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浮雲の賦  作者: 神尾 宥人
第一章 浮雲
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(五)

 翌日、善十郎ははじめて城下へと足を運んだ。富山の城下町は思っていた以上に大きく、行き交う者も多かった。ただし、どこかひりひりとした空気が漂っているのも感じ取れる。それはよく知っている、戦場の空気だった。

 露店に並ぶ男たちの出で立ちを窺うと、刀を差している者が多く目につく。しかしどこぞの兵というわけではなく、いかにも破落戸(ごろつき)といった風体だ。おそらく戦と聞き付け、仕官先を求めて集まってきた牢人者であろう。おかげで似たような姿の善十郎も、さして目立つことなく城下を歩くことができていた。

 露店を冷やかしで覗きながら、男たちの会話に耳を傾けていると、だいたいの状況は掴めてきた。

 どうやらこの富山でも、ほんのふた月ほど前に戦があったばかりなのだという。織田勢が魚津城攻めに向かったその隙に、神保の旧臣であった加老戸(かろうど)式部なる者が蜂起し、かつての主君であった神保越前守を幽閉して城を占拠した。しかしとんぼ返りしてきた織田勢に包囲され、あっさりと城を捨てて逃亡したらしい。戦は数日で片付いたが、大手門前ではそれなりに激しい戦闘もあったようだ。その緊張がいまだあとを引いているのであろう。

 ただ、それにしては整然としているとも思った。ひとたび城が落ちれば、城下にも兵たちがあふれ、乱取りと略奪に明け暮れるものだ。いわばそれが雑兵たちへの褒賞とも言え、逃げ遅れた町人たちはその餌食となり、運よく逃れた者たちもしばらくは寄り付けない。城が落ちるというのはそういうことなのだ。たかだかふた月ほどでこうまで立ち直るはずもない。

 慥かに織田の兵たちは統制が取れていて、乱取りも法度で禁じられているという風聞はあった。しかしそんなものは眉唾で、どうせ下々の兵などと言うのはどこも変わらぬと疑っていたものだった。しかしこの様子を見ると、さすがにそれも信じるしかないのかもしれぬ。

 露店を離れ、ぶらぶらと往来を歩いた。荷車が砂埃を巻き上げながら走ってゆく。その脇を顔を伏せながら、歩き巫女の列が通り過ぎる。どこかで喧嘩でもしているのか、男たちの罵声が聞こえる。それに負けじと、物売りがやけくそ気味に声を張り上げていた。まったく騒々しいことこの上ない。

 それでも不思議と、居心地の悪さはなかった。はじめて訪れた見知らぬ土地で、しかも敵地である織田領だ。おのれが武田の残党と知れれば、すぐにも兵どもが飛んでくるかもしれない。そう思っても、警戒心はまったく湧いてこない。

「……おかしなものよ」

 別に、また捨て鉢になったわけでもない。捕えられ、首を刎ねられるのはもちろん御免だった。しかしそういった諸々のことが、まるで他人事のように思えるのだ。織田も、武田も、おのれとはまるで関わりのないことのようにさえ。

 理由はやはり、伝兵衛の無事を知ったことであろう。どうやらおのれは思っていた以上に、飯島の家のことが大事だったようだ。それがどうにか残ったと知ったことで、役目から解放されたような気がしていた。

 もはやできることは何もない。あとはただ、遠き空より伝兵衛の行く末を祈るだけだった。今のおのれは何者でもない、ただの牢人者にすぎぬ。どこへ流れてゆくも勝手。その実感は、思った以上に晴れやかなものだった。

 仰ぎ見ると埃立った地上とは裏腹に、空だけは抜けるように晴れ渡っていた。その一面の青の中を、ぽつりと小さな浮雲が流れてゆく。見えない風に乗り、ゆっくりとゆっくりと。

 今のおのれは、あれだ。善十郎はそう思った。知らず、口元が緩んでいた。

「何をなさっておられるのですか、飯島さま?」

 声がした。振り返ると、いつの間にかそこに蔦が立っていた。また港で買い求めてきたのであろう、小さな魚を幾つも盛った(ざる)を抱えている。

「そんな往来の真ん中で立ち止まっていますと、馬に蹴られますよ」

「何でもない。戻るぞ」

 善十郎は照れ隠しに仏頂面を作り、背を向けて歩き出す。女はくすくすと笑って、そのあとを付いて来た。

「魚津の戦は、織田方の勝ちに終わったようです」

 不意に声を落として女は言った。囁くほどの小声でありながら、やけにはっきりと聞き取れる。おそらく密談に適した発声を心得ているのであろう。善十郎は頷いて、「さようか」とのみ答える。

