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浮雲の賦  作者: 神尾 宥人
第三章 風雲
35/59

(十七)

 八月に入り、関白秀吉の軍勢が京を発ったと知らせがあってから数日が過ぎた。されど内ヶ島勢はいまだ、栃波に留め置かれたままだった。

 氏行は半三郎と善十郎を伴って帷幕に入ると、まるで食ってかかるかのように父親へと詰め寄った。

「内蔵助どのから、入城の下知はまだでござるか!」

 氏理はまたそれかと言わんばかりに、うんざりとした顔で首を振った。その応えに、氏行はなおも激昂する。

「何故でございますか。よもやとは思いますが、内蔵助どのは我らを疑っておられるのか!」

 半三郎が若殿の肩に手を置き、落ち着くように促す。「そうではありませぬ、若殿。むしろ逆でございましょう」

「逆?」と、今度は半三郎を睨みつける。「何を申しておる。逆とはどういうことじゃ!」

「半三郎の申す通りじゃ。落ち着け、孫次郎」

 氏理は読んでいた書状を脇に置き、ようやく口を開いた。そうしてちらりと善十郎の方を見やってくる。おぬしが付いていながら何だ、とでも言いたげに。とはいえ、こちらも主である若殿をそう無碍にもできぬ。それが困るのであれば、説明ぐらいはしてやればいい。

「先頃、氷見(ひみ)城の屋代右衛門尉(うえもんのじょう)どのが前田方に寝返りました。以来内蔵助どのは諸将を城に集め、徹底して守りに入っております」

「……それがどうしたというのだ」

 屋代右衛門尉|武勝≪たけかつ≫は、成政にとっては富山移封以来の寵臣である。武勇に優れ信望も高く、それゆえ重要拠点である氷見城の守りを任されていた。その右衛門尉の裏切りが、佐々方に少なからぬ衝撃を与えたことは想像に難くない。

「わかりませぬか。いま城に詰めておる者たちは、信じられぬゆえに集められたのです。これ以上、櫛の歯が抜けることのないように」

 氏行は「……むう」と唸るように言って黙り込む。そこへ善十郎が、のんびりした口調で横槍を入れた。

「城に入ってしまえば、帰雲よりの知らせも届き難くなりましょう。外の様子もわからず、一層苛立たしい思いをすることになるやもしれませぬ。実際、城に詰めている牢人どもも気が立っておるようで、毎日つまらぬ喧嘩が絶えぬとのこと。それに巻き込まれるのも堪りませぬな」

 ようやく氏行も得心したようで、ひとつ大きく息を吐き、いからせていた肩を落とした。そうして少しは落ち着きを取り戻した声で尋ねる。「それで、備前からの書状には何と?」

「赤谷に攻め寄せた金森勢は、成瀬橋で追い返したらしい。ただ、あくまでも緒戦よ。備前もそれはわかっておる」

 氏綱を信用してはいても、やはり心配ではあったらしい。氏行は安堵したように表情を緩めた。氏理もそれを見て小さく笑い、「話はそれだけか?」と訊く。

「そうであった……父上。どうか我を、物見に出していただけませぬか」

「物見とな?」と、氏理の表情がすぐに訝しげに曇る。「いったい何を申しておる?」

「関白が軍勢にござります。すでに何日も前に京を発ち、間もなくこちらにやって来るとのこと。我らがこれより戦う相手がどのようなものか、この目にて慥かめとうございます」

 また妙なことを言いだしおってとばかりに、氏理は小さくため息をついた。おそらくまだ戦というものを甘く見て、高揚感に酔っているのであろう。若武者とはそういうものにございます。善十郎は目だけで伝え、そっと頷きかけた。

 そうして氏理はしばし思案したのち、また善十郎に目を向けて言った。

「目につかぬよう、気を配ってやってくれぬか?」

「畏まりました」と、善十郎は頭を下げた。了解を貰えたというのがわかったのであろう、氏行は嬉しそうに笑い、父親に礼を言った。

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