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浮雲の賦  作者: 神尾 宥人
第三章 風雲
32/59

(十四)

「そこまでにしてくだされ」

 不意に聞こえた声に、老僧は再び錫杖を振り上げた手を止めた。目を向けると兵が割れ、僧形の武者が跨った馬が近付いてくる。法衣の上から着けた胴丸には、裏梅鉢(うらうめばち)の家紋。その素性は誰何するまでもなかった。

 金森法印素玄。かつての名を五郎八長近(ごろはちながちか)という。土岐氏の家臣の子として美濃に生まれ、父・定近が主家の後継者争いに敗れたためいったんは近江に逃れたが、その後十八にして織田弾正忠信秀に仕える。その後は代を継いだ信長の元、美濃攻略で功を挙げ、赤母衣衆として取り立てられた。さらには設楽原の合戦における鳶ヶ巣山攻略、越前一向一揆征伐などで武功を重ね、越前大野城主に任ぜられるとともに、従四位下・兵部大輔の宣下を受ける。されど本能寺の変ののち、柳ケ瀬の戦に於いては柴田方に与して破れ、剃髪して出家することで本領を安堵された。以来、法印素玄と号している。

 さような歴戦の将も、齢はすでに六十二。それでもいまだ矍鑠(かくしゃく)として、漲るほどの覇気を身に纏っている。得体の知れぬ怪僧に呑まれていないのは、この場においてただひとりであった。

「名をお聞きしてもよろしいか、御坊」

 老僧はまた「ほっ、ほう」と鳥のように笑い、馬上の武者に向き直って言った。

「中野照蓮寺住持、嘉念坊明心(みょうしん)

 その名乗りに、法印は「……まさか」と目を瞠った。知らぬ名ではない。嘉念坊明心と言わば、中野照蓮寺中興の祖とも称される名僧であるからだ。

 照蓮寺はかつて内ヶ島家と激しく争い、十二代住持・明教(みょうきょう)と還俗した兄・三島将監が上総介雅氏(まさうじ)に討たれたことで、一度は跡形もなく滅んだ。されど当時まだ赤子であった明教が子は、母親の手によって辛うじて加賀へと逃れたという。その赤子は長じたのちに嘉念坊明心を名乗り、父を滅した内ヶ島家に仇為すがため白川へと舞い戻った。されどその状況を憂慮した本願寺法主・蓮如(れんにょ)が仲立し、明心が雅氏の娘を娶ることによって両者は和解する。そうして照蓮寺は中野の地に再建され、瞬く間に飛州最大の宗教勢力となったという。

 されどその明心もとうに身罷り、以後代を重ねて今の住持・明了に至っていると聞いていた。もしも存命であったとしても、齢は九十を過ぎているはずである。

「何を幽霊でも見たかのような顔をしておる。この通り生きておるわ。まあこの老体ゆえ表向きは身罷ったことにして、奥の院にて楽隠居をさせてもらっておるがの」

「されど……ならば、何ゆえこうして我らの前に?」

「言うまでもなかろう。ここから先は我らの土地。荒らさんとするならば捨て置けぬ」

 案内役の言によれば、このまま進めば照蓮寺が伽藍を構える地のほど近くに出る。それは見過ごせぬと、わざわざ奥の院を出て待ち構えていたということか。

「されど我らも、御身らに刃を向けるつもりはござらん。その旨は先日使者を送って伝えたはずでござるが」

「そう言えば、来ておったらしいの……石徹白彦右衛門とか言うたか。つまらぬ条件をあれこれ付けおって、明了のやつに追い返されておったわ」

 寺社領への不可侵と引き換えに、兵糧と火薬の原料となる硝石の供出を求めた交渉は、明心のところに上げられるまでもなく決裂していた。それは不可侵とは名ばかり、事実上の恭順を意味するものであったゆえだ。

