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一方、イチコはハナドリを連れて、鬱蒼とした森の中を進んでいた。
道なき道を進んでいくのはなかなか骨が折れる。イチコはあえて、山でも開かれた道ではなく、遠回りでしかも岩や崖の頻出する険しい道を選んでいた。
はじめは、一刻も早く海岸に着こうと、近道を進んでいた。ところが、歩いていると、急にハナドリが「かっか、そっちはダメ」と言い出した。どうして――と一瞬思ったものの、それは彼女の予知であったとすぐに分かった。向こうの方から伏兵と思しき人物が歩いてくるのが見えたからである。イチコはハナドリとともに急いで岩場の影に隠れた。
「もう、敵がこんなところまで……」
主要な軍勢が都に入る前から、周辺を偵察に来ていた伏兵なのだろうか。いずれにせよ、すでにこの場所にも兵士たちが入り込んでいる。それで、イチコは地元の人間もあまり通らないような、遠回りで不便な道を進むことにしたのだ。山をぐるっと回ることになるうえに、気を抜くと崖から転落してしまうかもしれないような悪路だが、敵に見つかるよりは断然ましだろう。
「しんどいよぉ……」
と、時折ハナドリがぐずりだすこともあったが、
「もうちょっと頑張ってね」
と、イチコは彼女を励ましながら進んでいった。まだ4歳のハナドリにこのような道を歩かせるのは酷であることは承知の上だ。もっとも、岩が積み上がったりしてハナドリの小さな身体では進めないような場所もあり、そんな時はイチコが彼女をおぶったりして進まなければならず、イチコもいっそうの体力の消耗を強いられた。
どれだけ進んだだろうか――。
イチコははっとなった。木々の隙間から、伏兵が歩いているのが見えた。
イチコは小声でハナドリに「伏せて」と命じ、自分も身体を低くする。だが、その時、彼女の腕が思わず、付近の細枝に触れてしまった。枝が震え、その作用で周辺の草木がガサッと揺らめく。悪いことに、敵兵がそのことに気づいてしまったらしく、こちらの方を向いた。
(ヤバい……!)
イチコは思った。敵兵は怪訝な顔を浮かべながら、徐々にこちらへと近づいてくる。
(来ないで!)
とイチコは願った。その時、明後日の方角から、バキッという音が聴こえ、その方にある大木の枝ががさりと落ちた。むろん、敵兵もそれに気づいて、進む方向を変え、その方へと消えていった。
イチコはほっと胸を撫で下ろした。偶然なのかどうなのか、とにかく助かった。
「さあ、今のうちに行くわよ」
イチコはハナドリに言って、再び歩き出す。
「かっか、そっちはダメ」
しかし、ハナドリがまたそのように言った。
「何言ってるの。早くいかないと。敵さんに見つかっちゃう」
イチコは歩きながら、ハナドリを振り返って言った。その時、イチコは足に違和感を覚えた。地面を踏みしめたはずの右足の感覚がない。
うかつだった――。
敵に見つからないようにと焦るばかりに、大事なことを忘れていた。ハナドリの予知能力である。行ってはいけない――という主旨の言葉には、彼女なりに感じたものがあったに違いなかった。事実、イチコは直面している。草木に阻まれて分からなかったが、その先にあるのは山道ではなく、崖だった。だが、気づいたところで、時すでに遅し。
「ああっ……!」
短く叫ぶが早いか、イチコの身体は重力に引っ張られて急こう配の斜面を滑り落ち、奈落の底へと落ちて行った。
「かっか!」
崖の上から叫ぶハナドリとの距離も、みるみるうちに離れていく。
下の地面に強く身体をうちつけた衝撃で、イチコの意識は途絶えた。




