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祈祷場に戻ってくると、前にアリアケが立っていた。
「ごめんなさい、用事で外出していたものですから」
意外な来訪者に驚きつつも、イチコは言った。彼は自分が帰るのをしばらくの間、待ってくれていたのであろう。
「いえ、外出してることは分かっていましたから」
と、例の好青年らしいきびきびとした口調でアリアケは言った。しかし、その表情はなぜか暗く、思いつめているようにも感じられた。
「……私に何かご用ですか?」
「ええ、実は――イチコさんにお話があるのです。あなたにしか話せる人がいないのです」
やっぱりわけありのようだ――。
「構いませんよ。中にお入りください」
イチコが祈祷場に入るよう促したが、アリアケは戸惑う様子をみせた。当然ながら、祈祷場では神を祀っている。神の前で話すのははばかられるような内容なのだろうか。いずれにしても、よっぽど深刻な悩みなのかな――とイチコは思った。
「何なら、ここで聞きましょうか?」
「いえ、大丈夫です。お疲れのところ、立ち話をさせてしまっては申し訳ない」
アリアケは意を決したようだった。
「それなら、中で話しましょうか」
と、イチコは祈祷場へと入っていく。アリアケもそれに続いた。
「それで、どんな話ですか?」
室内に腰を下ろすと、イチコは彼に尋ねた。向かい合って座るアリアケは、しばしの間口をつぐんで黙っていた。イチコは彼に優しく語りかけた。
「言いにくいことでしたら、ご無理はなさらず。焦らず、心を落ち着けて、話せそうでしたら話してください」
「……お気遣いありがとうございます。大丈夫です。――実は、私には、ずっと皆に隠していた秘密があるのです」
「それはシラナミさんにも?」
「そうです。ですが、これ以上黙っているわけにはいかないような気もして。誰かに聞いていただきたいと思い、こちらに参ったというわけです」
「一体、どんな話なのですか?」
「実は、私の故郷であるヒノデノクニに関することなのですが――」
ゴクリ、とイチコは思わず生唾を飲み込んだ。先日、ヒノデノクニに視察に行った時のことを思い出した。傲慢な女王やその弟の態度、トワリの受けた仕打ち、どこか敵対心を感じさせるような役人や側近たちの雰囲気……。とても歓迎されているようには思えなかった。そんなヒノデノクニからやって来たアリアケの自国にまつわる話だ。深刻な話にならないはずがない――そんな予感があった。
「ご存じの通り、私はヒノデノクニの第一次使節に参加する形で、このクニにやってきました。その時、このクニの文化や文明、幸せに暮らす人々の姿に感銘を受けました。神を心から敬うイチコさんにも――。それから私は、シラナミという心より愛する人とめぐり逢え、彼女との結婚を機にこのクニに移り住むようになりました。私は、このヒノイリノクニを心より愛し、一生このクニで暮らしたいと思っています。その気持ちに嘘偽りはありません。ただ――、私がこのクニにやってきたのには、今まで誰にも話せなかったもう一つの理由があったのです」
「その理由とは?」
イチコは質問という形式で、アリアケに話の続きを促す。
「まず、私が使者に選ばれたいきさつをお話します。ある日、私は女王様じきじきに、謁見するよう仰せつかりました。私は驚きました。王家の血筋ではあるものの、身分の低い私は、女王と関わる機会すらないと思っていたのです。しかし、私は実際に女王に会うことになりました。さすがに姿まではみせてはくれませんでしたが……。そこで、私は女王より命を受けました。『使者としてヒノイリノクニに行け。できる限りすみずみまで視察し、知り得たことは事細かに報告せよ』と。
その時、私は命令を、何も疑いももたずに承諾しました。当時の私は、ヒノデノクニこそ至高であり、女王には服従すべきものだと信じて疑わなかったのです。ところが、ヒノイリノクニに来て、考えが変わりました。女王に対する服従の心は、尊敬によるものではなく、恐怖心からくるものだったことに気づいたのです。一方で、ヒノイリノクニはすべてが素晴らしく、愛すべきものだと思いました。故郷を出て、ここで暮らしたい――私のそんな気持ちは日に日に強くなっていきました。その後も使者に志願し続けた末、シラナミと結婚して、このクニで暮らせるようになった時は大変嬉しかったです。
