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東方の青々と連なる山々に囲まれたところに、小さな集落があった。
小さな茅葺屋根の家が、身を引き寄せ合うようにいくつも建てられている。わずかな土地を有効活用するように、大人たちはところせましと動いて仕事に精を出し、子供たちは遊びに興じていた。
そんな人々の暮らしが見える場所からさらに奥に進んで、森の手前まで来たところには、このあたりの家々にしては大きな木造の建物がある。その奥の部屋には、ひとりの年老いた女性が静かにたたずんでいた。
彼女こそ、かつてヒノイリノクニで巫女の長を務めていた女性・イチコである。
あの時、ヒノイリノクニの滅亡の混乱の中で、彼女は仲間たちとともに東へと逃げた。やがて安住の地を見つけ、そこに小さな集落を造ったのだ。
それから現在に至るまでの長い間、イチコたちは、この地でひっそりと暮らしている。
ふいに、がらり、と玄関の戸の開く音がした。廊下を歩く足音も聴こえてくる。足音の種類は2つだった。一つは安定したような大人らしい音、そしてもう一つはとてとてとせわしなく、子供のものだと思われる。ややすると、イチコのいる奥の部屋に、ひとりの女性と、彼女と手をつなぐ幼子が入ってきた。
「ハナドリ――に、エミだね」
と、イチコは言う。娘のハナドリはすっかり大人になり、今ではイチコの跡を継いで、人々に未来を指し示す重要な立場に収まっていた。さらに、その隣にいる立つエミという少女は、ハナドリの娘――すなわちイチコの孫だった。
「お母様、お変わりなく」
「ばば様!」
エミがイチコのもとに駆け寄ってきて、彼女の膝元に座った。イチコはゆっくりと手を動かして、エミの身体に触り、その存在を確かめる。ここ数年のうちに、イチコの目はほとんど見えなくなってしまっていた。だが、手に触れる感触や膝から伝わってくる重み、本人から醸し出される気配で様相ははっきりと分かる。
「エミ、大きくなったねえ」
と、イチコはエミの頭を撫でながら言った。きっと、目に入れても痛くないくらい、可愛い子に育っていることだろう。エミは「えへへ」と可憐な笑い声をあげた。
「ところで、今日は何か私に用事?」
と、イチコはハナドリに尋ねた。
「そうなの。五穀豊穣を願う祈祷の儀がそろそろあるでしょ。お母様にも参加してもらえないかと思って」
「もう私がやらなくても、ハナドリがいれば十分でしょ」
「ダメダメ、お母様にもまだ働いてもらわなきゃ」
「やれやれ――分かったよ」
イチコは仕方なさそうに応えた。だが、内心では、この歳になってもまだ周囲に必要とされていることが、とても有難いとも感じていた。
「ここに来る前に、市場で野菜と魚を買ってきたの。ご飯作っていくから、台所借りるね」
「ああ、助かるよ」
「エミも行く!」
エミはイチコから離れて、母のもとへと駆けていく。台所に向かおうとしたハナドリは、はたと思い出して、母の方を振り返った。
「あ、そうそう。ここに来る道中で、ミノカさんに会ったよ。また、近いうちにお母様に会いに来るって」
「そう」
とイチコは短く応えた。ヒノイリノクニが滅びた直後、共に逃げた同胞たちの中には彼女もいた。あの戦の後、シラヌイをはじめとした王族の人間は幽閉され、ヒノデノクニの監視下に置かれることとなった。だが、シラヌイと離縁していた彼女は、それを免れたのである。
思えば、彼女とは、生まれた頃から離れることがなかった。もしかすると、一生を通じた縁で結ばれているのかもしれない。
だが、縁――と考えて、イチコは少しやるせない気持ちにもなる。末永く結ばれる相手もいるが、どれだけ縁が続いて欲しいと願っても切れてしまう関係もある。イチコの場合、誰よりも愛する人間との絆を、あの戦争で失ってしまった。
今となっては、ヒノデノクニに対して怒りや恨みの感情はない。同じ野心をもつ大国どうしがぶつかり合うのは自明の理である。勝った者は歴史の選手となり、負けた者は滅び潰えてゆく――それだけのことなのだ。
だが、それでも争いはたくさんの悲劇を生む。できることなら金輪際、醜い争いには巻き込まれたくない。イチコはそう思うのだった。




