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一瞬と永遠と

 部屋の扉が開いて、ごく自然に彼女が入ってきた。

 今の学院の職員のものに似ているが、それよりもずっと質素な藍色のローブ。きらめく琥珀色の瞳。黒髪を編み込んで結い上げた姿やイヤリングの意匠は、ひどく古風だ。

 それも当然だ。彼女は三百年以上前に生きた人間だから。

 シルヴァ。我が妻。

 二十歳をいくつか越えた姿だから、結婚した直後の彼女だろうか。

 扉を閉め、スレイマンの前まで来ると彼を見上げた。

「久しぶり。待たせたかしら?」

 スレイマンが微笑んだ。

「ああ、三百年以上待った」

「ふふ、本当だわ。あら? わたしが三百年待ったのかしら」

 シルヴァも笑う。

「確かに。ところで今の君は、どういう存在なんだろう?」

「そうねえ。このわたしは本物のわたしじゃない。本物のシルヴァの魂はもう何度も転生して別の生命を得ているから、神様としては呼び戻したくないみたいなのよね。だから神様が世界の記録から再構成した、遠い日のシルヴァの残響。それが、わたし。それでもいい?」

「もちろんだ。神が私の願いを叶えてくださった……こんなことが本当に起こるなんて……」

 こみ上げる感情に任せて、スレイマンは彼女を抱きしめた。

「……夢のようだ」

「わたしも。わたしのこと、神様に願ってくれたのね……嬉しい」

 しばしの間、無言で抱き合っていたが、シルヴァが興味深そうに辺りを見回した。

「そう言えば、この場所は?」

「私が【不老】の加護を賜った時にいた場所だ。新しい魔術大学設立の仮校舎として提示された屋敷で、家具のたぐいはまだ用意されていなかった。あの時期は、君は体調を崩してあまり表に出なかったな」

「もうおばあちゃんだったし、一線は退いていたから。結局ここにはそんなに来なかったのよね。

 ……あの日のことは良く憶えているわ。夜になってもあなたは帰ってこなかった。心配してたら、夜更けに急に神殿から使者が来て。駆けつけたらあなたは若返っていて、粗相をして怒られる子犬みたいにしょんぼりしてた」

 くすくす笑いだした。

「もう本当に笑っちゃったわよ。加護を賜ったっていうのに、あんなに消沈する人がいる? およそ人間に望みうる、最高の栄誉なのよ?」

 スレイマンの顔が曇る。

「君と共に老いるより、私はいつまでも一人で学問を続けることを願っていたんだ。だから【不老】が加護として選ばれた。君より魔術が大事、それが加護という形で、はっきりと突きつけられたんだ。君に合わせる顔があるか?」

 彼女が真顔になって腕を組み、彼を見上げた。

「それ、何回も聞いたわ。その都度、気にするなって言ったわよね?」

「気を遣ってるんじゃないかと」

「そりゃあね、ちょっとムッとしたわ。私を置いて若返っちゃうなんて! ずるいわよ! 私だって若返って、あなたと、ずっと……」

 声が揺れた。かぶりを振り、深呼吸して、声を整える。

「でも仕方ないわ。私が加護を賜ったなら、やっぱりあなたを一人置きざりにしたかもしれない。私も研究馬鹿だもの、お互い様よ。だから気にするなって、本心なのに。まったく、あなたの洞察力はどこに行ったの?」

「君のことになると、分からないんだ。何故だろう」

「ふふん、私には分かるわ。それはね、私のことを愛しているからよ! 愛を知ることは恐れを知ることですからね、その不安があなたの判断を鈍らせるのよ」

「そうかもしれない」

「なんでそこで『かもしれない』なのよ。そこは『そうだったのか!』という気づきじゃない?」

 二人は笑い合った。

 こんな笑い方をするのは、本当に久しぶりだった。長い長い間生きているが、自分の感情もまだ、完全に擦り切れてしまったわけではないらしい。

「そうだ、外に出てみない? 庭の様子なら覚えていると思うの」

「そうだな。ここの間取りはもうあまり覚えていないが、適当に歩けば出られるだろう」

 二人は扉を開けて廊下を歩いた。知らず、互いに手を差し出し、指を絡め合ってつなぐ。

 晩春の午後だった。柔らかく暖かな日差しに包まれた中庭。芝生の中央に、大きな木が一本立っている。

 他には誰もいない。二人のためだけに用意された世界。

 建物の影になった芝生に、隣り合って座った。

「楽しいね」

「うん」

 スレイマンが、子供のようにうなずいた。

 それから、いろんなことを話した。

 邪神のことは、どちらも一言も口に出さなかった。この美しい時間を、そんなことで汚したくなかった。

「懐かしいわ。ここの木は覚えてる」

「今はもう、あの大木もこの建物もない。ずいぶん昔に取り壊して、新たな校舎に建て替えられたから。その後は学部やら研究室やらが増えて、結局移転したよ。北部の……その頃はイストゥールと呼ばれていた地域に」

