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日が完全に落ちきった夜の海の上に、巨大な帆船が浮かんでいた。
夜の闇、空に浮かぶ星と船上の松明のわずかな明かりに支えられた視界のなかで、海面よりそびえたつ船の姿はまるで魔城のようである。だが、船の中にいる人間たちにとっては、この船は救いの神でなくてはならなかった。
船の中には、トワリにイサミ、ホウザン、そして彼らの生きられる可能性に賭けたいという想いに賛同する者たちが乗り込んでいた。都もすでにヒノデノクニに占拠され、クニは完全に陥落したといっていい。住み慣れた故郷からの離脱を、誰しもが望んでいた。だがそんな中、トワリだけが、まだ未練があるように、ずっと浜辺の向こうにある山の方を見つめていた。
「おい、そろそろ出発しねえか」
と、ホウザンが声をかけた。
「ダメだ。イチコとハナドリがまだ来てない」
「ああ――」
とホウザンも陸を見た。
「だが、うかうかしてたら、ヒノデノクニの軍がここまでやって来ちまうぞ」
「とにかく、イチコが来るまで船は出せない。アイツと約束したんだ。一緒に大陸に行くって――」
「…………」
ホウザンはもどかしそうな表情を浮かべていた。ホウザンも、イチコがまだ現れないことは、気になるところであった。妻と子を思いやるトワリの心情も分かる。だからといって、いつまでも出航を伸ばしているわけにもいかない。この船は、いわば最後の切り札だった。
だが、時期を逃せば、その切り札さえも失いかねないのだ。
ゆっくりとイチコは目を開けた。
「いたた……」
起き上がろうとして、腰のあたりに痛みを感じた。あれ、私一体どうしたんだっけ――と一瞬考えて、自分が崖から落ちたことを思い出した。腕や手、足を動かしてみる。どうやら骨は折れていないようだ。さすがに身体の節々は痛むものの、あれだけの高さから落ちたのに、打撲程度で済んだのは幸運だった。
「かっか……」
すぐそばで、ハナドリが心配そうにイチコを見つめていた。ここまで降りてきて、イチコが目覚めるまでずっと傍にいてくれたのだろう。
「ごめんね、怖がらせたね」
イチコはハナドリのことを抱きしめた。よろよろと立ち上がる。どのくらい眠っていたのだろう。辺りはすっかり暗くなっていた。先を急がなきゃ――とイチコは思った。
夜空を見上げて、星の配置を読んだ。星から方角や時間帯を把握する術はトワリに教わったものだ。彼はその方法を独自に確立し、星図を作る活動に力を入れていたりもしていた。
「目印となる星がこっちだから、進むべき方角は――」
崖から落ちてしまった以上、山の麓をぐるりと回っていかなければならない。遠回りになるが、夜の闇の中である。下手に山道を進むよりは安心だろう。
「さ、ハナドリ、行きましょう」
イチコはハナドリの手を取った。
「かっか」
その時、ハナドリがぽつりと言った。イチコはハナドリを振り返った。
「どうしたの?」
「とっとが行っちゃう。遠いところに」
イチコは目を見開いて、
「ダメだよ、そんなこと言っちゃ」
とハナドリを叱った。トワリが自分から離れて、遠くに行ってしまう。そんなことは考えたくなかった。遠いところに行くとしても、それは一緒であるべきなのだ。
大丈夫――間に合わないはずがない――イチコは自身の願望を多分に含んだ言葉を、自分自身に言い聞かせた。




