(二)
門を一歩出れば地獄。その言葉に偽りはなかった。勢い込んで飛び出して行った兵たちが、最初の斉射でばたばたと倒れてゆく。しかしそれでも、止まるわけにはいかなかった。
「征けぇっ!」
金太夫が吼え、屍を跨ぎ越して突き進む。善十郎もまた、兄や飯島の残兵たちとともに続いた。騎馬はすべて後続の小山田隊へと集めたので、全員が徒士だ。それでも先頭を行く金太夫の巨体は、さながら悍馬のごとく猛々しかった。
再び筒音が響き渡り、耳元を熱いものが掠めていった。されど誰もが大声で、言葉にならない叫びを上げながら、先を争うように突進してゆく。
「進めぇっ!」その叫びを圧して、金太夫の命が響き渡る。「進むのじゃ、止まるなぁっ!」
斉射が止むと、入れ替わりに槍隊が押し出してきた。一列に並んだまま、大きく穂先を持ち上げる。善十郎と兵たちはひと塊になって、真正面から突進した。そして槍が振り下ろされる前に潜り込み、身体ごとぶつかってゆく。
兜で突っ込み、手甲でかち上げ、倒れた敵を踏み潰して、ひたすら前へと駆け続けた。首を取る必要などない。今はただ、ただただ進むのだ。
気が付けば、手にしていた槍は中ほどでぽっきりと折れていた。それは投げ捨て、足元の泥濘から敵のものを拾い上る。こんなもの、使えさえすれば何でもいい。
「首など捨て置けっ、進むのじゃ!」
金太夫の怒号はなおも聞こえている。その大男に、右手から槍衾が迫っていた。善十郎は咄嗟に気付いて、「渡辺どのっ!」と叫ぶ。
それで気付いたのか、金太夫が槍衾に向き直った。しかしそれから逃げようとはせず、長槍を高々と頭上に掲げる。そうして、裂帛の気合ととも振り下ろした。
雑兵が数名叩き潰され、槍衾がふたつに割れる。そうして、眼前に一本の道ができた。
「進めぇっ!」
あとから兵が大男を追い越し、その一本道を駆け抜けて行った。善十郎もそれに続こうとするが、すぐに別の槍先に阻まれる。
「退けっ!」
構えた槍を出鱈目に振り回す。鈍い音がいくつも響き、緒の切れた兜が宙を舞った。そしてできた道を、再び駆け出した。しかし敵兵はあとからあとから、尽きることなく湧き出てくる。
さすがにこうして戦場に出れば、凪いだこころのままでなどいられない。されど相変わらず、恐怖はなかった。敵の槍が幾度も胴を削り、鼻先をかすめ、兜を叩く。ひとつでも間違えば、こちらの命まで削り取ってゆくのはわかっている。それでも、気が付けば口元には笑みが浮かんでいた。
殺せるものなら殺せ。早く殺せ。どうせわしには何もない。もはや何も残ってはいないのだ。ならば、恐ろしいものなど何もない。あるわけがない。だから疾くと殺してみせよ。ただしその前に、おぬしらをひとりでも多く道連れにしてやるわ。
もしかしたら、声に出して喚いていたかもしれない。しかしもう、善十郎にはそれもよくわからなくなっていた。ただひたすらに槍を振り回し、叫び、笑い、駆け続けた。いつしか、おのれの声以外には何も聞こえなくなっていた。先ほどまでともに走っていた、金太夫の怒号も。兄の具足が鳴る音さえも。
そうして唐突に視界が開けた。あれほど際限なく湧き続けていた敵兵も、いきなり途絶えた。
敵陣を走り抜けたのだ。そう気付いた。それでもまだ、脚は止めなかった。駆け続けた。止まらなかった。ごつごつとした斜面を、さらに勢いを増して下ってゆく。
振り返ると、数名の雑兵がこちらに追い縋ってくるのが見えた。味方の姿はなかった。どうやら駆け抜けたのは善十郎ひとりだけだったようだ。その向こうに、おのれが突き破ったはずの兵の群れがあった。しかし風穴などどこにもなかった。兵の群れはすぐにまた密集し、隙間なく槍が並んでいた。
駄目だ、これでは騎馬隊が抜けられぬ……
そう思ったとき、脚が縺れた。そのまま前につんのめり、地に倒れ伏してゆく。踏み止まるほどの力も、もう残ってはいなかった。
倒れると同時に、おのれの体が大きく弾むのがわかった。そしてそのまま止まることなく、山肌を転がり落ちてゆく。駄目だった。無駄だった。これで武田の命運は潰えた。すべてはお終いだ。
しかしそれと同時に、だから何だとも思った。おのれの為すべきことは成し遂げた。敵の大軍の只中を駆け抜け、包囲を突破してみせた。わしの戦は、わしの勝ちよ。そう心の中でつぶやいた。ならば良し。満足して死んでやろうではないか。
転がり続けていた身体が、何かに激しくぶつかったのがわかった。視野が瞬時に暗く閉ざされ、一切の音も消えた。善十郎が覚えているのはそこまでだった。