表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
浮雲の賦  作者: 神尾 宥人
第四章 帰雲
43/59

(七)

 ただその穏やかな空気も、すぐに翳りを帯びたものに変わった。成政が表情を曇らせ、申し訳なさげに目を伏せたからだった。

「まずは、兵庫どのには詫びねばならぬ。正直に申し上げよう。我は貴殿を見誤っておった」

「何がですかな?」

「此度の戦において、貴殿はおそらく真っ先に羽柴に降るものと思っておったのよ」

 その告白に対しても、氏理はにこやかな顔を崩さなかった。さもありなん、と思っているのであろう。おのれらなど、最初から成政の中では数に入っていなかったであろうと。

「そうであろう。我らの間には、取り立てて何もなかったではないか。盟は結んでおったが、それも形ばかりのものでしかない。質を取っているわけでもなければ、貴殿の危機に援軍を送ったこともない。のう……(しか)らば貴殿が我に兵を送らねばならぬ義理など、何もないではないか。敗れるとわかり切っている我になど」

「そうでございますなぁ……」氏理はなおも飄々と答える。「まあ、長いこと山奥に引き籠っている田舎者ゆえ、世の流れなど何も見えぬのでございますよ。織田どのに明智どの、柴田どの、羽柴どの……誰が天下人で誰が逆賊で、誰に付いて誰を裏切ってと、目まぐるし過ぎてもう何やらわかりませぬ」

 そうは言うが、善十郎は知っていた。この一年近く、兵庫頭氏理がどれほど深く悩み続けてきたのかを。飛騨の山中にありながら世の動きをつぶさに見据え、あらゆる可能性をすべて考慮した上で、この決断に踏み切ったということも。

「それに内蔵助どの。我らの間に何もなかったと申されましたが、それは違う」

「と、申されると?」

 怪訝そうに目を細めた成政に、氏理はにっこりと笑って答えた。

「友誼がござった。佐々家とわが内ヶ島家では、国力も兵の数も呆れるほどの差があった。攻め滅ぼすことも、力づくで従わせることも何ら難しいことではなかった。されど内蔵助どのは、その小さき我らを対等に扱ってくれた。その友誼に、応えずにはおれなかっただけでござるよ」

 成政はしばし、氏理の言葉が理解できなかったかのように、不思議そうにぱちぱちと目を瞬かせた。ややあって困ったように、あるいは照れ臭そうに、ゆっくりと破顔する。

「参りましたなぁ……これは。まったく参った」

 その笑顔は何とも邪気がなく、ついついつられてこちらも頬が緩んでしまうような、そんな明け透けなものだった。荒くれの武者たちを束ね、日々戦と謀略に明け暮れる乱世の大名のものとはとても思えない。ましてや天下人に弓を引いた反逆者のものだとは。善十郎は拍子抜けして、いっそ気圧されるような思いで、その雪焼けした顔を見つめていた。

「わかり申した、兵庫どの」

 成政はそう言って、居住まいを正した。そうして広げた両拳を床に突き、平伏するように深く頭を下げる。

「では朋輩(ともがら)としてお頼み申す。どうか、羽柴に降ってはいただけまいか」

 その言葉はさすがに意外だったのか、傍らの氏行がひゅっと音を立てて息を呑んだ。されど氏理のほうは予想していたのか、驚いた様子は見せずにいた。

「我にはもう、貴殿を守ることはできぬ。どうか御身を大事にされよ」

「降られるのか、内蔵助どのも」

 成政はゆっくりと顔を上げた。そうして小さく、安堵したようなため息をついてみせる。

「三河守どのが我のために、助命嘆願をしてくださってな。大納言(信雄)さまにもお口添えをしていただいておる。もう降るしかないことはわかっておった。それでもまだ迷っておったのじゃが……今、決め申した」

「それでよいのでござるか?」

「よい。おそらく命の他は、すべてを失うことになろう。それでももう少しだけ生きてみようと思う」

「口惜しくは……ござらぬのか?」

 重ねたその問いに、成政はとうとう言葉を淀ませた。それからしばしの沈黙ののち、臓腑から絞り出すような声で言った。

「口惜しくないはずが……なかろうが」

 わかりきっていた答えであった。されど氏理としても、その言葉を引き出さぬわけにはいかなかったのであろう。

「我ひとりであれば、どこまででも抗って見せよう。手足を千切られ、臓腑を引きずり出されようとも……たとえ首だけになりても、筑前めの喉頸に噛り付いてやろうぞ。抗うとはそういうことよ」

 で、ござろうの。氏理は深く頷いた。おそらく思いは同じなのだ。

「そうよ……我ひとりであれば、の。されど我の身は、もはや我のみのものに非ず。我の無謀な決断にひとつとして異を唱えず、これまで付いて来てくれた者たちがいる。かの者たちの命は、出来る限り守らねばならぬ」

「屋代どのについても、責める気はなさそうですな」

「その通りよ。右衛門尉の胸中は我にもよくわかる。あの者も、|手下≪てか≫を守るためにはああせざるを得なかったのであろう。責める気など毛頭ない」

 羽柴方に寝返った屋代右衛門尉の話になっても、成政の口調は穏やかなままだった。その声音にはむしろ、おのれの不甲斐なさへの悔恨が滲んでいるようにも思えた。

 きっとその思いは、今この城にいる郎党たちへのものでもあるのだろう。半三郎は郎党を城下に集めたのは、寝返りを防ぐためと言っていたが、それ以上に暴走を止めるためでもあったはずだ。おそらく羽柴方は戦の口実を作るため、繰り返し挑発を仕掛けてきている。それに乗せられて戦闘になり、無駄に命を散らすことのないよう、乏しい兵糧を吐き出してでも手元に繋ぎ止めているのだ。

「……わかり申した」氏理はそう答えて、再び両手を突いて頭を垂れる。「内蔵助どのも、どうか御身大事に」

 成政も同じく、「……(かたじけ)ない」と礼を返してくる。そうして氏理は顔をわずかに持ち上げると、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、成政の面差しを覗き込む。

「のう内蔵助どの……雪の立山で、いったい何をご覧になりましたか?」

 その問いに成政はしばし思案したのち、「いや、何も」と首を振った。

「ただただ寒いばかりにござった。得たものなど何もない。我ながら、愚かなことをしたものよ」

 されどその表情は、言葉以上に雄弁に語っていた。この者もきっと見たのだ。氏理ら飛州の民が、冬ごとに見ているものと同じ何かを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