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浮雲の賦  作者: 神尾 宥人
第二章 暗雲
18/59

(十)

 庵に戻ると、蔦は囲炉裏にかけた鍋で何かを煮詰めているところだった。夕餉の支度かとも思ったが、臭いがどうも怪しい。とても食せる物のそれではなかった。

「いったい何をしておる。この臭いは何だ」

「そちらの山で摘んできた草を煮詰めております」けろりとした声で、女は答えた。「間違っても口にはいたしませぬように。指につけて舐めただけでも、三度は死ねますゆえ」

「……そんなものを囲炉裏で煮るでないっ!」

 おそらくは鳥兜(とりかぶと)か何か、恐ろしい毒草なのであろう。臭いだけでも気分が悪くなりそうだ。善十郎は慌てて縁に出て、外の空気を肺腑に吸い込む。夏はもう終わりのようで、まだ日は高いというのに風はひんやりとしていた。

「虫の居所がよろしくないようで」

 蔦は訝しげに声を落とし、尋ねてきた。善十郎は「そういうわけではないが……」と首を振る。わしは間違っておったかの。その問いかけは口にしかけたところで飲み込んだ。

 おのれが甘い人間であることは、問われずとも自覚している。あるいはこの地に来て、その甘さに磨きがかかったか。風林火山の旗の下で戦に明け暮れた日々からはほど遠い、この地の平穏でお目出度い空気に当てられて、『伊那の赤鬼』もすっかり鈍ったとでもいうのか。

「だとしても……それが悪いこととも限るまいよ」

 独り言ちて、縁にどっかと腰を下ろした。ややあって、粗末な門を潜って現れた客人があった。すっかり白くなった髪を髷で結い、長い顎髭をたくわえた細面には、あまり品のよろしくない笑みを湛えている。これまで幾度か、帰雲屋敷で顔を合わせたことのある相手であった。

「いきなりの訪い、許されよ」

「これは(とう)どの。かような場所に珍しきことよ」

 氏理の義兄・東七郎左衛門常堯(つねたか)であった。善十郎は慌てて居住まいを正し、礼をもって迎える。されど常堯は鬱陶しげに袖を振り、「止めよ、止めよ」と遮った。

「実のない礼ほど白々しいものはないわ。御内儀もどうか、お構いなくの」

 おのれが誰からも敬われてなどいないことは、誰よりもおのれが知っているのであろう。かといって卑屈になるわけでもなく、いかにも楽しげにひょうひょうと笑う。

「ここが風に聞く飯島どのの庵か。うむ……これはこれで風情かな」

「あばら家と(すなお)に申されるがよろしかろう。されど、雅な屋敷などよりよほど落ち着きまする」

「貧乏性じゃのう……じゃが、その心持ちもわかるわ」

 常堯は善十郎と並んで縁に座り、心地よさげに晩夏の空を見上げた。どうやら本気で風情などと思っている様子で、遠慮する気配もない。かと思うといきなり屁などこいて、「これは失敬」とまた笑う。もっとも庵には元より怪しき臭いが満ちていて、その程度でどうということはなかった。

「それで東どの、本日はどのような用向きで?」

「いや、用などないわ。ただ今日は猿が大勢山から下りてきておってな、屋敷も居辛くてかなわん。剣呑剣呑」

 なるほど、と納得した。おそらく氏信や時慶が連れてきた配下の者たちが、屋敷で待機しているのであろう。あまりこの老人と相性が良いとも見えない。

「山猿ならば、ここにも二匹ほどおりまする。居心地はあまり変わりますまい」

「されどおぬしらはわしの顔を見ても、いきなり噛み付いてきたりはせぬであろう?」

 まあ、それはそうだ。この老人の悪評については善十郎もさんざん聞かされていたが、かといって皆が抱くような嫌悪感は覚えていなかった。そもそもその手の悪評というものは、様々な思惑が絡んで誇張され、あるいは捻じ曲げられたりするものである。(こと)に滅んだ名家の悪評などは、その実滅ぼした側の鏡写しであるのが常だ。

 東七郎左衛門常堯。かつては千葉氏の裔という郡上の大名・東左近将監(さこんしょうげん)常慶(つねよし)の嫡男であった。若き頃は傍若無人、悪逆非道で知らぬ者はいなかったとのことで、ために配下にあった遠藤氏の娘との縁組が破談となった。のちに常堯は氏理の姉を娶ったが、袖にされた憤りは収まらず、その年の八朔の礼のため登城した遠藤家当主・新兵衛胤縁(たねより)を帰路で待ち構え、潜ませていた伏兵の火縄銃にて射殺してしまう。