 もはや織田の勢いは誰にも止められまい。武田の次は、上杉がそれに呑み込まれるのだ。かの不識庵謙信が築いた王楽浄土も、これで終わりに違いなかった。

「……無常よの」

「はい……されど」

 と、蔦が珍しく歯切れの悪い物言いをした。何かあったのかと気になった善十郎は、歩みを緩めて隣に並びかけた。

「どうも、織田方の様子も気になりまする。織田勢は魚津城を落とすと、検分もそこそこにすぐ兵を引き上げてしまったのだとか。それも佐々内蔵助(くらのすけ)を押さえに残して、総大将の柴田修理は越前までとんぼ返りしてしまったとのことです」

 なんと、と善十郎は素で驚きの声を上げた。それは慥かにおかしい。不識庵亡きあと、上杉は跡目争いですっかり弱っていると聞く。そのまま軍を進めれば、難なく春日山まで迫れたであろうに。

「いったい何があったのだ。それとも魚津城攻めは、あくまでも牽制に過ぎなかったと?」

「わかりませぬ。またどこかで門徒が蜂起したとの風聞もございますが、まことかどうかは……」

 それはあくまで風聞に過ぎぬでろう。いっときは織田を激しく脅かした一向宗の門徒たちも、今ではほぼ鎮圧されたと言っていい。本拠であった石山本願寺もすでに落ちた。再び織田に反旗を翻すだけの力が門徒衆にあれば、武田ももう少し持ち堪えられたはずである。

「ただ、お陰で国境周辺は混乱しておるようです。今ならば、その混乱に乗じて上杉領へも入れるかと……」

 なるほどと、しばし考える。慥かに当初の目的通り上杉領へ入るなら、今が好機なのだろう。そうした読みについては、この女のほうがずっと長けている。善十郎もそれはわかっていた。おそらくおのれひとりでは、高遠からここまで辿り着くこともできなかったろう。

 しかしそれはわかっていても、急いで越後へ向かう気にはあまりなれずにいた。もしかしたらおのれは、この何者でもない浮雲のような心地を、今しばらく味わっていたいのかもしれない。

「少し、様子を見ようか」と、善十郎は言った。

「よろしいのですか?」

「ああ、そう()くこともなかろう。織田が引いた理由もわからぬのでは、やはり不安も残る。すぐにまた大軍で引き返してくるやもしれぬ」

 蔦は訝しげにちらと目を上げたが、それ以上は何も言わなかった。といっても、こちらの判断に不満があるわけでもないようだ。やがてそれならそれでいいと言わんばかりに、小さく頷いてまた善十郎のうしろに下がってゆく。

 そのとき、前方で罵声が響き渡った。同時に、小さな影が吹っ飛ぶように路上へ転がり出てくる。どうやらまた喧嘩のようだ。善十郎は「まったく騒々しいことよ」と小さく笑い、足を止めた。

 転がり出てきたのは、まだ顔に幼さの残る若侍だった。年の頃は十四、五といったところか。それでも身形はちゃんとしており、上等な羽織袴に大小も差している。どこぞの家中の側小姓だろうかと察しをつけた。

 続けて道端から、数人の大柄な男たちがのっそりと現れた。先頭の男は、ひと目で破落戸とわかる出で立ちだ。汚れた髪を頭頂部で乱暴に纏め、髭は伸び放題。女物の色鮮やかな着物を肩から羽織り、腰には五尺はあろうかという金糸柄の大刀を差していた。

 あのような長物、戦場では何の役にも立たない。どんなに長かろうと結局、刀は槍に敵わない。そして槍を捨てて刀で斬り合うような乱戦ともなれば、今度は逆にその長さが邪魔にしかならない。所詮は虚仮(こけ)脅しの代物でしかなかった。

「どうされました?」

 足を止めた善十郎に、蔦が訝るような声をかけてくる。慥かにこんな喧嘩など、別に珍しくもない。わざわざ見物するほどのこともなかった。おおかたどさくさの略奪目当てで集まってきた破落戸で、当てが外れて苛立っているのだろう。そこへあのような獲物が現れては、身包み剥がしてくれと言っているようなものだ。

