(二)
首を槍先に引っ掛けて掲げながら、氏綱と兵たちは意気揚々と城内へと戻った。五十の兵たちに欠けた者はなく、大きな傷も負っていない。戦とは往々にしてそうしたものであった。
「よくぞ戻った、備前」
野太い声が聞こえ、喜び勇む兵たちの中からずんぐりとした髭面が進み出てきた。城主である、備中守氏信である。ただし狂騒の中にあって、顔に笑みはなかった。
「ひとまず初手は取った」笑ってなどいられないのは、氏綱とてわかっている。「だが、まだ気は抜けん」
「まあの。さて、次はどう出てくるか」
氏信は低い声で答え、目を上げた。その見やる先には、今も炎が赤々と夜を照らしている。その炎は、氏綱自身が放ったものであった。燃えているのは、かの家老が日頃を過ごしている牧戸屋敷である。
「本当にあれで良かったのか」
「構わぬ。屋敷などまた建てればよい。それにこの手は、二度は使えぬ」
そうであろうな、と氏綱も同意する。奇襲はあくまでも奇襲である。
この城と牧戸屋敷の間は、金堀衆に掘らせた地下坑道で繋がっていた。つまり籠城中でも、それを通って少数の兵を敵の背後へ送り込める。また万一落城の際も、城主の家族を城外へ逃がすこともできる。氏綱ですら此度はじめて聞かされた、向牧戸城の秘中の秘であった。
されどその坑道も、屋敷側の口は焙烙(爆薬)で崩してしまった。その上火を放ったので、灰で埋もれることにもなる。万一敵にその存在を知られてしまえば、逆に城への侵入を許す急所ともなってしまうためだ。ゆえ、使えるのは一度だけであった。
その切り札を、氏綱と氏信は初手で使った。それはこの戦では先手を取ることが何よりも大事と睨んだからでもある。そうして敵を警戒させ、堀代わりの川を挟んでの睨み合いに持ち込む。そのための鬼手であった。
敵は三千。城兵は氏綱の兵を合わせても二百余り。尋常に考えれば勝てる戦ではない。されど、敵方の様子もどこかおかしかった。岩瀬橋で奇襲を受けたことで、少しは警戒しながら攻め寄せてくるものと思いきや、蓋を開けてみればまた芸のない力押し一辺倒である。此方を小勢と舐めているのか、あるいは余程急がねばならぬ理由があるのか。後者であれば、そこに勝機があるように思えた。
鑑みれば、金森も遠藤も柳ヶ瀬では柴田方に付いていた将である。戦後赦免はされたものの、羽柴への忠節を示すために無理を押しても戦に駆り出されることとなった。小牧、長久手、紀州、四国。遠藤は当主の左馬助慶隆が富山にも出兵している。兵たちは疲れ切っているであろうし、また国元の米蔵も逼迫しているはずだった。その上この奥飛騨の山道である。補給線も細く不安定にならざるを得ない。
おそらくは、急いでいるのはそのためだ。関白からの重圧もあろうが、それ以上に兵糧が心許ないに違いない。ならば根比べでは此方に分がある。攻め手を欠いて長期戦ともなれば、いったん兵を引くしかなかろう。
蔦の仕入れた話では、富山の戦はほどなくして終わるという。三河守家康と大納言信雄が内蔵助成政の助命を働きかけており、関白がそれを呑めば成政は降るであろうと。ならばあとは、いかに和睦するかである。それは筆頭家老であるおのれの腕次第だが、この戦を痛み分けにさえ持ち込めば、少しは有利な条件を呑ませることも可能であろう。
なおも威勢よく鬨を上げ続ける兵たちの輪から離れ、氏綱は腰曲輪の先端へと向かった。すると背後の闇が、ゆらりと揺らぐのを感じ取った。
「敵の様子はどうじゃ」
と、氏綱は目を向けずに尋ねる。向けずとも、そこに誰がいるのかはわかっていた。
「残念ながら、大きな動揺は見られません。生き残った慶直の兵たちは、恙なく小八郎|胤直≪たねなお≫の勢に組み入れられた模様」
抑揚のない口調で、蔦は報告をはじめる。それも予想していた答えでもあったので、氏綱も特に落胆はしない。
「むしろ長屋喜三の兵たちが些か泡を食っている様子。御屋敷の周りで、火の手が広がらぬよう手を尽くしているようにございます」
「なるほどの……それも、おぬしの仕入れてきた話通りか」
金森法印と照蓮寺の住持・嘉念坊明心が交わした中立の条件。それが、民には決して手を出さない、略奪や焼働きもしないというものであった。一軒でも焼ければそのときは、照蓮寺が敵に回る。おそらくその言葉を、法印は本気と取ったのであろう。
これより内ヶ島と三木を滅ぼし、飛州の支配を目論むのであれば、人心の安定は不可欠である。そのためには、この地で信心を集めている照蓮寺の協力がどうしても必要なはずであった。さもなくば法印は城を手に入れても、かつての一向一揆と同じ泥沼に直面することとなる。だから城下に火が燃え移ることは避けなければならないのだろう。最初に火を放ったのが此方であっても、それを座視していれば同じことだからだ。
「ならばこれでいくらかは、ときを稼げるかの」
蔦はまだ何か懸念があるのか、表情を変えぬまま「……で、あればいいのですが」と答える。もちろん、氏綱とて楽観はしていない。炎は間もなく、おそらくは夜のうちに鎮まるであろう。そうすれば金森勢は、あらためて城攻めに取り掛かる。次はいくらかは慎重になってくれれば良いが、金森法印も歴戦の戦上手である。そうそう此方の思惑通りに運ぶとも思えない。




