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浮雲の賦  作者: 神尾 宥人
第三章 風雲
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(一)

 善十郎がこの地に来て三度目の夏も、あっという間に過ぎて行った。そうしてあれほど(やかま)しかった蝉の声も、いつしかもの悲しげな(ひぐらし)のそれに取って代わられていた。

 天正十二年、九月。善十郎はいつものように屋敷へ呼ばれ、氏理と対面していた。されど今日は当主も碁盤を取り出そうとはせず、気鬱げな顔で文台に向かったままだった。

「のう、善十郎」こちらに目を向けることなく、氏理が言った。「世は、いったいどうなっておるのじゃ」

「さて、某などに尋ねられましても、とんとわかりませぬ」

 善十郎としても、そう答えるしかなかった。実、世はこの数年の間ただただ目まぐるしく、まるで先読みを許さぬまま移ろい続けている。そして今も、日の本を二分するかの如き大戦(おおいくさ)の只中だ。

 天正十一年。誰もが予期した通り、柴田修理亮勝家と羽柴筑前守秀吉の両雄は、近江柳ヶ瀬は賎ヶ岳(しずがたけ)にて激突した。戦は羽柴が勝利に終わり、修理勝家は北ノ庄にて自害、(むくろ)は城とともに灰となった。ただし柴田方の佐々内蔵助成政は上杉の抑えのため越中に留め置かれ、戦列に加わることはなかった。そのため剃髪して羽柴に服従を誓うことで本領を安堵され、内ヶ島家も戦のあおりを受けることはなかった。

 かくして世の趨勢は、羽柴に大きく傾くかに思われた。されどその余韻も冷めやらぬうちに、さらなる戦の火の手が上がる。発端は、筑前守秀吉の命によって信長の二男、三介信雄(のぶかつ)が安土城を退去させられたことであった。信雄はその処遇に不満を抱き、関係は急激に悪化した。さらに秀吉が側近たちへ調略を仕掛けたことを知り、信雄は重臣三人を斬首した。それに激怒した秀吉は、ついに信雄討伐の兵を挙げたのである。

 されどそこで、秀吉にも誤算が生じる。窮地に陥った信雄は、一縷の望みをかけて徳川家に助けを求め、三河守家康もそれに呼応したのだ。さらには紀州の雑賀衆、四国の長宗我部らと結び、羽柴包囲網を形成する。

 焦った秀吉は先手を打ち、信雄に与すると思われていた池田紀伊守恒興を強引に味方に引き入れ、天正十二年三月十三日、犬山城を急襲させた。対して家康は大軍を率いて小牧山城にて対陣。かくして戦はいよいよ、羽柴徳川という二大大名が雌雄を決する大戦と相成ったのである。

 以後半年、戦は一進一退、双方多数の死者を出しつつも、決め手がないまま続いている。ただしそれも、あくまで尾張や美濃での出来事。山を挟んだこちら側には、戦の影響はほとんど及んではいなかった。越中の佐々、越前大野の金森も羽柴方へと恭順し、越前の丹羽や加賀の前田らとともに、それぞれ領国の安定に努めている。また佐々と前田の間では、利家の次男・利政を佐々に婿入りさせるという婚儀も進められていた。北陸はいたって静謐。尾張のことは対岸の火事。家中にも、そんな緩んだ空気が漂っていた。

 されど、状況はそう安穏とはしておれない。そのことを善十郎は、蔦の報告で聞き知っていた。それだけに氏理の気鬱げな顔を見て、来るものが来たかと覚悟する。

「何がありましたか」

 そう尋ねると、氏理はようやく顔を上げた。そうして手にしていた文を、広げたまま善十郎へと渡してくる。

「お目通ししてよろしいので?」

「構わぬ。秘しておくようなことでもない」

 恐縮しながら、善十郎はその文を手に取る。しかしそれに目を通すよりも早く、氏理はそこに書かれていることを口にした。

「内蔵助どのが、前田領の末森(すえのもり)城を攻めた」

 善十郎は「……なんと」と驚いてみせる。しかし内心では、やはりと得心していた。小牧の戦がはじまって以来、成政は前田家との婚儀、さらには上杉との和議を進める一方で、城下に多くの牢人者を集めて戦支度を整えていると聞いていた。蔦の報告によれば、その数は実に二万にも上るという。

 鑑みれば成政にとって信雄は、かつての主君の遺児に他ならない。求められれば、兵を挙げぬわけにもいかなかったのであろう。つまりは板挟みの挙句、亡き主君への忠義を選んだというわけだ。その苦渋に思いを寄せれば、一概に裏切りと(そし)ることも難しかった。

「佐々どのから、兵を出して欲しいと?」

「それはまだない。だが、戦が長引けばそれもあり得るであろう」

 佐々方の兵は二万。内ヶ島が出せる兵は、最大でも五百。それだけ考えれば、出したところで大した足しにもならぬ。されど『兵を出す』ということは、単に数だけの問題ではないのだ。

 佐々と内ヶ島の関係は、形の上では慥かに対等な盟ではあるが、実のところは寄親と寄子という関係である。つまりひとたび戦となれば、旗幟を明らかにすることが必要となる。寄親は兵の足しにならぬことを承知で、忠義を試すために兵を求める。

 ゆえ、求められさえすれば兵を出さぬわけにはいかない。されど出したが最後、羽柴方からは敵と見做されることとなる。しかも、西の金森と南の遠藤は羽柴方だ。我ら内ヶ島は、いきなり大戦の最前線に立たされることとなる。

「このことを、どなたかには……」

「備前には伝えた。備中と大和にも早馬を出し、明日にも合議を開くこととしておる」

「尾上どのは、何と?」

 氏理はしばし、痛みを堪えるかの如くにきつく目を閉じた。歯を食い縛っているゆえか、耳の下に筋が浮き上がる。

「……内蔵助どのと手を切れ、と申しておった」

 善十郎も深く息をつき、目を閉じた。氏綱がそれを進言するために、どれだけの覚悟を固めていたかが窺い知れたゆえだった。あの筆頭家老とて、おのが当主のことはよく理解している。その上であえて口にしたのだ。おそらく氏綱は深い思慮をもって、この大戦は羽柴の勝ちと読んだのであろう。つまり、佐々に従っては先がない。この内ヶ島という小さき家を守るためには、それしか道はないと。

「おぬしはどう思う、善十郎?」

「すべては、殿がお決めになることかと」

 善十郎はそう言って、確りと拳を床に突き、平伏した。今日までの生涯をともに歩んできた氏綱の、その言葉の重みを前に、おのれなど新参者に何が言えるであろう。

「某はただ殿の下知のままに、槍を振るうのみにございます」

 氏理はゆっくりと目を開き、面差しを和らげた。そうして善十郎が畳んだ文を、再び手元に引き寄せる。

「今日の対局はなしじゃ。ひとりにしてはくれぬかの」

「かしこまりました」

 善十郎はそう答え、静かに御座所をあとにした。去り際にちらと見た氏理の横顔は、また気鬱げに沈んでいるように見えた。

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