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浮雲の賦  作者: 神尾 宥人
第三章 風雲
27/59

(九)

 屋敷をあとにすると、蔦はすぐには庵には戻らず、あまり活気のない城下をあてもなくぶらぶらと歩いた。やがて集落のはずれまで来ると、裏山の斜面を上り小高い頂に立つ。そうして、小さな谷間をぐるりと見回した。

 さて、旦那さま。誰にも聞こえないのは承知で、そう小声で語りかける。残念ですが、あなたさまは富山では死ねませぬぞ、と。

 富山城の内蔵助成政の様子については、逐一耳に入っていた。浜松より戻ったのちの成政は、兵をすべて城内へ引かせ、目立った動きは見せていない。浜松での交渉が頓挫したことでついに諦観したのか、あるいは厳冬の立山越えで何かを悟りでもしたのか、その性分は人が変わったように穏やかになったという。家臣たちに細やかに気を配り、羽柴方に寝返った者たちへも理解を示し、庶務を終えると静かに写経に勤しむ日々を送っているのだとか。

 むろんいまだ羽柴への恭順の姿勢は見せていないが、その様子を鑑みるに、内心ではすでに降伏の意志を固めているのではないかと思われた。たとえ屈辱的な条件を受け入れ、領地のほとんどを手放すことになったとしても仕方ないと。今はそのための根回しを行いながら、時宜を探っている段階なのであろう。おそらくは、戦にもなりはすまい。

 むしろその前に、この地こそが死地となる。蔦は情勢をそう読んでいた。敵は金森法印。飛州を押さえ、富山城を南からも脅かせという関白秀吉の下知は、すでに下されていると聞いている。戦の支度が整い次第、大野を発って侵攻を開始するであろう。帰雲を発った兵たちは蜻蛉返りして、それを迎え撃つこととなるのだが、はたして間に合うのかどうか。間に合わねば、それまで備前守氏綱と百足らずの兵で持ち堪えねばならない。

 背後で、かすかに木の葉が擦れる音がした。振り返るまでもなく、誰が来たのかはわかっていた。

「早いの、篠野」

「甚太郎さまのお呼びとあらば」

 もう「その名では呼ぶな」とは言わなかった。またしてもおのれは、その名に戻らねばならなくなったゆえ。

「房はどうしておる?」

「今も郡上におりまする。すぐにも戻るよう使いは出しておりますが」

「それはよい。郡上におるなら、そのまま左馬助の動きを探らせよ」

 柳ケ瀬の戦で柴田修理に与し、戦後秀吉に恭順して赦された遠藤左馬助慶隆は、その後は羽柴に対して過剰なまでの追従をみせるようになる。そうしてかの長久手の戦では無謀な三河中入り勢に加わって敗走し、遠藤弥九郎や日置主計(かずえ)といった長年の寵臣の多くを失うこととなった。さらにその後も無理をおして紀州征伐に加わっており、その上飛州攻めの軍勢を出せる余力があるかは微妙である。されど、決して警戒を緩めることもできぬ相手であった。

「となると、こちらのほうの手が回りませぬ。このところ、城下に潜り込んでくる間者がとみに増えました。見付け次第刈ってはおるのですが、さすがにすべてというわけにもいかず……」

「わかっておる」と、蔦は労わるように言って、首を振った。おそらくは金森の手の者であろう。

「こちらはもうよい。探りたければ、好きに探らせてやれ。それよりも、おぬしも大野へ向かってはくれぬか」

「大野へ……」はっと、篠野は顔を上げた。

「さよう、間者が増えたは戦が近い証。近いうちに、法印は必ず兵を出してこよう。その兆候が見えたなら、即座に伝えよ」

「畏まりました。あとは」

「この山道は慣れぬ者には隘路(あいろ)、ゆえに案内人(あないにん)が必要なはず。その素性も探るのじゃ」

 短く「……はっ」と頷くと、篠野は煙のように姿を消した。蔦はまた、眼下に広がる風景へと目を戻す。

 鋭角に突き出した屋根が並び、煮炊きをしているのであろう湯気や煙があちこち細くたなびいている。その向こうの山肌は鬱蒼とした木々で覆われ、傾きかけた陽光がその緑を鮮やかに照らし出している。もう少しすれば葉は色付き、一面が燃えるような赤に包まれるであろう。

 そのとき、おのれはどう思うのか。それを美しいと感じるのだろうか。さような風情など、もうとっくに失ってしまっていたはずだった。されど、もしかしたらという期待も胸の中にある。おのれの中にももしかしたら、そうしたこころがまだ残っているのかもしれない、という仄かな期待が。

 それを慥かめるためには、この地を守るしかなかった。何としても守り抜き、晴れて紅葉の季節をこの場所にて迎えるのだ。

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