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浮雲の賦  作者: 神尾 宥人
第四章 帰雲
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(十三)

 その夜、聖地・中野|照蓮寺≪しょうれんじ≫は騒然としていた。深夜丑三つ近く、伽藍に突然炸裂音が響き渡ったからだ。すでに寝んでいた僧侶たちも、手に手にそれぞれの武具を携えて一斉に飛び出してくる。

 寺とはいえ照蓮寺はかつて越前の一向一揆を支援し、また内ヶ島とも激しく争った武闘派である。僧侶たちの目はどれも、歴戦の兵の眼光を瞬時に取り戻していた。

「何者の仕業じゃ、急ぎ慥かめい!」

 悠然と進み出てきた住持・嘉念坊明了の声も、引き締まって険しいものだった。その手にはすでに、愛用の両鎌槍が握られている。続けて、鉄砲衆がうしろに並んだ。火縄もすでに点火済みで、いつでも斉射に入れる態勢にあった。

「わかりませぬ。どこにも敵は見当たらず……」

 僧のひとりが戸惑いながら言いかけ、すぐに遮られた。再び立て続けに筒音が鳴り響き、みな弾かれたようにその場に伏せる。されど何者がどこから撃ってきているのか、まるでわからなかった。

「何だというのだ、いったい……」

 明了はただひとり伏せもせず、訝しげに目を闇に巡らせる。いったい何者が寺を襲うというのか、見当もつかない。されど今、この飛騨の地は戦の真っただ中である。慥かに内ヶ島とは和解して長く、金森とも不可侵の密約を結んでいる。とはいえ、武士どもの口約束など当てになるものではない。

「明了さま……危のうございます、どうぞお戻りを……」

「構わぬ!」

 制止を振り払い、明了はなおも闇に向かって踏み出してゆく。筒音はなおもけたたましく響き続け、どこからか煙がたなびいてくる。それでも矢弾は飛んでは来ず、傷付いた者もいない。

「まさか、空砲……何の戯れだ、これは?」

 ちょうどその頃、奥の院から小さな影が音もなく、裏の山林へと飛び出していった。されどそれに気付いた者は、ひとりとしていなかった。

 

 

 伽藍からいくらか離れると、蔦は木々の合間のやや開けた場所で足を止めた。そうして踵を返してしばし待つ。するとほどなくして、闇の中からすうっと浮かび上がるように小さな影が現れた。木々の合間に覗く夜空。ちょうど中天に浮かんだ満月が、その幽鬼のような姿を照らし出す。

 白と黒の法衣の中から覗く、まるで枯れ枝のような腕。そして痩せこけた顔。まさに乾涸びた即身仏が、妖術か何かで動かされているかのようにさえ見える。ただ両目だけがわずかに潤み、生気をたたえてぎょろりとこちらに向けられていた。

「ちと悪戯が過ぎたの、乱破よ」

「されど御坊とふたりきりでお話しするには、ああするしかなかったゆえ」

 蔦は静かにその場に跪き、老僧に礼を示す。とうの昔に身罷ったはずの、照蓮寺まことの住持・嘉念坊明心。すべてはこの怪物を、奥の院から誘い出すための余興であった。おそらく楽しんではもらえたのだろう。骨と皮ばかりの顔は言葉と裏腹に、気分を害したようには見えなかった。

「して、乱破よ。この老体を呼びつけて何用じゃ。詰まらぬ用であったらただではおかぬぞ?」

「然らば申し上げまする。今宵は御坊に、ひとつお願いしたき儀がありまして、こうしてお呼び立てした次第」

「お願い、とな?」

「はい」と、蔦は頷く。「御坊が金森法印との間に、不可侵の盟を結ばれたことは承知しております。それを、一度反故にしていただきたく」

「ほほっ、ほう」と、明心は嗄れた声で笑う。「おぬしはわしに、表裏者となれと申すか?」

「……いかにも」

 そう答えて、蔦は再び立ち上がった。そうしてゆらりと身を揺らしながら、わずかに間合いを詰める。

「法印はすでに、御坊と交わした約定を破っておりまする。向牧戸では、城内に逃げ込んでいた領民たちの多くを手に掛け申した。ならば照蓮寺としても、盟に縛られる謂れもありますまい」

「なるほど。されどそれは致し方なきことではないかの。城内におる以上は、民とて兵のうち。ならば首を刎ねるのも戦のならいというもの。わしらもそこまでは責めはせぬ」

「慥かに。ただ、言い掛かりをつける種にはなりまする」

 ふむ、と明心は思案するかのように黙り込んだ。むろんかの密約は、何も金森勢ばかり利するものではない。照蓮寺という、おのれが再興した古刹を守るためのものでもあった。仮にあの法印らと敵対したとして、慥かにいっときはかの者らを苦しめることはできるやもしれぬ。

 されど一向宗もすっかり風下、すでに石山に本山はなく、越中越前からの支援も得られない。ならば遠からぬうちに、数で圧されて滅ぶのは目に見えていた。それならばできるだけ有利な条件を引き出せるうちに、手打ちをするのは利巧な判断であろう。それを今になって反故にする理由もない。

「かような小さき家が、さほどに大事か。愚かしいことよ」

 蔦はそれには応えを返さなかった。おのれが今こうしているのが、何のためなのか、蔦自身にもわからなかったからだ。はたして内ヶ島という家を守るためなのか、あるいはただひとりの男の頼みに応えるためなのか。

「ではまずはおのが腕で、このわしを愉しませるがよい。願いを聞いてやるか否かは、それ次第よ」

「それは、こちらとしても望むところ」と、蔦もうっすらと笑みを浮かべた。「その前にまず、片付けねばならぬことがあるゆえ。可愛い手下(てか)弄ばれた落とし前にございます」

 篠野を子供扱いし、怖気を刻み付けられた分はしっかりと、返してもらわねばならなかった。頼み事はそのあとのことだ。

「なるほど、なるほど。おぬしはあの乱破の飼い主であったか。どうりで躾がなっていないわけよ」

 明心もまた、ゆらりと身を揺らす。それとともに夜気が張り詰め、うっすらとした靄が漂いはじめる。まさしくこの世ならぬ、幽玄の狭間へと迷い込んだかの錯覚さえ覚えながらも、蔦はおのれの口角が吊り上がるのがわかった。業の深いことよ、とつくづくおのれに呆れる。

「名を、聞こうかの」

 明心が問うた。そうだ。慥かに今のおのれは、蔦と呼ばれる飯炊き女でも、飯島善十郎の下女でもない。ならば捨てたはずの名を、再びみずから口にせねばなるまい。

「甲州透波、高坂(こうさか)甚太郎……いや、高坂甚内(じんない)

 ほう、ほう、ほう。老僧の口から、梟の鳴き声にも似た笑いが漏れる。

「はてさて、これは面妖なことよ。その名を持つ者、主を失って武蔵あたりで野盗に堕ちたと聞いておったがの」

「それは出来損ないの二代目よ。武田忍びの名を貶める面汚し。要らぬ風聞は、忘れていただきたい」

 明心は「……なるほど」とつぶやき、了解したとばかりに頷いた。そうして靄の中を羽ばたくように法衣を広げる。

「では、参ろうか」

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