プロローグ・封鎖前
【聖域にて邪神が封印を解き逃れようとしている。疾く接神者を聖域に入れ、再封印せしめよ】
八百年前。世界は、創造神とは異なる神ーー邪神の侵攻を受けた。邪神はこの世界を滅ぼし、その跡地とも言うべき広大な空間に改めて自らの世界を創造しようとしたのだった。
地上に肉体を備えて顕現した邪神は強大な、まさに神の力を見せつけた。記録によると、三つあったという大陸のうちのニつは消滅させられ、最後に残る大陸も一時は西半分が邪神領域と化した。
人類は創造神の権能を借りーーというより創造神が人類を通してありったけの奇跡を注ぎ込みーーかろうじて邪神の肉体を滅ぼした。
そして後に残った形而上的霊質、すなわち邪神の本体は青銅の小瓶に封じ込められ、石窟内に造り出された『聖域』に収められていた。
千年の間、封じ込められるはずであった。
大陸全土の接神者ーーすなわち神官、加護持ち、半聖半俗の治療師などの神聖魔法の使い手たちーーに邪神開封の阻止の啓示が突如として下されたのは、ほんの三十分ほど前のことだった。
「賢者スレイマン様、お待ちしておりました。失礼ながら、本人確認させていただきます」
聖王国のほぼ中心、聖域近くにある、神殿騎士の詰所内に設置された転移陣から二人の男性ーーどちらも賢者の学院の藍色のローブを着ているーーが現れた。居並ぶ騎士たちの中から一人、魔力紋鑑定の魔道具を持った神殿騎士が近寄る。
「スレイマン様と確認いたしました。お連れの方は?」
「学院の者だ。啓示を受けた際、側にいたので介添えとして同行させた」
もう一人のローブ姿の男が会釈した。
「なにせ啓示を受けてからずっと、身体中を異様な感覚が吹き荒れておって、難儀している」
「お察しいたします。神官や聖騎士にも同様の現象が起こっておりますので。詳しくは聖域に向かいながらでよろしいですか?」
「無論。案内願おう」
一同は転移の広間を出た。大きな扉を抜けるとそのまま外に繋がっていた。大きな岩山が目の前に聳え立っており、正面に位置するあたりが一面切り立った岩壁となっている。その前に騎士たちが集結しているのが遠目にうかがえた。岩山自体には、まだこれといった異状はない。
一同は足早に向かいながら、
「状況はいかがか?」
「我々が確認し得た接神者は皆、神からの強制接続及び何らかの奇跡を継続発動しておられます。それも限界まで霊的経路が使われているようで、高位神官の中には啓示と同時に昏倒した者も多数」
「何らかの奇跡とは……邪神が封印を解かぬよう抑えこんでおられるのであろう。高位神官はなまじ接神能力が高いだけに、その触媒として酷使されているということか。耐えていただくしかあるまい。むしろ私程度の能力の方が動けるようだな。急がねば」
スレイマンに気づいた騎士たちが道をあける。岩壁に嵌め込まれた大きな金属の扉の前にたどり着く。案内していた騎士とは別の、さらに上質の鎧とサーコートを身につけた男が来た。動きは機敏だがぎこちなく、顔色が悪い。強制接続に耐えているのだろう。
「スレイマン様!」
「団長。久方ぶりだが挨拶は省略させていただく。今、聖域内に聖人聖女はおいでか?」
「あいにく、ちょうどお籠りの期間が終わったところでして、大神殿に帰還されるところだったのです。先程意識を取り戻し、こちらにとって返しておられると連絡が」
「では聖騎士が中に?」
「まさかそのような。聖人聖女を差し置いて我らが聖域になど、畏れ多い」
遠くの方から、騎士たちの緊迫したざわめきとは別の、言い争いのような声が聞こえてくる。場が混乱しているようだ。
「そのようなことをおっしゃっている場合か!」
極めて珍しいことだったが、スレイマンが声を荒らげた。
「とにかく封印を確認いたす。私は加護持ちとして今から入るが、聖騎士も何人か続いていただきたい。あまり大勢でも身動きがとれないが、最悪復活した邪神と対峙する可能性がある。カドモン」
スレイマンが、従者として同行してきたローブの男ーーカドモンに向き合った。
「ご苦労。お前はここまでで良い。この後は速やかに大神殿に退避し、学院を通して王国と情報共有に努めよ」
「お言葉ですが、私はスレイマン様と共に参ります」
「カドモン」
「もし邪神が復活するならば、世界のどこにいようと危険は同じ。ならばスレイマン様のお側で一助となるのが私の望みであり努め」
一瞬気遣わしげにカドモンを見たスレイマンだったが、すぐに背を向けて聖域への扉に向き直った。
「説得する時間も惜しい。好きにするがいい」
「ありがたき幸せ」
聖域内。岩を削って造られたいくつかの扇形の空間と、入り組んだ、しかし一本道の通路を二人は足早に通り過ぎていく。
「うっ……」
「スレイマン様!?」
スレイマンの足元がふらついたのを、咄嗟にカドモンが支えた。
「すまぬ、この身の内を通り抜ける神気がいよいよ強くなってまいった」
「私にもただならぬ霊気を感じます。封印の間は近いのですか?」
狭い通路の突き当たりに、入口のそれに似た金属の扉がある。
「この向こうだ。下がっておれ、扉に付与してある術を解除する……よし、開けるぞ」
扉を開けた瞬間、冷ややかな神気がほとんど物理的な風となって二人を襲った。髪やローブが強くはためく。神聖魔法が使われた時に放たれる暖かな神気とは違う、厳かだが世界を否定する力。
スレイマンはその神の気配に耐えながら、中に入った。
そこは円柱形の広間だった。中央にある岩の台座と、その上にある、コルクで栓をした青銅の小瓶以外には何もない。
その小瓶が小刻みに動いていた。わずかに、だが明らかに栓が左右にじりじりと動き、瓶の口から引き抜こうと動いていた。
まずい。スレイマンが走り寄った。世界最高の神器である瓶を乱暴につかみ、右手で栓を締め直そうとする。
どうだ? 間に合うか?
だがその瞬間、瓶の口と栓の合わせ目、そのあるとも思えないような隙間から強烈な冷気がすり抜けた。邪神の力が。
それがスレイマンを貫いた。
その一撃で、彼という存在の核、魂が身体から切り離される。
邪神の力はそのまま拡散し、一気に聖域に広がる。
だが同時にスレイマンが、それまでの勢いのままに強力な封印魔術を完成させて栓に叩き込んでいた。
スレイマンの身体は力を失い、その場にくずおれた。
「スレイマン様……っ!」
カドモンが駆け寄ろうとしたが、邪神の神気に耐えきれずに彼もまた意識を失ってしまうのだった。