(七)
ただその穏やかな空気も、すぐに翳りを帯びたものに変わった。成政が表情を曇らせ、申し訳なさげに目を伏せたからだった。
「まずは、兵庫どのには詫びねばならぬ。正直に申し上げよう。我は貴殿を見誤っておった」
「何がですかな?」
「此度の戦において、貴殿はおそらく真っ先に羽柴に降るものと思っておったのよ」
その告白に対しても、氏理はにこやかな顔を崩さなかった。さもありなん、と思っているのであろう。おのれらなど、最初から成政の中では数に入っていなかったであろうと。
「そうであろう。我らの間には、取り立てて何もなかったではないか。盟は結んでおったが、それも形ばかりのものでしかない。質を取っているわけでもなければ、貴殿の危機に援軍を送ったこともない。のう……然らば貴殿が我に兵を送らねばならぬ義理など、何もないではないか。敗れるとわかり切っている我になど」
「そうでございますなぁ……」氏理はなおも飄々と答える。「まあ、長いこと山奥に引き籠っている田舎者ゆえ、世の流れなど何も見えぬのでございますよ。織田どのに明智どの、柴田どの、羽柴どの……誰が天下人で誰が逆賊で、誰に付いて誰を裏切ってと、目まぐるし過ぎてもう何やらわかりませぬ」
そうは言うが、善十郎は知っていた。この一年近く、兵庫頭氏理がどれほど深く悩み続けてきたのかを。飛騨の山中にありながら世の動きをつぶさに見据え、あらゆる可能性をすべて考慮した上で、この決断に踏み切ったということも。
「それに内蔵助どの。我らの間に何もなかったと申されましたが、それは違う」
「と、申されると?」
怪訝そうに目を細めた成政に、氏理はにっこりと笑って答えた。
「友誼がござった。佐々家とわが内ヶ島家では、国力も兵の数も呆れるほどの差があった。攻め滅ぼすことも、力づくで従わせることも何ら難しいことではなかった。されど内蔵助どのは、その小さき我らを対等に扱ってくれた。その友誼に、応えずにはおれなかっただけでござるよ」
成政はしばし、氏理の言葉が理解できなかったかのように、不思議そうにぱちぱちと目を瞬かせた。ややあって困ったように、あるいは照れ臭そうに、ゆっくりと破顔する。
「参りましたなぁ……これは。まったく参った」
その笑顔は何とも邪気がなく、ついついつられてこちらも頬が緩んでしまうような、そんな明け透けなものだった。荒くれの武者たちを束ね、日々戦と謀略に明け暮れる乱世の大名のものとはとても思えない。ましてや天下人に弓を引いた反逆者のものだとは。善十郎は拍子抜けして、いっそ気圧されるような思いで、その雪焼けした顔を見つめていた。
「わかり申した、兵庫どの」
成政はそう言って、居住まいを正した。そうして広げた両拳を床に突き、平伏するように深く頭を下げる。
「では朋輩としてお頼み申す。どうか、羽柴に降ってはいただけまいか」
その言葉はさすがに意外だったのか、傍らの氏行がひゅっと音を立てて息を呑んだ。されど氏理のほうは予想していたのか、驚いた様子は見せずにいた。
「我にはもう、貴殿を守ることはできぬ。どうか御身を大事にされよ」
「降られるのか、内蔵助どのも」
成政はゆっくりと顔を上げた。そうして小さく、安堵したようなため息をついてみせる。
「三河守どのが我のために、助命嘆願をしてくださってな。大納言(信雄)さまにもお口添えをしていただいておる。もう降るしかないことはわかっておった。それでもまだ迷っておったのじゃが……今、決め申した」
「それでよいのでござるか?」
「よい。おそらく命の他は、すべてを失うことになろう。それでももう少しだけ生きてみようと思う」
「口惜しくは……ござらぬのか?」
重ねたその問いに、成政はとうとう言葉を淀ませた。それからしばしの沈黙ののち、臓腑から絞り出すような声で言った。
「口惜しくないはずが……なかろうが」
わかりきっていた答えであった。されど氏理としても、その言葉を引き出さぬわけにはいかなかったのであろう。
「我ひとりであれば、どこまででも抗って見せよう。手足を千切られ、臓腑を引きずり出されようとも……たとえ首だけになりても、筑前めの喉頸に噛り付いてやろうぞ。抗うとはそういうことよ」
で、ござろうの。氏理は深く頷いた。おそらく思いは同じなのだ。
「そうよ……我ひとりであれば、の。されど我の身は、もはや我のみのものに非ず。我の無謀な決断にひとつとして異を唱えず、これまで付いて来てくれた者たちがいる。かの者たちの命は、出来る限り守らねばならぬ」
「屋代どのについても、責める気はなさそうですな」
「その通りよ。右衛門尉の胸中は我にもよくわかる。あの者も、|手下≪てか≫を守るためにはああせざるを得なかったのであろう。責める気など毛頭ない」
羽柴方に寝返った屋代右衛門尉の話になっても、成政の口調は穏やかなままだった。その声音にはむしろ、おのれの不甲斐なさへの悔恨が滲んでいるようにも思えた。
きっとその思いは、今この城にいる郎党たちへのものでもあるのだろう。半三郎は郎党を城下に集めたのは、寝返りを防ぐためと言っていたが、それ以上に暴走を止めるためでもあったはずだ。おそらく羽柴方は戦の口実を作るため、繰り返し挑発を仕掛けてきている。それに乗せられて戦闘になり、無駄に命を散らすことのないよう、乏しい兵糧を吐き出してでも手元に繋ぎ止めているのだ。
「……わかり申した」氏理はそう答えて、再び両手を突いて頭を垂れる。「内蔵助どのも、どうか御身大事に」
成政も同じく、「……忝ない」と礼を返してくる。そうして氏理は顔をわずかに持ち上げると、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、成政の面差しを覗き込む。
「のう内蔵助どの……雪の立山で、いったい何をご覧になりましたか?」
その問いに成政はしばし思案したのち、「いや、何も」と首を振った。
「ただただ寒いばかりにござった。得たものなど何もない。我ながら、愚かなことをしたものよ」
されどその表情は、言葉以上に雄弁に語っていた。この者もきっと見たのだ。氏理ら飛州の民が、冬ごとに見ているものと同じ何かを。




