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浮雲の賦  作者: 神尾 宥人
第四章 帰雲
54/59

(十八)

 中野照蓮寺、奥の院。嘉念坊明了は、その最奥にある小さな宿坊へと続く長い廊下を、足音も立てずに進んで行った。そうして戸の前に立つと、中に向かって呼びかける。

「金森法印より、書状が届きました」

 ややあって、「そこに置いておけ」という声が返ってくる。明了は頷いて、その通りに文箱を足元に置いた。

「……何と申してきた?」

「あとのことは、内ヶ島兵庫どのと話し合われるように、とのことにございます」

「あっさり折れおったか……金森法印、存外につまらぬ男よ」

 大きなため息とともに、そう吐き捨てるように言うのが聞こえた。

「これですべてはあやつの思惑通りか。まったく、忌々しい限りじゃ」

 いったい何のことにございましょう。明了はその問いを口にしかけて、結局は飲み込んだ。問うたところで、答えが返ってくるはずもないとわかっていたからだった。そうして見えぬとわかっていても恭しく頭を垂れ、再び来た道を戻ってゆく。

 あの奇妙な襲撃を受けた夜、この宿坊の主は、いっとき行き方知れずとなった。あたりが静まり返ったのち、この戸が開け放たれて中が無人になっていたことに気付いた明了は、総出であたりを捜索させた。そうして夜が明けた頃、ここから西へと離れた林の中に、倒れている明心を発見したのだった。

 てっきりこと切れているものと覚悟したが、外傷もなく、僅かにではあったが息もあった。そうして寺へと連れ戻ると、ほどなくして目も覚ました。されど何があったのかと尋ねても、「女子は恐ろしいものよのう……」などとはぐらかされるだけだった。

「二十は寿命が縮んだわ。はて……あれは果たして、まことに女子であったのかのう?」

 問い返されても、明了はわけもわからず首を傾げるしかなかった。ただまだ当分は、身罷るつもりもないようだ。まったくこのお方は、いったいいつまで生くる気か。

 以来、明心はこの一室に籠ったきり、ほとんど外へは出なくなった。何があったのかはとうとうわからぬままだったが、ともあれ手綱の着けられぬ荒馬の如き怪物が大人しくなったことは喜ばしいことだった。これでしばらくの間は、寺の者たちの心も休まることであろう。

 あくまでもしばらくの間は、ではあろうが。

 

 

 八月二十六日、佐々内蔵助成政は倶利伽羅(くりから)峠の関白秀吉の陣を訪れ、降伏を申し入れた。このとき成政は剃髪の上法衣を身に着け、恭順の意を示したという。成政は助命されたものの、越中新川のわずかな土地を残してすべての所領を召し上げられた。かくして、のちに富山の役と呼ばれる戦は幕を下ろしたのである。

 ただし氏理の軍勢はその後もしばらく上見城へ留め置かれ、ようやく帰雲への帰還を許されたのは、天正十三年もいよいよ押し詰まった十一月に入ってからのことであった。

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