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対話

 スレイマンはふと、自分がどこかの部屋の中に立っていることに気づいた。全身を冒していた苦痛は消えている。

 ぼんやりと、どこか懐かしい気持ちのまま、周りを見る。

 長い間にわたって磨きこまれた木の床。高い天井。落ち着いた色合いの壁紙と腰板。部屋の中も、大きな窓から見える中庭にも自分以外の人影はない。貴族の邸宅の一室のようだが家具はなく、灯りの魔道具も設置されていない。明るく静謐な空間。

 そうだ。ここは遠い遠い昔に、加護を賜った場所だ。マナアクシスで新たな魔術大学を立ち上げる、そのために国から提供された屋敷。

 神の啓示を受けたあの時、自分の周囲には打ち合わせのために弟子や秘書、担当の役人たち、屋敷の管理人などがいた。啓示を受けた直後、皆の目の前で突如若返ってしまい、それはもう大騒ぎになった……。

 そこまで考えて、気がついた。

 記憶が戻っている。


【スレイマン】


 どこからともなく女性の声が響いた。加護を賜った時、そして偽の聖域で目覚める前に下された啓示の声。声だけで、どこにも姿はない。

「神よ……」

 神による啓示が起こっている。

「ここはどこですか?」


【端的に言えば、あなたの夢の中です。あなたの記憶と世界の記録から再構成した場所。青銅の小瓶から救い出し、現実の世界に帰還する一瞬を引き延ばして、この場を設けました】


 例えが悪いが、とスレイマンはぼんやり考えた。邪神が小瓶の中に聖域を再現したような、ああいう空間か。瓶の中の代わりに自分の夢の中であるようだが。


【封印の瓶の中へ直接干渉することは出来ませんでしたが、あなた方の行動は観測していました。

 あなたが邪神を制した手並み、見事でした。望外の結果です。邪神があなた方を利用して、分身なり本体なりが解放されることは不可避であると【わたし】は判断していました】


 そうだった。ぼんやりしていた思考が一気に晴れた。

「邪神はどうなったのですか?」


【『隷属』によって縛られました。『対抗呪文』で跳ね返されたあの魔術の抵抗に失敗したのです。なまじ魔法威力が高かったのが仇になりましたね。まあ【わたし】も『隷属』に合わせて抵抗確率を操作したり、邪神を拘束し直したりしましたが。いずれにせよ、あの『対抗呪文』がなければ、邪神を下すことはなりませんでした】


 心なしか、口調が若干自慢げになった。神が自慢しているのではなく、スレイマンの安堵が反映されたのだろう。神の言葉は、聞く者のイメージで細部が変わる。

 魔封じの首輪は、必ず魔法行使を防ぐとは限らない。スレイマンがやったように、苦痛を乗り越えて魔法を発動させられる者が少数ながら存在するからである。ウィテーズが言った『問題がなくもない』というのは、このことを指していた。

 首輪をつけた状態でわざと攻撃魔術を仕掛けて失敗したのは、『首輪があるから魔術は使えない』と邪神に判断させるためだった。スレイマンが邪神の魔術に対して『対抗呪文』を使う可能性、そこに思いが至らないように。もっとも、演技の必要がないほどの激痛だったが。

 実際のところ、邪神が彼を従えるために、高確率で『隷属』を使ってくるだろうことは予測していた。スレイマンも『隷属』は取得しているから、それに対しての『対抗呪文』も行使できる。この魔術の対象は術者でなく呪文そのものだから、相手の魔法威力や抵抗力が高かろうが関係ない。スレイマンでも、タイミングさえ合わせられれば成功するのだ。