――しかし、実際のところ、私がこのクニにとどまるためには、一つ大きな条件がありました。それは、ヒノデノクニに情報を流す、という女王の命が生きていたことです。いわば、私は諜報員として、このクニに送り込まれたのです」
アリアケは胸につかえているものを一気に吐き出すように話した。イチコは彼のひととおり、口をはさむことなく聞いていたが、アリアケの言葉が止まったところで、質問を投げかけた。
「概要は分かりました。でも、女王がアリアケさんをこのクニに送り込んだのには、どのような目的があるのでしょう……?」
「そこまでは――。以前の私は女王の命は絶対で、こちらが意図を聞いたり、考えたりすること自体意味がないことだと思っていましたから。しかし、ヒノイリノクニに対して、何か企み事をしているのではないか――とは思います」
「なぜ、今になって、そのことを打ち明けようと思ったのですか?」
「このクニに住むようになって以来、私は女王の命を無視してきました。もはや、もとのクニを出た私は、命令など聞く必要はないと思ったのです。ところが、つい先日、ヒノデノクニの使者に呼び出され、言われました。『報告はどうなっている、女王がお怒りだぞ』と。その時、私は思い出しました。女王の恐ろしさを。あの方の怒りを買えば、大きな天罰が下されるかもしれない」
「落ち着いてください。そんなことはあり得ません」
「いいえ。女王の力は侮れません。イチコさんも素晴らしい力をお持ちだが、女王は類稀なる神通力がある方だ。女王があれだけの人々を従え、クニを支配しているのは、その力があればこそなのです」
アリアケは心底おびえているようだった。果たして、女王に本当にそこまでの力が存在するのかどうか、イチコには分からない。だが、そうだと信じさせてもおかしくないくらい、威圧感のある存在だということは、彼女自身も直接会って知っている。
「私はこのクニで、愛するシラナミとずっと暮らしていきたい。だが、今更になって、不安を感じるようになってきました。すべては自分の蒔いた種。ですが、シラナミやシラヌイ王たちにはどうしても話しづらい……。それで、イチコさんを尋ねたというわけです」
「そうでしたか」
「私の手前勝手で、本当に申し訳ありません」
「いえ、打ち明けてくださって、ありがとうございました」
イチコは深々とお辞儀をした。アリアケが深刻な事情を話す相手に自分を選んでくれたのは、感謝すべきことだと思った。
「ですが、この件はいずれは私だけでなく、シラヌイさんやシラナミさんにも伝えなければならないでしょうね。問題が大きくなる前に」
「……イチコさんの方からお話いただくことはできませんか」
「責任を私に負わせるつもりですか?」
イチコは穏やかな口調ながら、きっぱりと言った。アリアケははっとした顔になり、恥じるように顔を伏せた。
「すみません。イチコさんに甘えてようとしていました。これは、私の問題ですね」
「ぜひ、自分の口からお話してください。心配せずとも、神は正しい行いをする者には味方をしてくれます。シラヌイさんやシラナミさんも、そんなあなたを怒りはしないでしょう」
「分かりました。すぐに心の準備はできないかもしれませんが――じきに私の口からお話ししようと思います」
アリアケは納得したようだった。
彼が祈祷場を出て行った後、イチコは取り繕っていた笑顔を解いた。
先ほどのアリアケの打ち明け話、トワリやイサミが抱いている疑念、そしていつぞやの祈祷中に自分が見た光景――。一つ一つの点が、線でつながっていくような感覚があった。
「私も人のことは言えないなぁ――」
イチコは独り言ちた。先ほど、彼女はアリアケに、秘密についてはシラヌイやシラナミにも、自らの口できちんと話すべきだと諭した。しかし、実は彼女も例の光景について、誰にも話していないのだった。
このクニにおいて、祈祷はまつりごとを左右する重要なものである。故に、祈祷時に見えたり聞いたりした物事については、神のお告げとして漏れなく政府に伝える決まりとなっている。だが、彼女はあえて、それをずっと秘密にしていた。
あれは、たまたま自分の深層心理が自分の脳裏に映されただけだと、イチコはずっと信じていた。いや、信じようとしていた。余計な心配を他人にかけまいと、あえて話さずにいた。だが、それは自分に課した建前で、実際は口にすることで災いが現実となるのをおそれたのかもしれない――。
そしていま、ここにきて、またも不安が募りはじめている。将来、本当に望まない事態がやってくるのではないか――と。