「それに口ばかりの約定など当てにならん。乱世じゃなんじゃと御託をつけて、親であろうと子であろうと、平気で裏切るのがおぬしらであろう」

「なるほど。だとすればどうするおつもりか。御坊おひとりで、この千五百の兵を止めるとでも?」

「ふむ、さすがに千五百、ひとり残らずというのは骨が折れるの」

 明心はそれでもなお、笑みを消さずに続けた。

「されど大将であるおぬしの首を取るだけなら、さほどの手間でもないわ」

 あっけらかんと放たれたそのひと言に、周囲の兵たちがまた色めき立った。されど法印はすぐにそれを手で制し、一歩だけ馬を進める。

「仏に仕える身で、殺生を口になさるか」

「むろん、本意ではないがの。されど多くの門徒、さらには仏に帰依する民が為なら止むを得まい。またすでに畜生道を歩むおぬしらに引導を渡してやるのも、坊主の役目のうちよ」

 侮っているわけではない。中野照蓮寺がかつて一向宗門のひとつとして名うての武闘派であったことは、この法印も耳にしていた。さらに嘉念坊明心といえばまさに名僧にして怪僧、齢十三のときに念仏を唱えて池の水を割り、道を作ったという逸話さえある、並外れた法力の持ち主とも言われている。その伝説がまことなら、今ここでおのれを滅することなど容易いことに違いなかった。

「やはり、お身内である内ヶ島を守りたいということでござるか」

 法印がそう問うと、老僧は心外そうに「……はっ」と鼻を鳴らした。

「さようなことは言うておらぬわ。あれも所詮は畜生よ。畜生同士であれば好きに喰らい合うがよい」

 先述した通り、明心の室は内ヶ島の女であり、現在の当主・氏理は甥にあたる。されど同時に内ヶ島家はこの者にとって、父・明教を殺した仇でもあった。血縁といえど、必ずしも守らねばならぬわけでもないということか。

「されど、民に害を及ぼすなら捨て置けぬ。この地に住まい、仏に帰依する者たちは、すべてはらからも同然。この身をもってしても護らねばならぬ」

 このまま進んで庄川に出れば、対岸には内ヶ島が砦を築いているという知らせも入っていた。そこで戦にでもなれば、寺や周辺の集落も巻き添えとなることもあり得る。

「民には極力、害を及ぼさぬよう触れを出そう。それも、ただの口約束と嗤うであろうが……」

「そうよの。おぬしらはみな、口先では殊勝なことばかり並べおる。されど、それを守ったためしがあるのかの」

 そう、たとえ兵たちにそう命じたところで意味はない。何しろこれは戦なのだ。生き死にがかかれば、人は他の者になど気を配ってなどいられない。ことによっては女子供を盾にしてでも生き残ろうとするのが、人というものである。つまりは元より、この明心の求めるところは無理難題なのだ。

 とはいえ、法印にもある読みがあった。ただ金森勢を止めるだけなら、明心もわざわざこうして出て来などすまい。まことに出来るのであれば、四の五のと言わずに問答無用でこの首を獲れば良いのだ。ならばかような形で姿を見せたのも、何かしらの思惑あってのことだ。

「御坊よ。我らはまことに照蓮寺、またこの飛州という土地と、ことを構えるつもりはないのだ。いかにすれば折り合えるかの」

「そうよの……」

 と、明心は思案する振りをする。どうせこころの裡では、すでに要求は決まっているのであろう。まったく食えない坊主である。

「おぬしらは内ヶ島と三木を滅ぼしたのち、拠はいずこに定めるつもりかの。高堂(こうどう)か、あるいは鍋山(なべやま)か」

「おそらくは鍋山であろう」と、法印は答えた。それは出陣の前に定まっていることであった。「我らの役目は飛州を抑え、南から富山に睨みを効かせること。そのためにはやはり、高堂より鍋山が相応しい」

「なるほど。ではその城下に土地を確保し、照蓮寺の別院を建てよ」

 明心はさような厚かましいことを、いともあっさりと口にした。まるで命じるかのように。されどもう、それに色めき立つような者もいなかった。誰もがこのふたりの法師のあからさまな密議を、ただ固唾を呑んで見つめているだけであった。

