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浮雲の賦  作者: 神尾 宥人
第三章 風雲
30/59

(十二)

 尾上備前守氏綱はその夜も、奥の間にてただ静かに書を読み耽っていた。それゆえ、屋敷の者たちにも不安は与えていない。戦はすでに近くまで迫っていて、帰雲には百にも満たない守勢しかおらぬのに、その泰然とした佇まいのお陰で誰もが安堵し、変わらぬ日々の営みを送っている。

 されど氏綱の内心は千々に乱れ、ひりつくような焦りを覚えていた。一日と空けずに情勢を伝えるように命じてあった、越前大野に送り込んだ間者たちの密書が、すでに三日途絶えているためであった。

 金森法印が動くことは間違いない。ただしそれがいつか。兵の数はどのくらいか。そして何より肝要なのは、軍勢はどの経路を通り向かってくるのか。それがわからねば、対処のしようがないのだ。迂闊に見込みで動いて、裏をかかれてしまえば命取りになる。

 隣室の気配も探り、誰もいないことを慥かめてのち、氏綱はそっと深いため息をついた。焦燥が息となって喉を焼くようにさえ思える。するとそのとき、部屋の中に何者かがいることに気が付いてはっとした。気配など、何もなかった。まるでおのれの影の中から不意に浮き出てきたようでさえあった。

 そこにいたのは女だった。そして、知らぬ顔でもない。

「不躾な真似をお許しください、尾上さま」

「そなたは……善十郎の?」

「蔦にございます。今宵は尾上さまに火急の知らせゆえ、失礼を承知で罷り越しました」

 蔦はそう言うと、ゆらりと揺れるように平伏した。その姿はどうしても実体があるように思えず、まるで夢でも見ているかのような心地になる。

「火急の知らせ、とな」氏綱は眉を険しく寄せた。「申せ」

「金森法印、越前大野を出陣との由。兵は千五百。大野より石徹白(いとしろ)を通り、中州宿を越えて尾上郷へ下って来るものと思われまする」

「石徹白から中州、だと。修験者でもあるまいに」

 俄には信じられぬ知らせであった。想定していた経路より、さらに北寄りである。それこそ修験者が通る険しい尾根筋であったが、慥かに大野から白川郷への最短の経路でもあった。そこを千五百もの兵を率いて通るとは。

「案内役は江馬右馬亮(うまのすけ)、鍋山左近太夫、石徹白彦右衛門。他、野盗上がりと思われる者数名。何れも、飛州の山々を知り尽くしている者たちにございます。その先導があれば、決してできぬことでもないかと」

「こちらには何の知らせも来ておらぬが……」

「出陣に先立ち、大野城下では徹底した間者狩りが行われたとの由。都合、十七にも及ぶ首が晒されたとか。尾上さまが送り込んだ者も、おそらくはその中に」

 氏綱はむう、と小さく唸って黙り込んだ。もちろんそれも、毎日送られてきていた密書が途絶えた時点で覚悟していたことだ。

「信じられぬ。だが……おぬしの言とあらば信じるより他あるまいな」

 蔦はその言葉に、ふっと冷たい笑みを浮かべた。

「そういえば尾上さまは、はじめてお会いした際にはもう、私の素性にお気付きでいらっしゃいましたね」

 富山で飯島善十郎に面会し、かの者が武田の残党であることを見抜いた際、この女は手拭いの下で暗器を構えていた。されど殺気はまったく感じず、それでいて肌が粟立つような怖気も覚えた。おそらくこの女はいざとなれば何の躊躇いもなく、まるで魚を捌くが如く無感動におのれを骸とするであろうと、そしておのれには抗うこともできぬであろうことがわかったからであった。これまで使役してきた忍びどもとは比べものにならぬ腕。これが武田忍びか、とひそかに震え上がったものであった。

 それほどの者が仕入れてきた知らせである。もはや疑う余地もなかった。それに何故であろうか、氏綱は嬉しくもあったのだ。得体が知れぬとひそかに警戒していたこの女もまた、同じ内ヶ島の者であったことが。

「誰かあるか!」

 氏綱は立ち上がり、襖を勢いよく開いた。すぐに現れた従者に、城へ遣いを出すように伝える。

「出陣じゃ。半刻で戦支度を済ませるよう、左門に伝えよ!」

 従者は「はっ!」と待ちわびたように答え、すぐに走り去って行った。そうして氏綱は蔦を振り返り、やや遠慮がちに尋ねる。

「おぬしも来てくれるな?」

「命とあらば、どこへなりと」

「女子を戦に連れ出すのだ、命じることはできぬ。ゆえに頼む。わしを援けてはくれぬか」

 蔦はその言葉に、またふっと笑みを漏らした。それは呆れたようでもあり、またどこか嬉しそうでもあった。

「まこと……殿方というものは」

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