10
うねるような大蛇のような動きで、赤い炎の塊が遠くの闇から遠くから迫ってくる。
あれが何なのか、トワリにもすぐに予想がついた。
「ヒノデノクニの軍だ!」
誰かが叫ぶ。船上は騒然となった。ついに、望まれざる者たちが来てしまった。
「くそっ」
トワリは唇をかみしめた。
「トワリ、敵が攻めてきた。急いで出発の号令を出せ」
ホウザンがトワリに言った。
「まだイチコとハナドリが――」
「トワリ、これはもはやお前のためだけの船じゃない。決断しろ」
ホウザンはそう諭すが、トワリはなかなか踏ん切りがつかなかった。やがて、闇の中から、ヒュンヒュンといった風を切る音がこちらに飛んできて、刹那「うっ!」といううめき声が聞こえた。見ると、隣に立つ男の首筋を矢が貫いている。男はぐらりと倒れて海の中へと落ちていった。ヒノデノクニの兵たちが、こちらに向かって次々と矢を放っているのだ。ホウザンはトワリに向かって叫んだ。
「おい、このままじゃ危険だ。矢で帆が破れたり、船体に穴が開いたりすれば、航海すらままならなくなる」
「だけど……」
「このままだと、俺たち全員死ぬぞ!」
トワリはどうしたら良いのか分からないといった様子で、悲しみに顔をゆがめていた。
「――心配するな。イチコさんもハナドリちゃんも神に護られている。きっと無事でいるはずだ。それよりも、今お前が優先すべきは、ここにいる皆の命じゃねえのか」
「…………」
トワリはしばらくうつむいていた。だが、「決断の時は今だぞ!」というホウザンの叫び声に呼応するようにその顔をあげると、思いきり身体をくねらせて、溢れ出る感情をぶつけるような大声で叫んだ。
「出発だ。船を出せ!!」
トワリの号令で、船をつなぎ留めていた縄が切られた。船は夜空に帆をなびかせて、風の流れと波の動きを味方につけ、進んでゆく。船は想像もし得ないような速度で陸地から離れていった。
トワリは、浜辺で立ちすくむヒノデノクニの兵士たちに向かって、想いの限りに叫んだ。
「覚えていやがれ! 俺はお前らのことを、絶対許さねえからなーっ! 俺たちの大事なもの、愛する人、何もかも奪っていきやがって! 将来、いくらお前らが勝者として語り継がれようとも、未来の人間がお前らのことを正義だとみなそうとも、俺は一生この恨みを忘れねえからなーっ!」
イチコが海岸に到着するころには、空はすっかり白んでいた。
浜に彼女は立ち尽くした。海辺には船はおろか人っ子一人いない。
浜辺には大勢の人間が踏み荒らしたような無数の足跡が残っており、海には何本もの矢が潮の流れに乗って漂っている。
イチコは悟った。間に合わなかったのだ。
おそらく、トワリはぎりぎりの瞬間まで、自分たちのことを待っていてくれていたはずだ。しかし、この場所にまでヒノデノクニの兵が攻めてきた。それで、やむなく船を出発させることにしたのだろう。
イチコとハナドリをこの地に置き去りにしたまま――。
それは、愛する者との永遠の別れを意味していた。彼らは二度とこの地には戻ってこない。
イチコはがくりとその場に膝をついた。両目からとめどなく涙が溢れてきて、声の限りに泣き叫んだ。
傍らでは、そんな母の悲しみにつられたようで、ハナドリも顔をゆがめて涙を流している。
イチコとトワリ。神と自然科学という、それぞれがまったく異なるものに向き合っていたふたりだった。相性最悪のはずのふたりが、なぜ夫婦でいられるのかという声も方々から聴こえてきた。だが、今でもイチコは信じている。彼は、魂でつながった最高の伴侶だったと。たとえ死ぬ運命だとしても、ふたり一緒であれば後悔はなかった。しかし、その願いは儚くも砕け散ってしまった。
ザァァァァァ、ザァァァァァ――。
海は、イチコの悲しみなどまったく関知していないふうで、寄せては返す波の音が、無感情に鳴り響いていた。