「あんな何もない田舎に? ちゃんと人が集まる?」

「今は学院を中心にした大きな街になっている。君にも見せたいな。ずいぶん変わったよ」

「ふうん、帝国にいた時より発展したのね。まだ理事長をやってるの?」

「いい加減辞めさせて欲しいが、その話を出した時だけ全派閥が一丸となって止めにかかる」

「どうせ、慕われてますって話じゃないのよね?」

「学院は大きくなり過ぎた。伝説の加護持ち、賢者スレイマンの名前で何とか一つにまとまってはいるが、いなくなればいくつもの組織に分解するだろう。自分の世代に、そんな面倒なことになって欲しくないだけだ」

「分かるわあ。どうせ名ばかりのトップに据えておいて、実権は自分たちが手にしておきたいって、それだけでしょ。帝国でもそうだったもの。……ってごめんなさい、せっかくのデートでつまらない話をしちゃったわ」

「私が始めた話だ。こちらこそ、つまらない愚痴を聞かせてしまった」

「ううん、いいのよ」

 しばらく無言の時間が過ぎた。シルヴァがスレイマンの肩に頭を乗せ、二人寄り添って大木を眺める。

 木を見たまま、スレイマンがためらいがちに訊いた。

「ここは私の夢の中だそうだ……私がここを去ったなら、君は消滅してしまうんだろうか」

「いいえ。今のわたしは、神様の図書館に置かれた世界の記録の書物の一ページ。神様は書物を開いて、わたしという存在を読み返しているの。

 あなたが現実の世界に帰れば、書物は閉じられて書架に戻される。でも消えてしまうわけじゃない。神様の図書館で、他の書物と一緒に永遠を過ごすのよ」

「なら、今ここに私と君がいることも」

「この出来事も記録の書物に記されて、永遠に神様の図書館に残るわ」

 スレイマンは想像した。

 彼がこの世界から去ってもーーそれは避けられないがーーいつか自分が死んだ後でも、二人は世界の記録に(とど)められ、晩春の庭で永遠に寄り添うのだ。

「ああ……。たとえ私が現実の世界に戻っても、神に記録された私の残響は、神の書物の中でいつまでも君といられるのか……。それを想うだけで、私はもう四百年でも生きていける」

 静かに、しかし万感の思いをこめて、スレイマンはつぶやいた。

「もう君の顔も声も、上手く思い出せなくなっていたんだ。また会えて、良かった」

「そうなんだ……じゃあ改めて、わたしを、あなたの瞳に焼きつけておいて頂戴……永遠に」

 スレイマンは横を向き、彼女を見つめる。

 琥珀の瞳の輝きも、結った黒髪のほつれも、口元にひらめく微笑みも、全てを記憶にとどめるために。

 座ったままシルヴァに向き直り、抱き寄せた。そのまま唇を寄せようとして、ためらう。

「キスしてくれないの?」

「今の私は、邪神に汚染されている。こんな身体で触れて、君を(けが)したくは」

 唇にそっと人差し指が当てられ、彼は口を閉じた。

 彼女が、悪戯っぽく微笑んだ。

「もう、そんなこと言わないの。それに……女をその気にさせておいて、恥をかかせるものじゃない、わよ?」

 微笑んでいたが、頬が赤くなっていた。精一杯の誘い。

 だから、彼は、唇を……。


 遠い日に失われた、その唇の柔らかさ。

 その身体の温かさ。

 この瞬間を過ぎれば、もう二度と叶うことのない、邂逅。


 そっと身体を離した。彼女の両頬を優しく手で包んで見つめ、その顔を改めて記憶に焼きつける。

「ありがとう。私はもう行く。色々とすべきことがあるんだ」

「……そう。わかった。本当に楽しかった、ありがとう」

 その言葉に反応したように、風景が色褪せ始めた。世界が柔らかな光に満ちていき、スレイマンとシルヴァ以外の全てが、淡く薄く存在感を失っていく。

 二人は、消えていく世界の中で、時間の許す限り見つめ合った。

 

「いつかまた、転生流転の果てで出会おう。シルヴァ、私の最愛の妻よ」

「ええ、また会いましょう。スレイマン、わたしの最高の旦那様」



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― 新着の感想 ―
[良い点] 長く会えないと、声も姿形も忘れると言うので、お会いできて良かったです。 [気になる点] ……もしや、読者を泣かせに来てますか? [一言] 人間VS邪神の冒険譚(?)に、泣ける話をありがとう…
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