第一章『うつけ者(一)』
————白州の東南に位置する城市『興安』————。
昼間は行き交う人も多く活気賑わうこの城市だが、一度夜の帳が降りれば人々は家に帰り一家団欒の時が始まる。しかし、その外れに周囲の雰囲気とは一線を画す横丁があった。
そこには派手な赤提灯が立ち並び、笛や太鼓の音が耳目を刺激する。通りを歩く男たちは皆一様に酒に酔ったように浮かれた表情を浮かべていた。
その横丁を奥に進んで行くと、一際大きな屋敷が姿を現した。扁額には金泥で『玉慈院』と書かれている。
「ほら、若先生。もう一献、いかが?」
皇帝の寝所に置いてあるような大きな寝台に腰掛けた女が甘ったるい声を上げると、皇帝の寝台には絶対にあり得ない真っ赤な掛け布団の中から、気の抜けた男の返事が聞こえる。
「……おめえまで、『若先生』はやめてくれよ。萎えちまうじゃねえか」
声の終わりと共に半裸姿の男が布団から顔を出した。
「いいじゃない。若先生は若先生よ」
女は婀娜な笑みを浮かべた後、杯を口に含んで若先生と呼ばれた男に口づけた。男はゴクリと喉を鳴らすと女の手から杯を奪い、その身を引き寄せる。
「酒はもういい。そろそろ————」
男が女の着物に手を掛けた時、部屋の外からドカドカと廊下を慌ただしく駆ける足音が聞こえてきた。
「————若先生!」
叫び声と同時に、豪華な装飾が施された扉が乱暴に開け放たれ、額に大粒の汗を浮かべた男の姿が見えた。
「……なんでえ、俺はこれからお楽しみだぜ。用があるなら終わってからにしてくれや」
少し不機嫌そうに答える若先生に対して、男は口角泡を飛ばして両腕を広げた。
「それどころじゃないんです、若先生! 城市の外に妖怪が現れて————」
「どうせチンケな妖怪だろ? 兄貴に任せときゃ問題ねえよ」
興味なさげに顔を背ける若先生に対して苛立ったように男は腕を振り上げた。
「勿論行って下さってますとも! その『大若先生』が苦戦なさってるから、お迎えに上がってるんです!」
焦る男の口から『大若先生が苦戦している』と聞いた若先生の眉根がピクリと持ち上がった。
————興安の城外では、三人の青年が妖怪の群れに囲まれていた。
「…………っ」
正確には一人と昏倒した二人である。地に伏した二人の仲間を横目に、残された青年は歯を食いしばった。
その時、青年を取り囲む妖怪の輪から三頭が飛び出した。
妖怪は熊を彷彿とさせる姿で、十の爪を鉤のように伸ばして襲い来る。その巨体からは想像もつかない素早い攻撃だったが、青年は冷静に外して一呼吸の間に三手を繰り出した。
青年の反撃を受けた妖怪たちの身体が霧状になって夜の闇に溶け込んでいく。青年の拳に真氣が込められていることは明白である。
「……ほお、『仙士』って奴か。人間にしちゃあ、なかなかやるじゃねえか」
感心したような声と共に、一頭の妖怪が群れの中から歩み出た。
その妖怪もやはり熊に似た風貌だったが、決定的に違うのはその出で立ちである。甲冑と兜を纏い、戟を握るその姿はまるで歴戦の将軍のような空気を醸し出している。
周りの妖怪たちと比べて二回りは大きいこの鎧熊が群れの首領と見て取った青年は全身に真氣を漲らせた。およそ獣の群れとは、一頭の首領によって統率されているものである。
(この首領を仕留めれば、群れは瓦解する……!)
青年が踏み込むと思われた刹那、一瞬先に鎧熊の戟が突き出された。
「————ッ!」
先を取られた青年は身体をひねって辛くも鎧熊の突きを外したが、その額からは大量の脂汗が溢れ出た。
「よく躱した、と言いてえところだが、『収穫』はあったなあ」
鎧熊は耳障りな笑い声を上げて、戟の先から布切れを摘み上げた。鎧熊の突きを外したかに見えた青年だったが、その上着が戟の枝に引っ掛けられ剥ぎ取られてしまったのである。
「……ぐ……!」
青年は胸を押さえて喘ぎ声を出した。押さえた手からは真っ赤な鮮血が滴り落ちる。
「グハハ、収穫は服だけじゃなかったようだなあ……!」
青年の上着を乱暴に投げ捨てた鎧熊が、嬉しそうに戟を旋回させる。その佇まいは一流の武術家を彷彿させるものである。
「————どうしたよ、兄貴。調子でも悪いのか?」
その時、鎧熊の背後から軽やかな声が響いてきた。
「————ッ!」
全く気配を感じていなかった鎧熊は血相を変えて振り返った。しかし、目線の先には配下の熊たちが倒れているのみである。
「見せてみろよ。……うん、内臓にゃ届いてねえな」
再び背後から先ほどの声が聞こえてきた。鎧熊は今度は恐る恐るゆっくりと振り返る。すると、いつの間に現れたものか、一人の大男が屈み込んで青年の傷の具合を確かめていた。
「……すまん、俺の力が至らないばかりに……!」
口惜しそうに声を絞り出す青年の肩をポンと叩いて、大男が振り返った。
振り返ったその顔は、いまだあどけなさが残る少年のものであった。常人より二回りは大きいその巨躯が些か不釣り合いに思えるほどに。
「て、てめえが……⁉︎」
少年の登場に鎧熊は絶句した。
(……こんなガキが音も無く、配下どもを始末したってのか……⁉︎)
鎧熊が少年の姿を改めて下から注視すると、靴は踵を潰して履いており、素肌に上着を引っ掛けている。気の抜けたような表情を浮かべて、髪は結われずボサボサである。その姿はまるで無頼の少年が起き抜けで散歩にでもやって来たかのようであった。
このだらしない姿をしっかりと眼に収めた鎧熊は笑みを見せた。
「さーて、クマちゃん。兄貴はちょいと調子が悪いみてえだから、俺が代わりに相手してやるぜ」
少年がボリボリと頭を掻きながら口を開いた。余裕を取り戻した鎧熊は戟を中段に構えて少年を威嚇する。
「ガキぃ、マグレであんまり調子に乗ってると————」
気付けば、自慢の戟の穂先が消失している。
「ど、どこへ————」
再び血相を変えて鎧熊が辺りを見回した時、またしても背後から少年の声が耳を打つ。
「ふーん、バケモンにしちゃあ、結構な業物使ってやがんのな」
背と背が密着しそうな距離で少年が己の戟の穂先を手中で弄んでいる。
「てめえ————」
鎧熊が口を開いたその瞬間、背後から凄まじい衝撃が襲った。それは数千斤の巨岩がぶつかって来たかと思えるもので、鎧熊は断末魔の叫びを上げる間も無く果てた。
「……ふう」
少年は気怠そうに一息つくと、胸を押さえる青年の元へと再び歩み寄る。
「立てるか? 肩貸すぜ、書文兄貴」
「……ああ。見事な貼山靠だな、成虎」
書文と呼ばれた青年が複雑な笑みを漏らすと、大柄な少年————郭成虎も応えるように魅力的な笑顔を見せた。