(一)
若々しく小気味よい掛け声とともに、木槍の先が振り下ろされる。されど声の勇ましさとは裏腹に、その穂先はまるで稲穂が風に揺れるかのようで、どこか牧歌的でさえあった。善十郎は負けじと声を張り上げて、二、三十人ほど並んだ若者たちを叱咤する。
「まるで遅い。気合を籠めよ、もう一回!」
その怒声に、一斉に「応!」と鬨が返ってくる。幾人かは息を切らしはじめている者もいるが、まだまだ元気なものだ。
「良いか、槍とは突くものに非ず。敵をぶっ叩くものじゃ。力任せで構わん、地を揺らすつもりでぶちかませ!」
「応!」
ただし依然として、元気なのは声だけであった。振り下ろされる木槍は、ゆらゆらと揺れながら力なく地を叩くだけ。これならまだ百姓上がりの雑兵が、死に物狂いで振り回す槍のほうがよほど恐ろしい。
もちろん、それも仕方ないこととわかってはいる。何しろまだ、戦に出たこともない若者たちだ。だからこそ、こうした鍛錬が必要なのだ。
「まだまだよ、もう一回!」
そう号令を掛けたとき、ふと視線に気付いて善十郎は振り返った。いつから来ていたのか、備前守氏綱が柱の陰に立ってこちらを見ていた。
「これは尾上どの、気付かずに失礼いたしました」
善十郎は慌てて向き直り、深く頭を下げる。氏綱は「構わぬ。続けられよ、飯島どの」と言いながら、ゆっくりと歩み寄ってきた。形よく整えられた髭の奥の唇を緩めながら。
ここは飛騨白川郷、帰雲屋敷。一辺二十間はある方形の裏庭を使って、若者たちに槍の指南をするのが、当面善十郎に与えられた役目であった。
「若武者の猛き声は、耳に心地よいものよ。つい、釣られて出てきてしもうたわ」
はじめて出会ったときに比べれば、ずいぶんと砕けた口調でそう話しかけてくる。こうして禄を貰う身になれば、氏綱は筆頭家老、こちらは新参の一兵卒である。こうした口の利き方は当然であった。
「……で、あればいいのですが」
それでも主君である兵庫頭氏理と、その一族が住まっている屋敷である。五月蠅いと思われはしないかと気掛かりでもあった。それに今この若者たちの中には、氏理の嫡男である孫次郎氏行の他、重臣たちの子弟も含まれているのだ。そうでなければ鍛錬にもならないとはいえ、かように偉そうに怒鳴りつけてよいものかとも。
「気にすることはない。殿もそう申されていたではないか」
「……良いのですか、まことに」
「これも、若殿や小太郎らが戦で死なぬための鍛錬じゃ。厳しくしてもらわねば困る」
慥かに、あの殿であればそう考えているであろう。武田ではまず考えられぬことであるが、人はそれぞれ、国もそれぞれだ。
「それでどうかな、飯島どの。この帰雲の地にはもう慣れたかの?」
庭を望む縁に腰を下ろして、氏綱はそう尋ねてくる。善十郎と蔦がこの地へやって来て、間もなくひと月が経とうとしていた。
誘いに応じて善十郎が飛州に入ったのは、六月も間もなく終わろうかという頃のことだった。
富山から白川郷に向けてはしっかりとした街道が整えられており、いつぞやのような苦労は一切せずに済んだ。意外に思ったのは、ずいぶんと行き交う者が多いことだ。多くが商人で、荷馬を幾頭も連れた者や、大きな荷車を引かせている者もいた。聞くと飛騨ではなかなか良質の金や硝石が採れるそうで、堺の商人やどこぞの大名家とも取引があるという。また本願寺と繋がりの深い名刹もあるらしく、旅の雲水の姿もちらほら見かけた。
これはどうやら、勝手に思い描いていたいたような山里でもないのやもしれぬ。道すがら、善十郎はそう考えはじめていた。そしていざ保木脇と呼ばれる集落に辿り着くと、あらためて驚かされることとなる。そこには、思っていた以上に多くの民が集まっていた。
視界が開けると、両側を高い山に挟まれたわずかな土地いっぱいに、びっしりと田畑が拓かれている。さらに村を南北に横切る川に沿って広い街道が敷かれ、通り沿いには家屋が密集していた。中には大きな商家もあり、ひっきりなしに人や荷駄が出入りしている。
見下ろした川面には幾艘もの高瀬舟が浮かび、やはり大量の荷を積んでゆっくりと下ってゆく。河原では童たちが並んで石投げをして遊び、物売りは大きな声を張り上げて客を呼び、野次馬が物珍しそうに人集りを作っている。もちろん規模としては富山の城下に及ばぬが、活気はともすればそれ以上と言ってもよかった。
