第二章『湖での出会い(四)』
雄渾な真氣を孕んだ拳が凄まじい疾さで鳳凰に襲い掛かる。
(今度はどうだ! 躱せるもんなら躱してみやがれ!)
成虎の拳が目前に迫っても、凰珠は躱せないのか微動だにしない。
(————しまった! 熱くなっちまって、つい本気で繰り出しちまった! もう止めらんねえ!)
巨漢の硬い拳が乙女の柔肌を粉々に打ち砕くものと思われた時————、
「————あ……?」
成虎はいまだかつてない拳の感触に眼をひん剥いて呆然とした。
「……あっぶなかったあ……!」
軽やかな声にハッとしてみれば、伸び切った己の拳から数丈先に凰珠の姿が見える。
「今のは躱さなかったんじゃないよ? ホントに躱せなかったわ」
「…………⁉︎」
しかし、成虎が今聞きたいのはそんな言葉ではない。
「……おい、今のはどういうこった⁉︎」
「え? だから躱さなかったんじゃなくて————」
「んなこたぁどうでもいいんだよ! 何だ、今の紙を殴ったような感触は⁉︎」
指を突き付けながら近付いてくる成虎に、凰珠は困ったような表情を浮かべる。
「ごめんね? ホントは使う気は無かったんだけど、生身で受けてたら多分あたし死んでたから」
「使う? もしかして何かの防御法か⁉︎」
「そう、『軽氣功』って言うの」
「軽氣功……?」
初めて耳にした言葉に成虎はおうむ返しした。
「文字通り身体を軽くする内功技よ」
「身体を軽くする……、それで紙みてえな手応えだったのか。そいつはどうやってやるんだ⁉︎」
「悪いけど師父に叱られるから、これ以上は教えられないわ」
思わず口に出してから、成虎はハッとした。凰珠が何処の門派の門人かは分からないが、他派の者に易々と絶技を漏らせる訳がない。
「……すまねえ。今のは忘れてくれ」
「ううん、いいわ。それで勝負はまだ続ける?」
「勿論。どうあってもその軽氣功って技を破りたくなったぜ」
「そう。じゃあ続けましょ」
ニコリと笑って構える凰珠に対し、成虎も笑みを見せて真氣を巡らせた。
再び得意技の崩拳を繰り出した成虎だったが、その拳が凰珠の身体に触れた瞬間、やはり期待した手応えは消失し、拳には紙を殴ったような感触だけが残った。それでも成虎は矢継ぎ早に拳や蹴りを繰り返すが幾度攻撃を当てても凰珠にはサッパリ効いている様子はない。
(やっぱりだ……! 何度当てても『芯』に響いてる感触がねえ……!)
涼やかな表情の凰珠に対し、全ての攻撃に全力で真氣を込めている成虎は肩で息をし始める。
「辛そうだね。まだ続ける?」
「……へへっ、優しいねえ。だが、女に『続ける?』って訊かれて『無理だ』なんて口が裂けても言えねえよ」
言うなり成虎はまたしても崩拳を打ち出した。先ほどまでとなんら変わらぬ攻撃に凰珠が少しガッカリしたように笑みを浮かべた瞬間、拳を当てた成虎が更にもう一歩踏み込んだ。
(————『面』の攻撃がダメってんなら、『点』の攻撃はどうでえ‼︎)
成虎の縦拳が弧を描くように変化し、渾身の肘打ちが凰珠の脇の下に突き刺さった。
しかし、それでも凰珠の身体は風に煽られた羽のようにフワリと浮かび上がって、数歩後ろにゆっくりと着地した。その様子を見送った成虎はその場にバッタリと大の字に倒れ込んだ。
「————参った! 俺の負けだ‼︎ もう真氣が尽きちまった!」
成虎は満足したように天に向かって吠えた。倒れ込む成虎に向けて凰珠が口を開く。
「正直言って最後の攻撃は危なかったわ。あそこから頂肘に変化するなんてね」
「よせやい。勝ったヤツが何を言ったって皮肉にしか聞こえねえぜ」
「本当よ。それにあなたのお腹が一杯だったら、倒れていたのはあたしの方だったかも」
「……いーや、これが現在の俺の実力さあ」
成虎は倒れ込んだまま言葉を続ける。
「……凰珠、またいつか俺と勝負してもらえるか……?」
「そうね…………」
凰珠が口を開いた時、月餅湖の方から鳳凰のさえずりのような口笛が聞こえて来た。
「いっけない。姉さまが呼んでるわ。あたし、もう行かないと」
「ちょっと待っ————」
慌てて上半身を起こした成虎だったが、辺りには不思議な雰囲気を纏った少女の姿は見えない。
「————あなたがあたしよりも強くなったら、また勝負しましょうね。大きな虎さん」
遠くの空から凰珠の澄んだ声が響いて来た。成虎は苦笑すると再び地面に倒れ込む。
(……親父、外の世界は広えな。どうやら俺は井の中の『虎』だったらしいや)
最初は凰珠の見かけや言動に油断し、どんな相手でも甘くみてはならないと自戒したものの、己が本気を出せば誰にも負けないという慢心が身体の奥底に残っていたのだ。
「————見てやがれ。ぜってえおめえより強くなってやるからな、凰珠……‼︎」
何をしても他人よりも上手く出来る成虎はいつからか物事に本気で取り組むことを忘れていた。しかし今、ハッキリとした目標を見つけた成虎は嬉しそうに満月に向かって拳を突き出したのだった。
———— 第三章に続く ————