「白川も悪くはないが、こう長いとさすがに飽いたのでな。そろそろ違う眺めも愉しみたいものよ」

「我がそれを呑んだとして、やはり口ばかりの約定でしかないが……御坊は構わぬのか?」

「構わぬ。約定を違えたときは、ただわしらが敵となるだけよ。各地で上がる火の手に、おぬしらは佐々どころではなくなる。それでよいなら、違えるが良いぞ」

 今度は法印が「……ふむ」と思案する。もちろん、呑むしかないことはわかっていた。明心の言はただ脅しばかりではない。門徒衆との血で血を洗う抗争の記憶は、今も記憶に生々しく残っている。どれほどの将、どれほどの家が、その嵐に呑み込まれて消えたことか。それを思えば、新しき城下に土地を用意するくらいは安いものであった。むしろ目の届くところに拠があるほうが、今後のためにもいい。

「異存はない。ただ、脅しに屈したようで外聞は悪いがの」

「外聞など、いくらでも取り繕えば良いことよ。そうよの……ここで行き合ったおぬしが、わしに祝詞(のりと)を唱えさせ、出来に感じ入ったとでもいうことにすればどうかの?」

 そう言って、老僧はまたほっほうと笑った。しかしその笑みもすぐに消え、また爛と目を光らせる。

「ただし重ねて申すが、民には決して手を出すでないぞ。略奪はもちろん、焼き働きもなしじゃ。一軒でも焼いたが最後、すべて御破算よ」

「同意」と、法印は頷く。どうやらこれにて、折り合いは着いたということらしかった。

「ならばわしらは、一切関わり合わん。畜生は畜生同士、存分に喰らい合うがよい」

「まことに、それでよいのか。お身内の内ヶ島を、我らが滅ぼすこととなっても?」

「それは先も申した。あれのことは幼き頃より知っておるが、またひとつの畜生に過ぎぬ。それが定めと心得ておろう」

 そして一陣の風が吹き、舞い上がる土埃に顔を背けたその刹那、老僧の姿は霧のようにかき消えていた。兵たちはただ、狐に摘ままれたかのように立ち尽くす。その中を、法体の大将だけが何事もなかったかのように馬首を返し、後方へと下がっていった。

 

 

 眼下を、再び鎧武者たちがゆっくりと行軍してゆく。篠野は樹上を静かに移動しながら、その動きを追っていた。

 素性が不明であった案内役のひとりが、かつて三木に滅ぼされた牛丸家の嫡男・又右衛門親綱であることはどうにか判明した。されど、残るひとりがいまだ明らかならず。いずれ飛州に縁のある牢人者であることは慥かであろうが、それを突き止めぬままでは戻るに戻れなかった。

「……そこな乱破よ」

 そのとき、不意に声が聞こえた。間違いなく、先ほどまで法印と対峙していた明心のものだった。篠野ははっとして振り返ったが、あたりには誰の姿もない。されど声は慥かに、まるで耳元で囁くかのように聞こえていた。

「どこを見ておる。わしはここじゃ」

 はっとして目を戻そうとしたとき、首筋に冷たい手が触れた。とても生ある者とは思えない、氷のように冷たい手。指。されどしっかりと、おのれの首を包むように掴んでいる。それだけで、篠野はもはや身動ぎすらできなくなっていた。わずか一毛でも動けば、その首を捻り折られることがわかっていたからだった。

「戻って夜叉熊(やしゃぐま)に伝えるがよい。我らは援けもせぬし、攻めもせぬと」

 夜叉熊とは、氏理の幼名である。たとえ家督を継いで当主となり数十年がたった今でも、おのれから見れば童も同然と言いたいのか。

「はてさて……この窮地、どう乗り切るか。楽しみに見物させてもらうぞ」

 触れていた冷たい手が離れ、気配が遠ざかって行った。やがてあたりの空気も緩み、身の自由を取り戻した篠野は力なく膝を折り、樹上に蹲った。

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