(八)
すっかり顔馴染みになった門番と軽く会釈を交わし、蔦は帰雲屋敷の奥へと向かって行った。すると裏庭のほうから、わっと賑やかな声が聞こえてくる。ふふっと小さく笑い、その声のほうへと足を向けた。
すると広い裏庭の隅のほうで、ちょっとした人だかりができていた。善十郎が槍を教えている馬廻の若衆が泥だらけになって蹲り、それを女衆が輪になって囲んでいる。中心にいるのは他でもない、「お方さま」こと阿通の方であった。
「何ごとでございますか?」
そう声をかけると、阿通の方が嬉しそうに顔をほころばせた。「おお、蔦ではないか。見よ、この立派な芋を」
言われて覗き込むと、深く掘った穴の底から若衆が顔を出し、ちょうど掘り起こしたばかりの自然薯を頭上に掲げてみせる。なるほど立派に育ったもので、五、六尺ばかりの長さはありそうだった。
「去年の今頃にな、この裏庭の隅を借りて、種芋を植えておいたのよ。それがここまで大きくなりおった。我らだけでは到底掘り起こすことなどできなかったわ」
「……いえ」と、若衆のひとりが顔の泥を拭いながら言った。「お方さまには、いつも良くしていただいておりますゆえ。ご恩返しにございます」
「何を言う。今宵はおぬしらにも馳走してやるゆえ、楽しみにしておるがいい。何せおぬしらは、間もなく戦じゃ。たっぷりと精を付けねばの」
そんな何か含みのある言葉に、女衆がどこか下卑た笑い声を上げた。まだ十四、五と見える若衆たちが、耳を赤くして俯く。
どの顔にも、これからはじまる戦への不安は見られなかった。むしろ何やら大きな祭りの前のような、浮かれた空気が漂っている。もちろんそれはこの阿通の方が、意図して作り出した空気であった。大したものだ、と蔦は正直に感心する。
「ところでお方さま、お忙しいところを相済みませんが」
そう小声で呼びかけた。すると阿通の方も何かを読み取ってくれたのか、「……ふむ」と小さく頷いて、先に屋敷のほうへと戻ってゆく。そうして裏庭を望む縁にふたりで座り、向かい合った。
「何やら、大事な話のようよの」
「はい」と、蔦は深く頭を下げた。「篠野と房のふたりを、しばらく私にお貸しいただきたく存じます」
「篠野と房を、のう……」
ふたりとも、この屋敷で阿通の方の侍女を務めている女衆である。また蔦にとっては、武田にいた頃より旧知の者たちでもあった。主を失ったのちは歩き巫女をして食い繋いでいたふたりと再会したかの女は、ふたりを帰雲にとどめ、おのれの手下としていた。そうしてこの阿通の方の協力を得て、屋敷で下女として働かせながら、ときおり近隣の諸国に送り込んで動向を探らせていたのである。特に郡上の遠藤家はこのお方さまにとっても因縁の相手だけに、入念にその様子を調べ、逐一報告していた。
「構わぬぞ。元は、おぬしが連れてきた者たちじゃ。良き者たちを紹介してくれたと、感謝しておった」
「事と次第によっては、お返しすること能わぬやもしれませぬが……そのときは、どうかお許しくださいませ」
蔦のその言葉にも、阿通の方は表情を変えなかった。ただ手を伸ばし、こちらのそれにそっと重ねただけだった。
「それは、おぬしも帰らぬやもしれぬということか」
「事と、次第によりましては」
蔦はその言葉を繰り返した。今はまだ、それだけしか言えなかった。
「何の為の覚悟ぞ?」
「それはもちろん、お家の為」
「偽りを申すな」そう言って、阿通の方はくすりと笑った。「男であろう?」
その問いには、答えを返すことができなかった。しかしそれは、首肯したも同じであった。
「愚かなことよ。男なぞ、どれほど尽くしたところで何も返してはくれぬぞ?」
「よく、存じております」
そう答えると、重ねていた手がゆっくりと離れて行った。そうして、阿通の方は静かに立ち上がる。
「無事に戻ること、祈っておるぞ」
おのれが無事に戻るということは、この屋敷も、またこの女性もまた無事で済むということでもあった。そうなればいいと考えているおのれに気付き、蔦は顔に出さずに驚いていた。
この地に来てからこのかた、次第に内ヶ島という家に溶け込んでゆく善十郎とは違い、一線を画して深入りはしないよう努めてきたつもりであった。おのれはただ、あの「旦那さま」がどのように生きてゆくのかを、近くで窺っていられればよかったからだ。一度失った死に場所を探し求め、得られず、そして失望するさまを眺めて、おのが心の慰めにさえできればよかった。されどいつしか、おのれもまたこの地で少しずつ変わりつつあるのか。とっくに凍り付いてしまったと思っていたこころが、気付かぬうちに動きはじめているのであろうか、と。