そして川向う、水面からまっすぐ切り立った崖の上に、高い柵で囲われた砦が見えた。その三方には、それぞれに集落を睥睨するような櫓が建てられている。天守はないが、戦ともなれば多くの兵と集落の民を収容できるだけの屋形も見て取れた。あれが内ヶ島家の本拠、帰雲城であろう。なるほど川を天然の堀に、崖を石垣とした、いかにも堅固な砦と見えた。
ただし氏綱から聞かされた話によれば、川のこちら側にも屋敷があり、当主である兵庫頭氏理も平時はそこに住っているという。氏綱の屋敷もその近くにあるとのことで、まずはそちらを訪ねることとした。
家の者に名を伝え、中へ通されてしばらく待っていると、氏綱が息を切らしながら現れた。善十郎と蔦の姿を目にすると、心底嬉しそうに顔をほころばせ、来訪を歓迎してくれた。
翌日、帰雲屋敷の会所にて対面した氏理は、武人としては小柄で色白、ずいぶんと線の細い印象があった。女子かと紛うばかりに整った面差しに、切れ長の眦と薄い眉。髭も口元から細く短く伸びているのみ。ただし物腰や振る舞いは堂々としており、小さいながらも一国を束ねる当主としての威厳も備えていた。
「内ヶ島兵庫頭である」
「はっ」と床に拳を突き、頭を下げた。「飯島善十郎為佑にございます」
「備前より話は聞いておる。面を上げよ」
言われて姿勢を正すと、興味深げにこちらを見つめる氏理と目が合った。歳の頃は善十郎とほぼ同じくらいであろうか。硬い表情を崩してにっこり笑うと、どこか童じみた人懐っこさが覗く。やはりあまり侍らしくない、柔らかい印象を受けた。氏綱のような、隙のない人当たりの良さとも違う。
「よう来たな。嬉しく思うぞ」
「はっ、有難き幸せ」善十郎はそう言って、もう一度頭を下げた。その顔を、氏理は身を乗り出して覗き込んでくる。
「何やら拍子抜けしたような顔よの。どうせ、いかなる山猿が現れるかと身構えておったのであろう」
どうやら内心が顔に出ていたらしい。「いえ、そのようなことは……」と言いつつ、顔を隠すようにさらに下げる。
内ヶ島家はかの名将・楠正成の末裔とも言われている。かつては足利将軍の奉公衆であり、八代将軍義政の命を奉じて初代・上総介為氏が飛州へと移封された。当初はここより南の牧戸に城を築いて本拠としたが、強大な武力をもって周囲の豪族を従えて勢力を広げ、ここ帰雲へと拠を移したという。
兵庫頭氏理は、それから数えて四代目に当たる。性は粗暴にして非道、信義を知らず悪逆誰よりも勝る。されど古今の兵法に通じ、百戦して危うからず。風聞では専らそうした人物像が語られていた。もちろん風聞は風聞にしかず、多少の誇張はあると思っていたものの、目の前に座る男はそれとははるかにかけ離れた印象である。果たしてこれが兵庫頭氏理その人であるのか、訝しく思ってしまうのも無理のないことであろう。
「良いのだ。またぞろ、大袈裟な風聞を耳にしていたのであろう。だがそれもみな、この備前がわざと広めているものよ」
「では風聞はすべて、意図的に作り出した虚像ということにござりますか」
「まあ、そういうことよの。お陰で他所ではどんな中傷をされていることやら。腹黒い義弟を持つと苦労をするわ」
そう言って氏理は、傍らの氏綱を見やって苦々しげに笑った。このどこか食えない筆頭家老の室が氏理の妹であることは、すでに当人から聞かされている。つまり齢は氏綱のほうが十ほど上だが、形の上では義弟に当たるわけだ。
「されどかつて、かの上杉不識庵の侵攻をも撥ね返したと聞きます。それは決して偽りではありますまい?」
「さて、な。それもずいぶんと誇張されておるわ。上杉に攻められたことは事実だが、実際に率いておったのは山吉玄蕃なる男らしくての、兵もせいぜい八百ほどであったそうじゃ。わしはちょうど越中へ兵を出しておって、留守のところをずいぶんと荒らされたらしい。されど知らせを聞いて慌てて帰ってみれば、敵はすでに引き上げたあとであった」
「はあ……」
「要するに、いざ来てみればさして豊かな土地とも思えず、そこへ面倒臭そうなのが帰ってくると聞いて、戦をするほどの利もなしと踏んだのであろう。それも、この備前が広めた大袈裟な風聞のお陰かもしれんの」
つまり、実際に上杉軍と槍を交えたわけではないらしい。されど世にはまったく違った形で話が広まっている。おそらくはそうした現状も、この備前守氏綱が巧みに利用しているのであろう。
