第二章『湖での出会い(三)』
武術の勝負と言い出す凰珠に、成虎は開いた口が塞がらなくなった。何しろ二人の体格差は大人と子供ほどもある。内功を体得していれば女の細腕でも凄まじい破壊力を生み出すことも可能だが、それはこちらも同じ条件である。
「あー……、その、何だ……、勝負はいくらでもしてやるが、武術はやめとこう。何か別の勝負にしてくれ」
「どうして?」
「どうしてって、おめえなあ……」
曇りのない眼で訊き返す凰珠に成虎は溜め息を漏らす。
「いいか、俺は自慢じゃあねえが大体何でも人並み以上にこなすことが出来る。中でも武術が一番得意だ。悪いことは言わねえから、武術以外にした方がいいぜ」
「そうなんだ、じゃあ一緒だね!」
「……あ?」
凰珠は後ろ手に手を組んで、成虎の周りを歩き出す。
「あたしも自慢じゃないけど、お料理とか裁縫とか大体何でも出来ちゃうの。その中でも一番得意なのが武術。だから、あなたと一緒」
「一緒って、おめえ……」
「————あ、でも姉さまには全部敵わないなあ」
「…………」
(……この女、もしかして頭がちょいと緩いのか……? だったらさっさと終わらせて、とっととオサラバしちまうのが吉だな)
先ほどまでは凰珠に何か惹かれるものを感じていた成虎だったが、ここまでの言動から凰珠への興味が波が引いていくようにサーっと消え去った。
「……分かったよ、そんじゃあ始めよう。勝負は寸止めでいいな?」
「そんなのダメよ。本気で打ってこないのなら髪飾りはあげられないわ」
この言い方に成虎はムッとした。
(このアマ……、恩人と思って俺が遠慮してやってりゃあ調子に乗りやがって。絶対に寸止めで腰を抜かさせてやるぜ……!)
内心のイラつきはおくびにも出さず、成虎は構えを取った。
「よーし、いいだろう。怪我しちまっても恨みっこなしだぜ?」
「うん、いいよお」
凰珠は笑顔のまま成虎の前に正対した。しかも全くの無構えである。武術の原則として対手の正面に立つことは禁忌とされる。人体の急所は身体の正中線上に集中しているからだ。この挑発とも取れる行為に、若い成虎の表情が怒気を帯びた。
(————ナメんな! このアマ‼︎)
成虎が最も得意とする崩拳が唸りを上げて凰珠の水月(鳩尾)に迫った。その風圧だけで小柄な凰珠が吹き飛びそうな一打である。
「…………あ?」
しかし気付いた時には、つい先ほどまで眼の前にいたはずの凰珠の姿が掻き消えていた。
「何処へ————」
「……デーコピン!」
声と共に成虎は顎に衝撃を受け、その場に尻餅を突いた。脚に全く力が入らず平衡感覚が狂っている。まるで酒に酔ったような状態だ。グルグルと回っていた眼の焦点が次第に合ってくると、さっきまで己が立っていた位置に凰珠が立っているのが見えた。
「あなた、本当に大きいのね。デコピンが額まで届かないんだもの。……アレ? アゴに当たったってことは、『デコピン』じゃなくて『アゴピン』になるのかな?」
「…………!」
成虎はようやく状況を理解してきた。どうやら己の崩拳は寸前で躱され、懐にもぐり込まれた挙句、下方から『デコピン』ならぬ『アゴピン』を貰い、無様にも尻餅を突いてしまったらしい。
「それに優しいのね。やっぱり本気で当てるつもりが無かったでしょう。だって凄く避けやすかったもの」
「————ッ!」
凰珠の言葉に成虎は歯噛みする。相手の姿と言動から、対手を舐めていたのは己の方であったのだ。凰珠に殺意があれば尻餅を突くだけでは済まなかったかも知れない。
フウッと深呼吸した成虎はバチンッと己の頬を張って立ち上がった。凰珠を真っ直ぐに見据え再び包拳して見せる。
「————朱姑娘、先ほどまでの非礼をお詫びする。もう一手ご教授願いたい」
真摯な口調で詫びた成虎は全身に真氣を巡らせて構え直した。もう凰珠を舐めるつもりは毛頭なく、一人の強力な武術家として認めて全力で相手取るつもりである。
「……いい眼ね。今のあなたなら、あたしの髪飾りを受け取ってもらえるかも」
いまだ柔和な顔つきのままではあったが凰珠が構えを取ると、成虎はかつて感じたことのない重圧をその身に受けた。
(……間抜けか、俺は。こんな女を相手に油断してたなんてな)
成虎は感謝するようにうなずくと、渾身の崩拳を繰り出した。