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浮雲の賦  作者: 神尾 宥人
第三章 風雲
36/59

(十八)

 家紋の入っていない胴丸を身に着けると、氏行は善十郎と小太郎のみを従えて上見城を出た。やや日は傾きはじめていたものの、夜になるまではまだ間がありそうであった。

 出がけに半三郎にも声を掛けたが、かの者には同行を断られてしまった。どうやら軍勢を目にするよりも、太左衛門から拝借した兵法書のほうが今は興味があるようだった。ただ去り際に善十郎へ、若殿を頼むとでも言いたげな目を向けてきた。これから氏行が何を見ることになるのか、薄々と察しているらしかった。

 砺波は越中の中では山間部と呼ばれているが、飛州の険しい山に慣れている者にはどうということのない道行であった。そうして街道の手前で馬を降り、手近な木に繋ぐと、あとは鬱蒼とした雑木林の斜面を下ってゆく。

「遅いぞ、小太郎。このくらいの山道で疲れるおぬしでもあるまい」

 氏行はそう小太郎を揶揄いながら、ひとりずんずんと先を進んで行く。善十郎はやれやれと思いながら、声を抑えて呼びかけた。

「若殿、もう少し声を抑えてくだされ。どこに間者がおるかわからぬゆえ」

「そうか、そうであったな」

 と、思い出したように氏行は声をひそめた。されど足取りは緩めず、軽やかに木々を縫いながら進んで行く。

 そうして視界が開け、街道を見下ろす崖の上に出る。遠くに海が望め、赤らみはじめた夕空との境はぼんやりと霞んでいた。

 善十郎はそっと氏行の肩を支え、目につかぬよう灌木の陰へと誘った。そうして目を落とし、眼下に伸びる街道を眺め渡す。なるほど先の物見の知らせにあった通り、そこにはすでに羽柴勢が進軍中であった。

「やあ……旗先物(はたさしもの)から察するに、あれは丹羽五郎左(ごろうざ)どのの軍勢でござるな。流石は百二十万石、壮観にござりまする」

 ずらりと並んだ騎馬の両側を、槍を構えた徒士が二重に護っている。よく統制がとれているようで、真新しい鞘に納められた槍先は綺麗に一列に並んでいる。それに鉄砲隊、弓隊、荷駄が続き、行列ははるか霞む先まで伸びていた。いったいどれほどの数なのか。万、あるいは二万。

「鉄砲だけで二千から三千と言ったところでしょうか。これは堪りませんなぁ」

 なおものんびりした声で、善十郎は言う。しかも、これは数多の中の一隊に過ぎぬのだ。関白太政大臣秀吉、その力のほんの一端でしかない。

 氏行は潅木の陰に身を屈めたまま、ぽかんと口を開いてそれを見ている。その横顔に先ほどまでの浮き浮きとした表情はすでになく、見る見るうちに血の気が引いてゆくのがわかった。やがて紫色になった唇をわなわなと震わせながら、ぺたんと尻から座り込んでしまう。ただの勇ましき言葉でしかなかった「万余の敵」が、目に見える形となってそこにあるのだ。それでようやく、おのれが立ち向かおうとしている相手がどのようなものか認識したらしかった。

「……何だ」と、かすれた声でつぶやく。「何なのだ、あれは」

「我らの敵にござりまする」と、善十郎がこともなげに答えた。

「それはわかっておる。わかっておるが……何だ。我らはあれと、戦うのか」

「さよう。尤も、あれでもまだほんの一部に過ぎませぬ。聞くところによれば関白は此度の戰、総勢十万にも上る兵を動員させておるとか」

 小太郎を見れば、やはり同じように呆然とした顔で立ち尽くしている。眼下の敵のあまりの威容に、完全に呑まれてしまっているようであった。

「善十郎……おぬしはあれと戦えと言われれば、行くのか」

「さようですな。若殿の下知さえあれば、行きまする。某は若殿の兵にござりますゆえ」

 氏行が手を伸ばしてきて、善十郎の草摺の端を掴んだ。まるで飛び出してゆくのを引き留めようとするかの如くに、強く。

「それでは……死んでしまうではないか」

「さようですなぁ」と、善十郎は繰り返す。「まず、生きては帰れますまい。されどそれが命であれば行きまする。兵とは、そういうものにござります」

「駄目だ……我に、そんな命が下せるわけがない」まるで童が駄々を捏ねるように、氏行はかぶりを振る。「善十郎……死ぬな。死んじゃ嫌だ……」

 善十郎はその若者の肩に手を置き、言い聞かせるように語りかけた。

「聞き分けのないことを申されますな。若殿は将にござります。|愛≪かな≫しき者にも死せよと命ずるのが、将というもの」

 武者たちの行列は、なおも途切れることなく進み続けている。無数の具足が擦れる音が、まるで地揺れのように重く、低く響いてきていた。

「戻りますか」

 善十郎はそう呼びかけた。されど氏行はまだ座り込んだまま、なかなかそこを動こうとはしなかった。

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