第86話 合格ですよ
いろいろと心配されたものだったが、モエのスペックは大したものだった。
読み書きの覚えが早かったのはだてではなく、コルセットがきついと言ってはいるが、作法などを身につけるのは早かった。
「モエさん、合格でございます」
「あ、ありがとう存じます」
モエはしっかりと姿勢を整えたまま、手を体の前で軽く重ねて頭を下げている。
頭の笠に気にしなければ、どこかのお嬢様じゃないかと思えるくらいだ。
「うふふ、本当にマイコニドかと思えるくらいですね」
「私もびっくりしております。私ってここまでできるんだなって」
「まぁイジスの仕事の手伝いができるほどですからね。能力の高さは分かっていましたが、さすがにここまでとは思いませんでしたね」
子爵夫人が笑っている。
「亜人は野蛮だなんて意見を一蹴できるほどに素晴らしいですよ、モエさん」
「は、はい、奥様」
頬を赤くして、照れているモエである。
「わうっ」
すぐ横では、少し成長したルスがしっぽを振りながら嬉しそうな鳴き声を出していた。
「ふふっ、ルスもありがとう」
モエはしゃがみ込んでルスの頭を撫で始める。いくら着飾ろうとも、今までに築いた関係は崩れないのである。
「これなら、社交界に出してももう大丈夫そうね。さて、次はいつの夜会に……」
「奥様、さすがに私にはまだ無理かと」
「何を言いますか。イジスの婚約者となれば、積極的に出てもらわないと困ります。とはいえ、イジスの方がしばらく遠ざかっていましたから、そちらもどうにかしませんとね」
モエに強く出ながらも、もうひとつの悩みの種を思い出して、子爵夫人は頭を抱え始めた。
そう、いろいろと事情があって、イジス自体がしばらく社交界の場から遠ざかっていたのだ。こっちもこっちで大問題だった。
建国祭においてはどうにか無事にやり過ごしたものの、頻度が高くなればいずれボロが出かねないのである。
「爵位を継ぐとあれば、社交の場にはしっかりと出なければなりませんからね。困りましたね」
「そういえば確認しますけれど、どうしてイジス様は社交の場から遠ざかっていたのですか?」
悩み始めた子爵夫人にモエが確認を入れる。
「ええ、あれはまだイジスが王都の学園に通っていた時です。あの頃のイジスはずっと社交的だったのですが、その容姿と人当たりの良さからかなり人気を集めておりました」
「ふむふむ」
「ですが、令嬢の方々からの接触が少々ばかり過熱してしまいましてね、それが原因でイジスが少しずつ思い悩むようになってしまいましてね」
「……」
子爵夫人の話を聞きながら、モエはなんとなく察した。
令嬢たちからの執拗なアタックに、イジスの精神が参ってしまったのだ。おそらくスピアノが可愛く思えるくらいのものだったのだろうと。
「なるほど、納得がいきました」
「ええ、本当に察しがよくて助かるわ」
眉をハの字にして悩ましい顔をする子爵夫人である。
「ですから、イジスが興味を示したあなたには、いろいろ期待をしてしまうのです」
「なるほど」
モエは、自分がここまできちんと扱われる事情というものを理解する。女性に対する恐怖心があるはずのイジスが、亜人とはいえども女性に強い関心を示したのだから、そう思ってしまうのも無理はないというものだった。
「私もイジス様には助けていただいたご恩というものがあります。恩返しをするつもりで一生懸命頑張らせて頂きます」
「ありがとうございます、モエさん」
「お、奥様。頭をお上げください!」
突然子爵夫人が頭を下げてくるので、モエは驚いて慌てている。
「いえ、このくらいは当然です。あなたのおかげで、状況はいろいろと好転しそうなのですから」
「奥様……」
子爵夫人の態度を見ていて、モエはすぐに察してしまう。子爵夫人もいろいろと思い悩んでいたということを。悩み過ぎて、かえって何もしてこれなかったという後悔が、そこにはあったということを。
「さあ、今日のところはもう上がりなさい。ゆっくり休むといいですよ」
「は、はい。失礼致します」
モエは頭を深く下げると、ルスを連れて子爵夫人の部屋から出ていく。
モエが出ていくと、子爵夫人はソファーにどっしりと座り込む。モエが疲れていたように、子爵夫人もかなり疲れていたのだ。
「ふぅ、初めて見た時は亜人のくせにと思っていましたが、なるほど、付き合ってみればみるほど、なぜイジスが惹かれたのか分かってきますね」
額に腕を乗せ、天井を見上げる子爵夫人。
今回の淑女教育を通して、モエの能力の高さというものを身をもって思い知ることになった。なにせ教えたことはほぼ一発でマスターしていた。これほどまでの学習能力の高さがあるのなら、イジスの仕事を手伝えていることにも納得がいく。
「きっと、彼女の存在はガーティス子爵領に、いえ、もしかしたら王国にも新しい風を送り込むのかもしれませんね」
座ったまま窓の外へと視線を向ける。
「ふふっ、これからというものが楽しみでなりません。きっとイジスと一緒に一時代を築くことでしょうね」
子爵夫人は優しい笑みを浮かべて、しばらくそのまま外を眺めていたのだった。




