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浮雲の賦  作者: 神尾 宥人
第一章 浮雲
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(四)

 それからまた時が過ぎ、まだ完癒ではないもののひとまずは出歩けるだけの体力が戻った善十郎は、いよいよ高遠を離れることと決めた。しかし迂闊に動けば、織田の残党狩りの餌食となる。どうしたものかと思案していると、蔦はまた何か含みのありそうな笑みを浮かべて尋ねてきた。

「飯島さまは、山道はお辛くありませんか?」

 これでも、伊那の山里で生まれた田舎侍だ。幼き頃からというもの、あたりの山野を飛び回りながら育ったものだ。

「どうということはない。慣れておる」

「さようでございますか」と、女はまた何やら見透かしたような顔で頷く。「では、案内(あない)はお任せくださいませ。私どもには、私どもの道がございます。それを使えば、人目に付くことなく織田領を出ることもかないましょう」

 透波が国境を越えて移動する際に使う抜け道のようなものか、と善十郎は理解した。おそらく関所などもない、山中の道なき道を往くことになるのであろう。しかし透波とはいえ、この蔦も女子(おなご)である。その足で往ける道であれば、五体満足でなかろうともさほど難儀はすまい。

 そう甘く考えて、善十郎は同意した。向かう先は当然、北しかなかった。深志から大町を抜け、越後の上杉領へと抜ける算段である。しかしいざ国境近くまで来ると、そこで目算が狂った。警備が想像以上に厳重だったためだ。

「織田勢が、魚津城へと攻め入ったようにございます」

 どうやって聞き付けてきたのか、蔦がそう知らせてきた。しかし驚くことでもない。武田を下して勢力を大きく拡大した織田の次なる標的は、当然上杉であろうと想像できたからだ。軍神と謳われた不識庵謙信(ふしきあんけんしん)も今はなく、後継を巡って不毛な争いを続けたこともあって、上杉にもかつての強さはない。遠からず、織田の勢いに呑み込まれるのも明らかだった。

 そしてどうやら、その戦もすでにはじまっているらしい。すると当然、その最前線を抜けることは困難になる。

「ひとまず、越中へ抜けようかと思います」

「越中に?」

「はい。もちろん織田領ではありますが、武田領からも離れていますし、警戒は薄いかと思われます。まさか足元に、武田の残党が潜り込んでいるとは思わぬかと」

 武田の残党、というところで小さく笑みを浮かべながら、蔦は言った。その皮肉は受け流し、善十郎も頷く。右大臣信長より北陸の方面軍を任されているという柴田修理亮(すりのすけ)勝家(かついえ)は、聞くところによれば武田侵攻に関わってはいない。ならば、注意はむしろ上杉の間者のほうへ向いていることだろう。

「わかった、任せる」

「かしこまりました。ところで飯島さま、山道はまことにお辛くありませぬか?」

 と、蔦は以前の問いをまた繰り返してきた。慥かにここまで街道を外れ、ほとんど獣道のようなところを通ってきたが、どうにか付いて行くことはできていた。

「くどいわ。このくらいはどうということもない」

 そう答えると、蔦はまた涼しい顔で頷いた。その安請け合いを、善十郎はすぐに悔やむことになる。

 

 

 そうして八日ののち、善十郎は越中富山城下の外れにある、小さな寺の宿坊へと辿り着いた。そうしてところどころが割れてささくれ立った板の間に倒れ込み、しばらく動くこともできなかった。

「当面の間は、こちらに逗留することといたします。道中、お疲れ様でございました」

 蔦は少しも堪えた様子もなく、玄関の脇に荷を下ろした。その姿だけ見ると、到底長旅を終えたばかりとは思えない。

干飯(ほしい)ばかりで味気なかったことでしょう。今夜はちゃんとしたものをお作りしますので、しばしお待ちください」

 そう言って、まだどこぞへと出かけようとする。善十郎は倒れ伏したまま、呆れたように尋ねた。

「おぬしら透波は……このような道行(みちゆき)を、日々平気でこなしておるのか」

「はい」と女は頷いた。

 それは単なる「山歩き」などでは決してなかった。ただひたすらに山野の奥へと分け入り、垂直にも思える岩場をよじ登ったかと思えば、ひとつ足を踏み外せば奈落へと落ちる崖を伝い、刃の先のような尾根を渡る。そうして鳥も通わぬ高みを越えて、ようやくここまで辿り着いた。道中、幾度も死ぬかと思えた。しまいには生の実感さえも薄れて、まるで意思を持たぬ傀儡(くぐつ)になったように、ただ無心で手足を動かしていた。

