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「――ということがあってね」
家に帰って、イチコは事の次第を旦那のトワリに話した。もしかして、彼から何か良い提案があるのでは――と思ったのである。ところが、肝心のトワリは木版に描かれた図面を見ながら、イチコの話に、「ああ、ああ」と気のなさそうに相槌をうつのみで、話を真面目に聞いているかどうかは怪しい。
「どうしたらいいと思う?」
とイチコが訊いても、「さあな――」と適当な返事。イチコはムッとした。
「ちゃんと私の話、聞いてるの?」
語気を強めるイチコに、トワリもさすがに図面から目を離した。
「聞いてるよ」
「嘘だ。私がこんなに悩んでるのに。もう少し親身になってくれてもいいじゃない」
「俺だって忙しいんだよ」
「トワリくんって自分のことばっかり。他人になんて興味ないんだわ」
「なんだと」
「なによ、本当のことじゃない」
2人は顔を至近距離まで近づけて睨みあう。そこへ、幼子がとてとてと歩いて部屋の中に入ってきた。おかっぱ頭の頂点を、小花を2つあしらった紐で結んでいる。眠たそうに眼をこすっていたが、目の前の2人の姿を見て、あっという顔になった。
「とっとにかっか、またけんかしてる!」
イチコとトワリははっとして幼子の方を見た。娘のハナドリが頬を膨らませてこちらを見ている。お昼寝から起きてきたらしい。
「夫婦のなかが悪いと、子供のじょーそーきょーいくにもよくないんだよ!」
どこかで聞いたようなことを言ってくる。
「ハナドリ、私たちは決して喧嘩してたわけじゃないよ」
イチコが焦って言った。
「うそだ、とっととかっかがそうやって顔を近づけてる時って、いっつもけんかしてる時だもん!」
図星を突かれ、イチコとトワリは、互いに飛び跳ねるようにして離れた。
「――それより、どうした? お昼寝から起きちゃったのか」
取り繕うようにトワリが問いかける。質問に対して、ハナドリは一瞬考えるようなそぶりをみせたが、やがてはっと口を開けた。
「そうだった、おしっこしたくなった! かわや、連れてって!」
「分かった分かった――」
トワリはハナドリの後ろに回って、脇のところから手を入れて彼女の身体を持ち上げ、小走りに走っていく。
「か・わ・や! はやく連れてけー!」
と、ハナドリはトワリをなおも煽ってみせる。厠に向かって消えていく2人の姿を見送って、イチコは力が抜けたように肩を落とした。
弱冠4歳という年齢のハナドリだが、すでに立場的には両親である自分たちの上を行っているように思う。今回のように、夫婦が仲違いしかけた時に、ひょっこり現れて釘をさしてくることもしばしばだ。すべてを見透かされてしまっているような気さえしてしまう。ことにトワリは、完全にハナドリにやりこめられている感があった。未だに生意気ではねっ返りな性格が抜けきれない彼だが、娘に対しては逆らうことができずタジタジだ。
何かを察知する能力に長けているのは、おそらくイチコの血を引いているからだろう。だが、こんな幼い頃からその才能を発揮していることに、イチコは娘のことを頼もしく思う反面、末恐ろしさをも覚えてしまうのだった――。
そこへ、ガラガラッと玄関の開く音がした。
「ごめんください」
と快活に言ってくる。聞き覚えのあるというか、むしろ聞きなじみのある声だった。戸を叩かずにいきなり開けたことからしても、近しい関係の人物だと思われる。
「はーい。居間にいるわ」
とイチコもあえて客人を出迎えず、その場で応えた。
居間に顔を出してきたのは、一人の少年だった。その凛々しい顔つきと逞しい身体つきは、年齢以上に信頼感があるようにみえる。数年のうちにすっかり成長したイサミだった。
「しばらく見ないうちに大きくなって――」
イチコは言った。絶賛成長期の彼の身長はみるみる伸びている。数ヶ月前に会ったばかりだが、その頃よりも大人びて見えた。
「イチコ母さん、お久しぶりです」
イサミは丁寧にお辞儀をした。
「ささ、入って。お座りなさい」
イチコの促しに従って、イサミは居間に入り、囲炉裏の前に置かれた座布団に座った。
「今、お茶を淹れてあげるわね」
とイチコは言ったが、イサミは手でそれを制した。
「いいえお構いなく。それより、今日はお話があって来たのです」
「――あら、どんな話?」
「いえ、お話があるというのは、イチコ母さんにではなくて。実は……」
イサミは少し言いにくそうに言葉を濁した。そこへ、厠からトワリが、とてとてと歩くハナドリの後ろに着くようにして戻ってきた。ふとイサミがいることに気づく。
「ご無沙汰してます」
「なんだイサミ、来てたのか」
トワリの彼に対する物言いは、相変わらずつっけんどんだ。
「はい。実はトワリ父さんに相談があって――」
「俺に? 珍しいこともあるもんだな」
トワリも座布団に座り、ハナドリを膝に乗せた。イサミ、イチコ、トワリとハナドリ、それぞれで囲炉裏を3方向から囲むような構図になる。もう暖かくなった時期であるが故、囲炉裏に炎はついていない。
「いいぜ、言ってみろ」
「それは――」
イサミは一瞬言い淀む。
「なんだ、どうせ言わなきゃならんのなら、勿体ぶったってしょうがないだろ。早く話せ」
トワリに促され、イサミは重い口を開いた。
「実は、最近気になっていることがあるんです」
「何だ」
「ヒノデノクニとわがクニとの関係についてです――」




