第十二章『掟と契り(二)』
まるで墨をこぼしたような漆黒の水面を一艘の舟が緩やかにかき分けてゆく。
「————いやあ、お舟にゆらゆら揺られるってのも中々オツなモンだねえ」
舟の真ん中に陣取った成虎が上機嫌で口を開いた。
「これで酒がありゃあ最高なんだがなあ」
「あるぞい」
成虎の独り言に船倉から返事があった。
「何⁉︎ オッチャン、酒があんのかい?」
「ああ、ワシの寝酒だがね。一人で呑むのも味気ないでな、良かったらアンタたち付き合わんかね?」
「願ってもねえ!」
成虎は眼を輝かせて喉を鳴らしたが、志龍は無言で船首へと移動した。
「————あ、いや、やっぱやめとくぜ。悪いな、オッチャン」
「なんじゃい、急に…………」
ぶつぶつと文句を言う船頭に手を挙げて謝ると、成虎は志龍を追いかけ声を掛ける。
「悪い悪い。おめえさん、酒の匂いだけでもダメだったな。船首なら風通しも良いし問題あるめえよ」
「…………」
しかし、志龍はあらぬ方向に顔を向けたまま何も語らない。
「おいおい、そんな怒らなくても良いだろい。酒の誘いは鉄の心で断ったじゃあねえか」
「……違う」
「あん?」
成虎の言葉を否定しつつ志龍は視線の先に指を伸ばした。成虎が顔を向けると、夜空の向こうに光り輝くモノが見えた。
「……なんでえ、ありゃあ? 星————」
「————にしては低すぎる」
「だな」
志龍に同意しながら更に眼を凝らしていると、星らしき光が徐々に大きくなってその全容が見えてきた。
「……ありゃあ、蛇……か?」
「いや、魚だな」
指摘通り、こちらに迫って来るソレは紛うことなき魚であった。ただ一つ尋常の魚と決定的に違うのは黄金に輝く翼を備えていることである。
「————こいつぁ驚いたぜ! 紅州じゃあお魚さんが空を飛ぶのかい!」
「いや、あれは妖怪だろう」
「……いや、そんな真顔で突っ込まれても困るんだがよ……」
二人が噛み合わないやり取りをしていると、船頭が声を掛けてきた。
「あれは『大鵬』っちゅう妖怪だな」
「————タイホウ⁉︎」
あまり聞きたくない音の名前を聞いた成虎は思わず訊き返してしまった。
「そうだが、それがどうした?」
「い、いや、なんでもねえ。それよりオッチャン、妖怪が迫って来てるってのに随分余裕があるじゃあねえの?」
「フフン、まあ見てるといい」
意味深に言うと船頭は腕組みをして帆柱に寄り掛かった。その余裕な様子に成虎は引っ掛かりを覚える。
「なんでえ……ん? そう言やあ、あん時もこんな風に妖怪がこっちに向かって来て…………」
「————岳どの! 見ろ!」
珍しく声を張った志龍に従い、成虎は飛来する妖怪へと視線を戻した。そこには予期していた通り、妖怪を追い回すように背後にピッタリ張り付き滑空する女の姿があった。
(ありゃあ朱雀派の装束だ! あの女、もしかして————‼︎)
女の容貌を見て成虎が眼を見開いた時には、妖怪・大鵬と朱雀派の門人と思われる女は舟の上空を通過して陸地の方へ飛んで行ってしまった。
「ああ……、行っちまった————ッ志龍⁉︎」
成虎が残念そうに声を漏らすと突然、志龍が女を追うように船首から跳躍した。しかし、船は月餅湖の中ほどで停泊しており陸地まではかなり距離がある。いくら軽功が使えるとはいえ、朱雀派の門人かそれとも神仙でもなければ一足飛びで陸地まで到達することは叶わないと思われた。
案の定、跳躍した志龍の身体が水面に吸い込まれると思われた瞬間————、
「————おおっ!」
志龍は水面に浮かぶ枝を足掛かりにして、枝が沈み込む寸前で再び跳躍してみせた。流石に爪先の辺りが少々水に浸かってしまったようだが、志龍のこの見事な軽功に成虎は思わず喝采を送った。
(野郎……! 軽功もかなりのモンじゃあねえかよ! 俺も負けてらんねえぜ!)
好敵手に対抗心を燃やした成虎も志龍に倣って舟の床を蹴った。
「じゃあな、オッチャン! 束の間の舟旅、楽しかったぜ!」
言い様、成虎は空中から何かを投げて寄越した。床の上に落ちたそれを船頭が拾ってみると、なんと銀子である。
「おおい! こんなに受けとれんぞ!」
銀子を手に船頭が顔を上げた時には既に虎のような大男の姿は夜の闇に掻き消えており、船頭は手を合わせて感謝の意を示した。