「まあ、実のところのわしはこの通りよ。かの楠公の裔という話も怪しきものでな、いっそ否定してしまおうとも思っておるのだが……使えるものは何でも使えと、やはりこの義弟がな」
「すべてはこの帰雲の地、そして内ヶ島の家を守るためにございます」
しれっとした顔で、氏綱は言う。おそらくこうした愚痴を零されるのもはじめてではないのであろう。あしらいも慣れたものだった。
「しかし拍子抜けといえばこちらも同じぞ。小太郎の話を聞いて、いったいどんな恐ろしい偉丈夫が来るかと身構えておれば……」
「小太郎にとっては恩人でござりますからな。多少、尾鰭が付くのもやむ無きことかと」
と言いつつも、不満があるわけではないようだった。氏理はまた善十郎の顔を覗き込み、満足げに頷いて言った。
「だが面構えは堂々としたものよ。頼もしき限りじゃ」
「小太郎どのは、某のことを何と……?」
「六尺はあろうかという大男で、三間の長槍を自在に操り、万余の敵に怖じもせず……あとは何だったかのう?」
謡うような口調でさも楽しげに、氏理はそう並べ挙げた。それはまさに、かの渡辺金太夫の逸話に他ならなかった。どうやらあの若侍は、すっかり善十郎をかの者と重ね見てしまっているようだ。
「まあ、気にするでない。少なくとも、槍が得意というのはまことであろう?」
「得意と言っていいものかは迷いますが……得物は何かと問われれば、やはり槍を選ぶかと」
「それは良い」と、氏理は立ち上がる。そうして善十郎の前へと歩み寄り、わずかに身を屈めた。「では善十郎。まずは孫次郎のやつに、槍の指南をしてやってはくれぬか」
孫次郎というのは氏理の嫡男、氏行のことだ。齢はいまだ十一。先日の魚津城攻めで初陣を果たしたばかりだという。
「併せて馬回りの若衆たちも、みっちり鍛えてやってくれ。あの者たちはいずれ、孫次郎の支えとなる者たちだ。そう簡単に死なれては困るでな」
「……さような大役、某でよろしいのでございますか?」
「うむ。我らには川尻備中という長槍の遣い手もおるのだが、なかなか牧戸の城から離れられん。それで代わりの者を探しておったのよ」
氏理はそう頷くと、ふっと目を細めて、穏やかな声で続けた。どうやら槍よりも、そちらのほうが本題らしい。
「稽古のついでに、戦の話もしてやってはくれぬか。孫次郎らも、そういった話には目がないようでな。商人らから聞き付けてきた他国の戦のことなどを、喜び勇んで語り合うておる。じゃからおぬしから、まことの戦を教えてやって欲しいのよ。勇ましいばかりではないということをな」
なるほど、と得心する。そういうことであれば、きっとおのれは適役やもしれぬ。これまで雑兵同然の立場で、戦というものの醜い部分を嫌というほど見てきた。若者たちが勇に逸って無駄死にしないためにも、そうした戦のまことを話して聞かせておく必要はあるだろう。
「されどひとつ、お断りしておかねばならぬことが」
そう前置きすると、氏理は訝しげに眉を寄せる。「何じゃ?」
「これも尾上どのからお聞き及びかとは存じますが、某は武田の残党として織田方から追われる身。いつ何どき、ご迷惑をおかけするかわかりませぬ。そのときは、どうぞ遠慮なく放逐して下され」
「何かと思えば、さようなことか」氏理はこともなげに答えた。「気にするでない。そもそもその織田とてあの始末であろう。もはや武田のことなど気にもしておらぬのではないか?」
それは慥かにその通りなのかもしれない。ここへ来る道すがらに、右大臣信長を討った惟任光秀も、備前高松城から神速の大返しをしてみせた羽柴筑前守秀吉に討たれたと聞いた。表向きは信長の三男である三七信孝が総大将であったというが、誰もがお飾りとしか思っていない。織田家など、すっかりそんな為体というわけだ。
「それでも気になるようなら……そうだな。この近郷にも、飯島という村がある。ちょうど照蓮寺が伽藍を構えているあたりじゃ。皆には、かの地の出ということにしておけば良い」
振り返ると、氏綱もそれはいい考えだとばかりに頷いていた。ずいぶんとあっさりしたものだと思ったが、それで構わぬのであれば拒むものでもなかった。
「ところで、だ……のう善十郎」
氏理はすっと音もなく、目の前に腰を下ろした。そしてまるで誰かに聞かれるのを恐れるように、囁くほどに声を落として尋ねてくる。
「おぬし、碁は打つか?」