 男たちは若侍を取り囲むと、にやにやと笑いながらじりじりと迫ってゆく。なるほど、焦らして相手が刀を抜くのを待っているのか。つまりは、遊んでいるのだ。

「あまり興の湧くものではございませんが」

 そう漏らした蔦の言葉に、善十郎は「慥かに、の」と頷いて、再び歩を進めた。そうして、男たちの背後から近付いてゆく。やがて圧力に耐えかねた若侍が、腰のものに手を掛けたところで口を開いた。

「止めておけ」

 釘を打ち込むように言い放った。すると若侍はびくりと身を震わせて、弱々しく顔を上げる。男たちも振り返り、胡乱な目で善十郎を見つめた。

「そいつを抜けば、もう只では済まぬぞ。どちらかが死なねば収まらぬ。おぬしにここにおるすべてを斬り伏せるだけの腕はあるのか?」

 それがわからないわけでもなかったのだろう。若侍は、刀に手を掛けたまま凍り付いた。女物の着物を羽織った大刀の男が、邪魔をするなとばかりに「ああ?」と声を上げた。

「なんだ、手前は。こ奴の主か?」

 別にそういうわけでもない。そう答え、善十郎は男に向き直った。「だが、おぬしらもそのくらいにしておけ。相手は(わっぱ)ではないか」

 男が身体を揺らしながら、顔を近付けてきた。上背は善十郎よりも拳ひとつふたつばかり大きい。しかしどうということもなかった。

 なるほど、これまでもそれなりに人を斬ってきたのであろう。その身からは、拭い去りようもない血の臭いが漂っている。おそらく戦にも、たびたび出ていたに違いない。以前はどこかの家中にいたが、逃散して野盗に落ちた手合いか。

 しかしそれなら、こちらの身に染み付いた臭いも嗅ぎ取れるはずだった。善十郎は三白眼で斜に()め上げながら、軽く殺気を飛ばしてみる。男の目が一瞬怯むように揺れたのがわかった。しかし取り巻きどもの手前、引くわけにもいかないのであろう。すぐに気を持ち直し、汚れた歯を剥き出して凄んでくる。

 参ったのう、と嘆息しつつも即座に腹を据えた。この程度の連中であれば、無手で叩き伏せるのもわけはない。もしも得物を抜くようであれば、そのときは容赦する必要もなくなる。

 そう身構えたとき、不意に男が足を縺れさせた。そのままうしろに数歩よろけ、取り巻きのひとりにもたれかかる。

「お……おい、どうした?

「糞が……酔いが回ってきたぜ」

 男は呂律の回らない口調でそう言うと、とうとうぺたりとその場に座り込んだ。そうして力なく頭を垂れると、やがて大鼾をかきながら眠りこけてしまった。

 取り巻きどもも、呆れたようにその様子を見ているだけだった。善十郎はゆっくりと若侍に歩み寄り、軽く頭を小突いて言った。

「……これに懲りたら、童がさような恰好で歩き回るな」

「わ……童ではございませぬ」

 かすかに震える声で、それでも若侍はそう反駁してきた。まあ、そう言い返せるなら大丈夫なようだ。

「童と言われて腹を立てるは、童の証よ」

 善十郎は小さく笑って、若侍に背を向けた。そうしてそのまま、また往来を歩き出す。すぐ後ろを、蔦が音もなくついて来ているのも気付いていた。

 振り返りもせずに言った。「……余計なことをするでない」

「何のことでございましょう」

 蔦はまた、くすくすと笑った。しかし先ほど男がよろけた際に、首筋に短い針が刺さっているのをはっきりと見ていた。その針は善十郎の背後から、女が飛ばしたものに違いなかった。おそらく何かの薬でも塗ってあったのであろう。これだから透波は油断ならない。

「あの程度の連中、わしひとりでどうとでもなったわ」

「……それで」蔦はわずかに声を落として尋ねてきた。「この城下で勇名を轟かせるおつもりにございましたか?」

 善十郎は「……む」と言葉を詰まらせる。そうしておのれが、逃げ隠れしている身であることを思い出した。慥かに迂闊なことをして、要らぬ目を付けられても良いことはない。

 ちらりと肩越しに振り返ると、さっきの若侍の姿はもう見えなかった。うまくあの場を離れることはできたのだろう。ならばまあ、あれで良かったということか。善十郎は小さく肩をすくめると、また前を向いて歩を進めた。

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