表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
浮雲の賦  作者: 神尾 宥人
第四章 帰雲
58/59

(二十二)

「どうかされましたか?」

 と、蔦が尋ねてきた。善十郎が遠き山影に目をやっているのに気付いたのであろう。

「いや……の。もしかしたら、嵐にでもなるのやもしれぬ。あちらで雷でも光ったように見えたのじゃ」

「雷、でございますか。それは奇妙。今宵は月こそ見えませぬが、よく晴れ渡っているはずにございます」

 では、何かの見間違いであろうか。そう思いかけたところへ、ごろごろという雷鳴が聞こえてきた。はじめは遠く、風に乗るように。されど徐々に、細かく地を震わせるように響きはじめる。

「やはり雷……いや、これは?」

 地を伝ってくる響きは、なかなか収まろうとはしなかった。それどころか他にも何か、獣の唸りにも似た低い鳴動が波のように迫ってくるのがわかった。

 雷ではない、地揺れだ。それもかなり大きい……そう気付いたその刹那、いきなり下から激しく突き上げられた。善十郎は椀を取り落とし、両手を突いて辛うじて縁から転がり落ちるのを堪えた。

 続けて、大波をまともに食らったが如き横揺れに襲われる。粗末な庵が悲鳴のような音を立てて歪み、軋む。咄嗟に手を伸ばすと、姿勢を崩した蔦がその中に飛び込むようにしなだれかかってきた。善十郎はその思いの外か細い体を、両腕できつく胸にかき抱く。

 それは地揺れであったにしても、これまで経験したこともないほどに激しいものであった。おそらくは庵も保ちはすまい。崩れてくる屋根の下敷きになる前に庭へ降りるべき。そうはわかっていても揺れはなおも強く、腰を浮かすことすらできなかった。

 そうして見上げた視界いっぱいに、帰雲山の山影があった。その黒一色の山肌に、再びちらちらと瞬くような火花が散るのが見えた。それとともに闇の底で何かが蠢き、ゆっくりとずり落ちるように動きはじめるのがわかった。

 ああ、と声が漏れた。山が……帰雲山が割れる。

 その崩れた片割れが、巨大な土塊となって押し寄せてくる。そこかしこに見えていたはずの篝火も、いつの間にか土埃にかき消される。城も、屋敷も。城下の家々も、高く天に突き出したような屋根のひとつひとつも、すべてを飲み込んでゆく。

 ふと声が聞こえた気がして、腕の中の女に目を落とした。女は善十郎の胸に頬を押し付けながらも、うっすらと微笑んでいた。それはあたかも夢見るような、満ち足りた笑みに見えた。

「死にとうは……ございませぬなぁ」

 もう一度、女がそう歌うようにつぶやくのが聞き取れた。その言葉に、思わず善十郎も笑みを溢していた。ああ、おのれも同じよ。かようなところで、かようなありさまで、死にとうはない。これはいくら何でも、あんまりであろう。まだまだ生きて、この内ヶ島という家の行く末を見届けたいと思うておる。まったくもって浅ましいことよ。

 そうしてようやく、先ほどの女の言葉の意味を得心していた。捨て鉢で飛び込んだ地獄の戦場で生を拾い、当てもなく流された果て、世から取り残されたかのようなこの山奥の地で、おのれは惜しむに足るものを見出していたということだ。だからこそかように死が恐ろしい。命が惜しい。

 そのことが、かようにも嬉しい。善十郎は気付かずに笑っていた。高らかに、心の底から。ああ……死にたくはないのう、と。

 その笑いも、すぐに押し寄せる土塊にかき消された。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