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都の王の屋敷からほど近いところに、ヒノデノクニの使者たちが泊まる宿舎があった。
その一室で、使者のひとりであるアリアケは想いを馳せていた。
今回の使節に参加して良かったと心から思う。はじめて訪れたヒノイリノクニはとても素晴らしく、彼はすっかりこのクニの虜になってしまった。
アリアケはヒノデノクニの王家の一族として生まれた。分家の出身であるため、王になる可能性はほとんどないといっていいが、それでも自身の血筋と、一族が築き繁栄させてきたわがヒノデノクニを誇りに思っていた。ヒノデノクニこそが、世界でいちばん素晴らしいクニだと信じて疑わなかった。
だが、今回のヒノイリノクニの視察は、そんな彼の傲慢な自信を完全に打ち崩してしまった。
優雅な自然に囲まれた景色は崇高で美しく、文化や技術・設備も素晴らしい。人々の心も清らかで優しかった。神への信仰も、決して政府からの圧力をもって広められているのではなく、人々が自発的に神を敬愛し、自らの信心をもっている。
あらゆる面で、ヒノデノクニよりも先を行っていると、彼には思えた。
他の使者連中が、自分と同じように感じているのかどうかは疑問だ。中には、政府の命令で嫌々ながら使節に参加した人間もいたし、使節の面々は以前のアリアケと同じく、ヒノデノクニがいちばんと思っている役人ばかりである。視察中に「素晴らしい」などと褒めちぎっていた連中も、心の内でどう思っていたのかは怪しいところだ――アリアケは内心そう思っていた。
実際、明日には帰途につけると喜ぶ声が方々から聴こえてくる。そんななかで、アリアケは寂しさを覚えていた。もっと長い間、このクニに居たい。しかし、そういうわけにもいかない――。
やるせない気持ちを紛らわそうと、彼は部屋を出た。広々とした宿舎の中をあてもなく歩く。
ふと見ると、軒下の向こうに庭が広がっていた。大きなムクノキのそばに、女性が一人たたずんでいる。身なりからして高貴な身分のようだ。よくよく見ると、見覚えのある顔だ。だが、生命の漲る大木の緑の下に立つ、その清貧な居ずまいはとても美しく、彼女の魅力を一層に引き立てているように感じられた。
アリアケは庭の方へと出て行った。女性がこちらを向いた。彼は会釈をして、女性の方へと近づいてゆく。女性も礼を返した。
「こんにちは」
と、アリアケは挨拶をした。改めて女性の顔を見る。間近で見ると、年上のようにも思えた。しかし顔つやはよく、肌もきめ細かくてとても若々しい。風格にも凛とした美しさがあった。アリアケは彼女に思わず見惚れてしまった。
「こんにちは。――あの、どうされましたか?」
女性は少し困ったような表情で首を傾げた。
「あ、いえ、何でも……」
「それに、足が」
女性に促されて足元を見てはっとした。素足のまま出てきてしまったのだ。女性の足には当然のごとく履き物がある。思わぬ失態に、アリアケは迷った。だが、下手に取り繕うとかえって良くない気もする。
「すみません。あなたのお姿があまりに美しく、つい我を忘れてしまいました」
アリアケは素直な自分の気持ちを打ち明けた。
「まあ、お世辞がお上手ですこと」
女性はそう言って笑った。歌うような可憐な笑い声に、アリアケはなおも心奪われる。
「嘘ではありません。お名前をうかがってもよろしいですか?」
「シラナミといいます。このクニの王女であり、外交部門の長も務めさせていただいています」
なるほど――それで見覚えがあったのか、とアリアケは合点がいった。そして、自分も自己紹介をする。
「私はアリアケ。今回の使節に参加させていただきました」
「アリアケさん。わがヒノイリノクニはいかがでしたか?」
シラナミが訊いてきた。アリアケは心からの感情をこめて、感想を言った。
「何もかもが素晴らしかったです。自然、文化、技術――すべてに感動を覚えました」
「それは良かったです」
「しかし、明日には我々は帰られければなりません」
「そうでしたね。それはとても残念ですわ」
シラナミは本当に寂しそうな微笑みをみせた。
「ですが、私はまた、このクニを訪れたい。次の使節にも私は参加したいと思います。その暁には、またこのように会って、お話させていただけませんか」
王女であるシラナミにこのような申し出をするのは、本来不謹慎かもしれない。だが、一応はアリアケも王家の出身である。ギリギリ釣り合いが取れない身分ではないと思った。しかし、シラナミは少し困った顔をした。
「――失礼ですが、アリアケ様は今おいくつになりますか?」
「今年で20になります」
「私はそれより十も上です。あなたのような素晴らしい若者に、こんな年増女は釣り合いが取れませんわ。それよりもこの先、あなたにはもっと若くて、最もふさわしい女性が現れるでしょう」
「いいえ、年の差など私は気にしません。私はこのクニの素晴らしさに感動し、あなたの美しさに心酔しました。あなたとの関係を深めることは、できないことなのでしょうか?」
アリアケは真剣だった。しかし、彼の問いに対して、シラナミは黙っている。
「……もしかして、すでにご結婚されているとか」
アリアケだって、すでに結婚していてもおかしくない歳なのだ。現に、両親から嫁を早く取れと、うんざりするほどせっつかれている。だが、その問いに、シラナミはゆっくりと首を横に振った。
「まだですわ。私だけでなく、私のきょうだいもなぜか皆、未婚か晩婚なのです。何せ、兄のシラヌイ王も、つい先日王妃を娶ったばかりなのですから。――何の因果なんですかね」
シラナミは笑っていたが、その顔には哀愁が感じられた。
「今からでも決して遅くはないでしょう。相手が私ではいけませんか? その可能性はまったくないのでしょうか?」
シラナミは少し考えて、「……ないことはないですね」と答えた。それだけで、アリアケの胸には、天にも昇るような嬉しさがこみ上げるのだった。
「でも、焦りは禁物ですわ。男女がお互いを知り合うには、ある程度の時間をかけないと」
「では、次にこのクニを訪れた際は、またこのように会ってくださいますか?」
「いいでしょう。次もまた、この場所でお待ちしていますわ。色々とお話をしましょう。今度はあなたも履き物を履いて、ね」
いたずらっぽいシラヌイの笑みに、アリアケは赤面して頭を掻いた。