「おぬしひとりであれば、どのくらいで越えるのだ?」

「さようですね、雪の降る冬場はさすがに難儀でございますが……夏のこの時期であれば、丸一日ほどあれば」

 その答えに、善十郎はさすがに言葉を失った。そうしてようやく顔だけを向け、化け物でも見るかのように目を眇める

「おぬしは……まことに女子か」

 蔦はまたくすくすと笑いながら、着物の胸元をつまんでわずかに広げる。「慥かめてご覧になりますか?」

 善十郎は逃げるように顔を背け、「……よい」とだけ答える。とてもではないが、今はそのような気力はない。おそらく当分、湧きはしないであろう。

「では私は城下まで出てまいります。夕刻には戻りますゆえ、あまり遠出はなさらぬように」

「ここは……おっても構わぬのか?」

「住持にはたっぷりと銭を渡しましたので、好きに使って構わないかと」

「住持がおるのか。てっきり廃寺かと思っておったが」

「はい。されどおそらく明日まで戻っては来ないかと。懐も暖まって、今宵は酒に溺れるか、あるいは女でも買っていることでしょう」

 坊主といえど、所詮はそのようなものか。呆れながらも、善十郎はほっと息をつく。構わないのであれば、今はとにかく手足を伸ばして休みたかった。

「それでは行ってまいります、飯島さま」

 だらしなく寝そべったままの善十郎にそう声をかけると、蔦は妙に恭しく頭を下げ、外へと出て行った。

 

 

 夜になると、久方ぶりに温かい食事が用意されていた。鍋には味噌を溶いた汁が張られ、ぶつ切りの魚がぐつぐつと煮込まれている。

「見たことがない魚だな。これは何だ?」

「飛び魚だそうです。この時期は網を構えていれば、勝手に中に入ってくるぐらいに多く取れるのだとか」

 魚といえば岩魚や山女といった川魚しか縁がなかった善十郎には、はじめて口にするものだった。考えてみれば、これほど海の近くまで出てきたことなどなかった。

「何でもこのあたりでは、(ぶり)という魚が有名とのことです。ただし季節違いの上、高級ゆえ下々はほとんど口にできないようで」

 ほう、と素っ気なく合いの手を入れながら、魚を口に運んだ。川魚に比べればずいぶんと脂が乗って、なんとも言えぬ濃厚な味が広がる。もっとももう長いこと、干飯や芋茎(いもがら)以外を口にしていなかったのだ。どんなものでも涙が出るほど美味く感じるものであろう。

 そうして箸を動かしているところに、唐突にぽつりと蔦が告げてきた。「伝兵衛さまの行方(ゆきかた)がわかりました」

 思わず手を止めた。それは忘れるわけもない、兄為次の嫡男の名だ。飯島の城ではよく槍の指南もしてやった、善十郎にとっても可愛い甥であった。

「まことか?」

「はい。今は徳川三河守の元におられるとのことです。幸い助命され、井伊兵部なる者の麾下に入られたとか」

「さようか……生きておるのだな」

 蔦が話すところによると、その他四郎勝頼に最後まで従い、ともに討死した土屋道節(どうせつ)昌恒の子らも、その忠義天晴と称えられ、徳川の麾下に招き入れられたという。おそらく伝兵衛も似たような理由であろう。つまりは最後まで武田に殉じた兄の選択が、結果的に伝兵衛と飯島一族を救ったと言える。

 その一方で土壇場で勝頼を裏切り織田方に付いた小山田兵衛尉(ひょうえのじょう)信茂は、許されることなく妻子ともども首を刎ねられたようだ。まことに人の運とは奇異なるものだった。

「それで、どうなさりますか?」と、蔦は尋ねてくる。

「どう、とは?」

「伝兵衛さまの伝手を頼って、三河守さまに助命を乞うという道もありますが?」

 運が良ければそのまま、善十郎も徳川に仕官できるかもしれないということか。もちろんかなうとも限らぬが、こうして逃げ回り続けるよりはいくらかましな選択とも言えた。されど。

「これからまた、山を越えて駿府まで行けと?」善十郎はそうぼやいて、笑いながら首を振る。「今はとてもそのような気分になれぬわ」

「それでよろしいのでございますか?」

「よい。生きてさえいてくれればよい。飯島の家が残るのであれば……それでよいのだ」

 大きくほっと安堵の息を漏らして、善十郎は再び箸を動かしはじめた。重い荷を降ろしたような心地だった。気のせいか、飯も美味くなったようにも思えた。ついつい、口元も緩んでくる。

 ふと気が付くと、そんな善十郎の顔を蔦がまじまじと見つめていた。それだけでなく、どこか不機嫌そうな表情をしていた。

「仕官先を選べる立場でないことはわかっておる。それでもやはり、織田や徳川に頭を垂れる気にはなれぬのよ」

 むろん、伝兵衛が徳川の禄を()むことに文句はない。伝兵衛にはおそらく、それ以外に選べる道がなかったのであろう。あれはあれの道を往けばよい。ただおのれには、それができないだけのことだった。

 別に、武田への忠義があるわけではない。頭を過るのは、ただ兄と金太夫の生き様だった。ここで犬のように敵に尾を振っては、かの者らに顔向けができないような気がしてしまうのだ。

「おぬしは、ひとりで徳川へ行ったらよかろう」

 善十郎が言うと、蔦はまだ不満げに顔を背けた。「何ゆえそのようなことを?」

「かような話を耳に入れてくるということは、おぬしはおぬしで徳川への伝手を、別に持っているということではないのか。ならわしなど(けしか)けずとも、どうとでもなるであろう」

 女は何も答えなかった。そうして無言のまま、善十郎の手から空になった椀を取り、鍋の中の汁を掬う。もちろんそれもこの女の勝手である。何も無理強いする気はなかった。

 ややあってから、蔦は目を合わせぬまま、小声でつぶやくように言った。「伝手など……ありませぬ」

 善十郎はそれ以上は深く詮索せず、「……さようか」とだけ答えた。

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