(六)
蝋燭の炎がわずかに揺れている。御座所の壁に映ったふたつの影も、それに合わせて震えるようにゆらめいていた。
文机に向かっていた氏理が最後の花押を記し終えると、氏綱がそれを押し戴くように受け取る。先日使者を寄越してきた、佐々内蔵助成政への返状である。求めに応じ、直ちに援軍を富山へ向かわせる旨を記してある。その内容を慥かめ、筆頭家老は静かに頷いた。
「何も言わぬのか」
ついに下した決断は、氏綱の進言を蔑ろにするものである。暇乞いをされてもやむを得ずと覚悟していた。
「申しませぬ。殿こそ、何もございませぬか」
一方この氏綱は氏綱で、主君に対し表裏者となれと進言したのである。腹を切る覚悟は最初からできていた。されど氏理は、「すまぬ」と絞り出すように言っただけであった。
「殿は、相変わらず甘うございますな」
「甘いのではない」むっとしたように鼻を鳴らして、氏理は答える。「尾上備前は我らが柱。腹を切らせることなどできぬわ」
襖が開き、小姓のひとりが静かに入ってきた。そうして確認済みの返状が入った文箱を、大事そうに持って下がって行く。夜のうちに早馬を飛ばして、富山へと届けられることであろう。
「して、陣立はいかに?」
「わしに兵二百を預けよ。それと孫次郎に馬廻合わせて五十。大和の百、太左衛門の百と合わせて、四百五十といったところか。まあ内蔵助どのの二万に比べれば、塵芥のような軍勢であろうがの」
それでも、魚津城攻めのときの倍以上の兵を出すこととなる。おそらく今の当家が外征のために動員できるのは、それが限度であろう。畢竟、残る守兵は百にも満たなくなる。されど氏綱は眉ひとつ動かさず、「わかり申した」と答えただけだった。
「帰雲のことは任せたぞ、備前」
「……では」と、氏綱はひとつ咳払いをして言った。「先ほどは何もないと申しましたが、ひとつだけ……蔵の金銀を、少々使わせていただけますでしょうか」
氏理は「……ふむ」と小さく唸った。「金庫番はおぬしよ。好きに使うが良い。されど、使い道は聞いておこうかの」
そう問われて、氏綱は懐から絵図を取り出して広げた。庄川の流れと街道が描かれた、内ヶ島領白川郷の絵図である。ここに来るまでに、予め用意していたものらしい。つまりこの者は氏理の決断を想定して、すでに策を講じていたということだ。
「南の遠藤、あるいは西の金森。殿の不在を突いて、我らが領地へ侵攻してくる恐れがあります。もしも南からの侵攻であれば、備えは万全。備中守が向牧戸の城で食い止めましょう。されど、西に向けては心許ない」
金森法印が越前大野から南寄りの経路を取れば、やはり向牧戸城で迎え撃つことができる。されど北寄りの経路を選べば、氏綱の生地である尾上郷を通って、遮るものなく直に帰雲を急襲されてしまう。
「ゆえ、赤谷に城を築きまする。さらにその手前、日崎山に出城を」
「構わぬが……間に合うのか」
「間に合わせましょう。ただし金堀衆の助けが要りまする。それも、昼夜交替で休みなく働いて貰わねばなりませぬな」
氏理は得心したように、にやりと笑った。「ゆえ、大盤振る舞いか。良い。派手に使え」
それは砦の普請を急がせるためだけでなく、金堀衆を味方につけておくための策でもあった。穴掘りや土普請に長けたかの者らは、ひとたび敵に回せば恐ろしい存在でもある。こと籠城戦ともなれば天敵と呼んでよい。かの者らを使役して横穴を掘り、水の手を切って城を干上がらせる。それはかつて武田が得意とした戦術であるが、今もって非常に有効なのである。
「では、早速手配を」
氏綱はそう言って、静かに立ち上がった。こうなった以上は、もはや一刻とて惜しい。氏理は「……頼むぞ」とつぶやくように言い、その背を見送った。




