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浮雲の賦  作者: 神尾 宥人
第三章 風雲
25/59

(七)

 主君の決定が知れ渡ってなお、家中に混乱はなかった。おそらく皆心情的には氏理と同じく、成政に対して同情的だったのであろう。意見が割れていた若者たちも、いざ戦うとなると異論を口にすることもなく、心を一にして士気を高めていた。されどそこに、あの高遠城の兵たちのような悲壮感は感じられない。その様は、ただ劣勢の将に義によって合力するという、英雄的な行為に酔っているだけにも見えた。

 だが、今はそれでいい。善十郎はそう思っていた。兵がここで右往左往して、民の逃散でもはじまってしまえば、戦にすらならずにこの地は荒れ果ててしまう。だったら今はまだ、お目出度いくらいでいいのだ。

 それにしても……と、頭上に広がる夏の空を見上げて思う。この地に来て思いの外安穏とした日々を過ごしながら、天はいったいどうしておのれを生かしたのかと、折りに触れては考えてきた。されど、今に至ってようやく得心した。おそらく此度の戦は死地となろう。ならばきっと、おのれはこのときのために導かれたのだ。

 この地に来て、おのれが鍛えてきた若者たちの顔を思い浮かべる。できることであれば、誰も死なせたくはなかった。死なぬために鍛えてはきたが、正直まだまだ心許ない。ならば、おのれが盾になるしかなかった。

 さらに、主君である兵庫頭氏理。おのれをここに招いた備前守氏綱。かの者らを守るためであれば、心置きなく命も捨てられる気がした。死に損ないのおのれにとって、過ぎたる最期とさえ言える。この三年間の安穏な日々が、そんな愛着を抱かせるためにあったのならば、天もなかなか気の利いたことをしてくれるものだ。

 そんなことを考えながら庵に戻ると、いつもはせわしなく何かしらの小働きをしている蔦が、居住まいを正して囲炉裏の前に座っていた。そうして善十郎の姿を認めると、妙に恭しく平伏して迎える。

「お帰りなさいませ。今日もお務め、ご苦労さまでございます」

 逃げるわけにもいかず、その前に座った。女はゆっくりと顔を上げ、真っすぐに見つめて続ける。口元には、いつもの揶揄うような笑みを浮かべたまま。

「それで旦那さま、私に何か申すことがあるのではないですか?」

 善十郎は「……うむ」と唸ると、わずかな思案ののちに答えた。

「間もなく、富山へと出陣することに決まった。わしは寄騎(よりき)として、若殿孫次郎さまをお護りすることとなる」

「さようでございますか」と、蔦は小さく頷いた。形ばかりは恭しげだが、どこかぞんざいにも見える。さようなことは訊いていない、とでも言わんばかりだ。

「それで、おぬしはどうする」

「どうする、とおっしゃいますと?」

「おぬしはおぬしで好きにするがよい。わしに同道するなり、あるいはここを捨てて何処かへ行くなり。いずれもおぬしの勝手じゃ。どうする?」

 女はその言葉にも興醒めした様子で、わずかに小首を傾げて思案する振りをする。ややあってまた空々しい顔でひとつ頷き、答えてきた。

「では、ここで旦那さまのお帰りを待つことにいたしましょう。ご武運、お祈り申し上げます」

 その返答に、今度は善十郎の方が拍子抜けした。てっきりこの女のことゆえ、来るなと言っても勝手に付いてくるものだと思っていたからだ。どうもまたおのれは読み違えをしていたらしい。三年共に暮らしてなお、依然として何を考えているのかわからぬ女であった。

「どうなさいましたか。ずいぶん面白いお顔をしておられますが」

「いや……おぬしがそれでよいなら、構わぬのだが……」

 そう答えると、その戸惑いぶりが可笑しかったのか、蔦はいつものようにくすくすと笑う。こちらが気にし過ぎなのであろうが、やはりどうしても嘲笑されているような心持ちになるような笑いであった。

「ただ、ここに残ったとて難儀なのは同じであろう。尾上どのはわずかな守勢で、敵の侵攻に備えねばならぬ。金森、遠藤といった羽柴方の将が動く恐れもある。そのときは、どうか力添えして差し上げて欲しい」

「欲しい、でございますか?」

 と、蔦はその言葉にもまた笑みを消し、首を傾げる。何か間違ったことでも言ったであろうか、と善十郎も訝った。慥かにこの女はただここにいるだけで、ともに内ヶ島家に仕えたわけではないが。

「私は貴方さまの下女にございます。頼むのではなく、命じてくださいませ」

 なるほどそういうことか、とようやく得心した。されど下女という立場は、この女が勝手に言っているだけだ。善十郎はそうは考えていない。偉そうに命など下せるはずもなかった。

 おそらく、これはつまらない意地なのかもしれない。されど善十郎としては、重ねてこう言うしかなかった。

「尾上どのをお助け差し上げてくれ。頼む」

 こちらも居住まいを正し、両の拳を床に突き、深く頭を下げた。やがて下げた頭の少し上から、呆れたようなため息とともに、ぽつりとつぶやくのが聞こえた。

「殿方というのは……まこと、面倒臭いものでございますなあ……」

 そろそろと顔を上げる。するとそこに、奇妙なものを見た。蔦が柔らかく笑い、こちらを見下ろしている。されどその笑みは、これまで女が見せてきたせせらうような笑みではなかった。

 不意に、まったく不意に。善十郎は幼き頃に、母の膝の上から見上げた面差しを思い出していた。

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