第103話 スピアノのダイレクトアタック
翌朝、モエは珍しく寝坊をした。
それというのも、スピアノの言葉が気になって眠れなかったのだ。
「お、おはようございます……」
イジスが仕事にかかっているさなか、寝ぼけ眼のままのモエが現れた。
「どうしたんだい、モエ。珍しいこともあるな」
「申し訳ございません、イジス様。ちょっと考えごとをしておりまして……」
モエは深々と頭を下げている。
「まったく、屋敷の中だからといってキャップを忘れてどうしたんだい。すぐにかぶせるからじっとしていてくれないか」
イジスはそういうと、なぜか部屋の中にある予備のキャップをモエにかぶせようとする。
その瞬間だった。
「きゃっ」
モエが顔を真っ赤にして、近付くイジスから飛び退いたのだ。実に可愛らしい悲鳴である。
「ど、どうしたんだい? 私が何か失礼なことをしてしまったのか?」
突然のモエの行動に、イジスは目を白黒とさせている。あまりにも予想外の行動だったのだ。
「い、いえ。イジス様は悪くないのです。すべては昨日のスピアノ様が……」
「スピアノ嬢がどうかしたって?」
目を背けながらモエが話すと、どうやら逆効果だったようでイジスがもう一度近付いてきた。
「わわわわっ!」
すると、再びモエが後ろに下がっていく。
ドンッという音が聞こえ、モエは壁際まで下がってしまっていた。
「どうしたんだ、モエ。寝坊はするし、私から逃げるし、今日はおかしいぞ」
「ももも、申し訳ございません。わ、私もよく分からないんです」
モエは背中を壁につけたまま、イジスを見ながら必死に釈明をしている。
どう考えてもおかしいモエの態度に、イジスは首を捻るばかりである。
「そうだなぁ……」
困ったイジスは、悩んだ結果、モエにこう伝えることにした。
「今日は休んでいいよ。その状態では仕事にならないだろうし、使用人たちだって休みの日があるんだから、一日休んだところで問題はないだろう」
「そ、そんな。では、誰がイジス様の手伝いを」
「それだったらランスだっている。護衛であり、侍従でもあるんだ。そういうわけだから、今日はゆっくり休んでくれ。スピアノが来ても適当に対応していればいい。そっちは母上に任せれば大丈夫だから」
イジスはそういうと、ランスに何かを指示している。
「畏まりました。では、行ってまいります」
ランスはそうとだけ答えて、部屋を出て行った。
「さっ、モエも自分の部屋に戻ってゆっくり休んでいてくれ。屋敷に来てからほとんど働きづめだろう?」
「は、はい……。承知致しました」
イジスに諭されて、モエは仕方なく今日はゆっくり休むことにした。
とぼとぼと出て行くモエを見送ったイジスは、椅子にゆっくりと腰掛ける。
「まったく、君はモエに何をしたというのかな」
「ふふっ、申し訳ございませんわ。ちょっとあまりにも見ていられないので、ちょっと突いてしまいましたわよ」
ひょっこりと奥の扉からスピアノが顔を出してきた。
どうやらモエがやって来る直前まで、イジスと何かを話しをしていたらしい。
「まったく、余計なことはしないでくれないか。確かに私の一目惚れではあったけれど、モエにそれを強要するつもりはないんだからな」
「そんなこといって、イジス様もかなりやきもきしていませんかしら。今だって、モエに避けられてショックを受けてらっしゃったではありませんか」
「うぐっ……」
先程のやり取りを全部覗いていたらしい。スピアノもイジスとモエがくっつくことを望んでいるだけに、好奇心で覗いてしまったようである。
「まったく、そんなことをしなくても、近いうちに私とモエは正式な婚約者として大々的に広められるんだ。王室と教会の二つのお墨付きだぞ?」
「ふふっ、そうですわね」
イジスの言い分に対して、スピアノは不敵に笑っている。
その笑みの理由としては、先程のモエの態度だ。
自分がちょっと突いただけで寝坊はするし、イジスに近寄られて逃げ出すような状態なのだ。モエはマイコニドというのに、実にうぶな少女のような状態なのである。
「第一、モエがこの屋敷に来てからだいぶ経つといいますのに、本人たちの間にまったく進展が見られないというのですから笑ってしまいますわ。イジス様も、その様子では最近はかなり遠慮してらっしゃるみたいですし」
「モエの気持ちを一番にしたいからな」
スピアノの指摘に、イジスはすっぱりと答える。
しかし、それに対してスピアノは剣幕を険しくしている。
「嘘仰い。今さらになって怖気づいているのですわ。まったく、わたくしがせっかく引き下がりましたのに、いい加減にして下さいまし。もっと強引にいった方がよろしいですわよ。それこそ、一目惚れをした時のように」
「それは……」
「モエを大切に思うのは建前。本音としては今さらながらに怖くなったのですわ」
スピアノはそう言いながら、廊下側の扉へと歩いていく。
「パーカス侯爵がこの程度で諦めるわけがありませんわ。しっかりとモエの手を握っておくことですわね」
スピアノはそう言い残すと、イジスの部屋を出て行った。
イジスはスピアノの言葉にめった刺しとなり、黙ったまま椅子に座り込んでしまったのだった。