 だからあの時、邪神が呪文構築に入った瞬間に、決め打ちで『隷属』の対象を変更する『対抗呪文』を放ったのだ。

 たとえ成功したところで、邪神に対して『隷属』の効果があるかは分からなかったが、無駄を覚悟の抵抗が思いのほか通じたようだった。


「スーテ殿にかけられた『隷属』はどうなりますか?」


【それは【わたし】が解除しておきました】


「それは良うございました」

 だが……。

 手を目の高さに上げ、スレイマンは自分の両方の手のひらを見た。一見して何も変わらないが、短剣で刺された箇所に魔力の(とどこお)りを感じる。

「邪神の(しるし)は? 自分では分かりませんが、残っているのですか?」


【残念ながら。この場では【わたし】の力が優勢ですから、それとは感じないでしょうが】


「神のお力でも外せないのですか?」


【その徴は、あなたの魂と生命と、それらを通して肉体とを貫いています。【わたし】が無理に外せば、あなたの魂と生命と肉体がばらばらに離れ、死が訪れます。逆に言えば、いつかあなたが亡くなるその時に、徴は外れます】


「…………ならば神よ、今ここで私の生命をお取り下さい」


【なりません】


「このまま私が現実の世界に戻れば、徴を通して邪神の分身も顕現することになります。世界を危険にさらすわけにはまいりません」


【邪神のもたらす危険は、世界全てが等しく引き受けるべきです。あなた一人が犠牲になることを、【わたし】は是としません】


「しかし」


【他の者が同様の立場に立った時、あなたは『世界のために死ね』と要求するのですか】


「…………」

 スレイマンは視線を落とした。

 ああ、この声。自分の心が神の声として設定した、この声と話し方。この叱咤。

 遠い昔に添い遂げ、時の彼方に置き去りにし、その死によって永遠に別れた彼女。

 我が妻、シルヴァ。


【邪神の現状を説明しましょう。

 あの分身は、あなたと共に外の世界へ出ます。これは止めることが出来ません。ただし、あなたを主人とする『隷属』の(しもべ)として。

 神の権能、いわゆる奇跡の力は封印しますが、あなたと【わたし】の認めた範囲内で、部分的に加護のような形で使わせることを想定しています。こき使ってあげましょう】


 妻の声だと意識した途端、話し方が生き生きとしてきた。

 確かに、こういう感じだったな、彼女は。


【ていうかね! 他の神の領土に土足で踏み込んで縄張り荒らしとか、片腹痛いのよ。格下野良神が。

 あんなのでも神だからぶっ殺せないし、この世界の外に放逐しても戻ってくるのが目に見えてるし。結局この世界の中に閉じ込めるのが一番無難なのよ。一番無難な方法で、このザマなんだけど。いやーむかつくわー、奴に対しても【わたし】自身に対しても。不甲斐ない神様でごめんなさい】


 自分は疲れているようだ。神の言葉の人間語翻訳が、たいそう大雑把になっている。完全に妻だ。


【そうそう、こき使う話なんですけど。瓶の中に長年放置していたせいで、奴は力を蓄えて爆発しちゃったわけですけど】


 邪神は、壺の中で発酵させ過ぎた魚醤か?


【これからは、適度に奴の力を奪い続けた方がいいと考えるわけですよ。なので世界のために、なんかこういい感じに酷使してやってください。奴はあなたを鎖に(つな)いだつもりでしょうが、今は【わたし】も助力できます。あなたと奴とを繋ぐ鎖で、逆に奴を引きずり回してやりましょう。具体的にどうするかはお任せします。人間の社会に神が口出しすると、ロクなことにはなりませんので】


 神に丸投げされた。

 丸投げするくだりで、突然取り澄ました敬語になるところまで妻だった。


【こんなところかしら? 他に何かあればどうぞ】


「お願いがあります。もし可能ならば…………」

 言いかけて、口を(つぐ)む。

 いつ以来だろう。恥ずかしくて言えない、など。

 しかし神は彼の心を読んだのだろう。言葉になる前の、微笑みのような気配が漂う。

 部屋の様子はそのままに、神の気配が遠ざかるのを感じた。


 そして、彼の後ろで部屋の扉が開く音がした。

 

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