサミにそう言い残すと、奥の部屋へと引っ込んでいった。イチコはイサミに語りかける。
「そんな顔をしないで。あれでも、あの人はあなたにとっては――」
「分かってます。でも……」
ぽつりというイサミに、イチコは苦笑するしかなかった。トワリは彼にとって実の父親である。だが、それでも彼のことはどうにも苦手らしい。もっとも、あんな態度をとられては、うなずける部分はある。イサミはぽつりと言った。
「……よく思うんです。一体私は、誰の子供なのだろう――と」
「どういうこと?」
「当然のことですが、私には父上と母上がいます。でも、イチコさんは実の母上だと聞いていますし、あの人も……」
イサミは、トワリの兄・ヒブリの家に養子にとられている。だが、相変わらず、イチコたちとも近しい関係にあった。ヒブリはクニの重要人物であり、その妻であるキミも役人として互いに忙しい日々を送っている。クニのまつりごとの関係で家を開けなければならないことも多く、そんな時は今現在そうであるように、イチコのもとで過ごすのが通例だったのだ。
イチコは彼のことをもちろん愛しているし、ヒブリやキミも同様だろう。態度はあべこべだが、トワリだって彼のことが、まったく気にならないわけではないに違いない。だが、それだけの人間に思いやられているという事実が、イサミには納得がいかないのだろう。
「いつも考えてしまうのです。私は、一体誰を父と母だと思えばいいのでしょう?」
イサミは悩みを吐露した。確かに、彼の境遇は自分で望んだものではなく、大人の事情によるものが大きい。ヒブリ夫妻には跡取りとなる男子が必要だったが、なかなか子宝に恵まれず、イチコの家には男子よりも巫女の地位を継げる女児が望まれた。互いの利害の一致をもっての養子縁組である。イチコは、そのことをイサミに申し訳なく思いつつ、努めて明るい声で言った。
「こう考えてみてはどうかしら。あなたには、それぞれ2人ずつ、父親と母親があるの」
「二組の両親ですか」
「そう。普通は1人ずつだけど、あなたには2人ずつ。とても幸せなことじゃない?」
イサミは顎に手を当てて、難しい顔を浮かべた。
「それとも、あなたにとって、それは嫌なこと?」
イチコが尋ねると、イサミはぶんぶんとかぶりを振った。
「そんなことはありません! イチコさんが母上だというのは、とても嬉しいです。ただ――」
イサミは首を回して、トワリのいるであろう方向を見た。イチコは再び苦笑いを浮かべた。いわんとすることは容易に想像できる。
「私からみたら、あなたも彼も、似たもの同士だけれどね……」
イサミの年齢不相応に理屈っぽいところなど、トワリの子供の頃にそっくりだった。
「私はそうは思いたくないです」
イサミは不満そうに口を尖らせてみせる。強情なところも、間違いなくトワリの血を引いていると、イチコは思った。