 胤縁の弟・六郎左衛門盛数(もりかず)はそれを遺恨として兵を挙げ、東氏の居城である東殿山城にて常慶を討ち果たす。そして常堯も郡上を追われ、妻の縁を頼って、ここ帰雲へと逃げ延びてきたというわけである。以来この地にて態勢を整え、父の仇討ちと東家の再興を期し、兵を募っている……と、されているらしい。

 されど実の姿はこの通り。兵など募る様子もなく、いつしか故地を追われて二十余年。日々囲碁や詩歌に興じ、まるで艱難の生を楽しむがごとく暮らしている。それが武門の者たちからは不甲斐なく映るらしく、家中では度々悪口雑言の種とされていた。まあ、その心持ちもわからないでもない。

 されど善十郎はこの老人の佇まいに、以前から奇妙な共感めいたものも覚えていた。おのれではどうすることもできない大きな流れや、頭越しに勝手に交わされる思惑の手管に飽き飽きしている風情とでも言えばいいか。ならばおのれを縛るもの、絡め取ろうとしてきたものを、すべて断ち切ってしまえばどうだ。そうした結果が今のその姿であるならば、おのれもまた似たようなものではないかと思えてしまうのだ。

 つまりは、この常堯もまた浮雲なのだ。善十郎はそう気付いた。もしかしたらこの地には、そうした浮雲を誘い寄せる何かがあるのやもしれぬ。

「さて……そのついでに、殿の指南役の腕前も慥かめてみようと思うてな。いかがかな、まずは一局」

「構いませぬぞ。こちらも殿の好敵手がどの程度の腕か、知っておかねばならぬゆえ」

 善十郎は立ち上がると、部屋の隅に置いてあった碁盤と石を取って戻る。氏理の指南役を命じられたのちに、ありがたく下賜されたものであるが、かような庵にはいささか不釣り合いな逸品であった。いずれ蔦に漬物石代わりにされてしまうのだろう。

「では、お手柔らかに頼み申す」

 互いにそう言って、盤を挟んで向かい合った。手合割は一切なしに、先手だけを譲る。そうしてしばらく無言で指し続けるうち、なるほどこれは手強いと気を入れ直した。

 ある意味、氏理とは正逆の指し筋だった。良く言えば奔放、悪く言えば出鱈目である。それだけに指し手が一切読めず、呆れるような凡手があったかと思えば、突然目の覚めるような妙手を繰り出してくる。かと思えば、とても先を読んでの手とは思えなかった石が、十数手先になっていきなり布石として効いてきたりもする。それでも全体としては此方が押しているのは間違いないのだが、のらりくらりと躱されて、決定的な差をつけることもできずにいた。

「羽柴筑前なる者は、いかような男でござろうの」

 対局も中盤を過ぎたあたりで、常堯は不意に口を開いた。いきなりの話題に、善十郎は訝りながらも問いを返した。

「さようなことにご興味が?」

「そりゃあ、この日の本の王になろうという御仁じゃ。興味がないわけなかろう」

「まだ、そうと決まったわけでもありますまい」

 その答えに、老人はまたひょうひょうと気の抜けるような笑いを上げる。

「決まりであろう。いったい、誰が止めるというのじゃ。柴田か。徳川か。それとも北条、あるいは毛利。誰もがおのれの足元を守るので精一杯じゃろうが。外を見ておるのは、羽柴だけよ」

 善十郎は直に感心しながら、「よくご存じで」と漏らす。傍から見る限りでは、世のことなど知ったことかと言わんばかりに、おのれの殻に閉じ籠もり、遊興に明け暮れているものとしか思えなかった。

「羽柴筑前に、会うたことはあるのか?」

「あるわけがございませぬ。某は信濃の者、それもただの雑兵に過ぎませんでしたゆえ」

「されど、戦場で相見えたことくらいはあるのでは?」

「……一度だけ。されど、あれは(まみ)えたうちに入りませぬ」

 あの地獄の設楽原。織田の前線をひとたびは破り、信長の本陣である茶臼山へと迫った折。その北にある旗鉾(はたぼこ)山に、羽柴筑前は陣を()いていたという。されど、すぐに雨霰のような鉄砲玉で迎え撃たれた。善十郎はただただ、折り重なる味方の骸を掻き分けるようにして逃げた。それで精一杯だった。顔など、拝めるはずもなかった。

「ただ、何でありましょうかの。あの折に感じた、幾重にも絡め取られてゆくような感じ。何か抗いようもないほどに大きなものと、図らずも向き合ってしまったかのような……あれは右府信長のものであったのか、あるいは……」

「ほう……ほう」常堯は梟でも鳴くかのごとき声で小さく頷く。

「聞くところによれば、羽柴筑前は城攻めの名手とのこと。三木城、鳥取城、備前高松城。名だたる堅城の数々を、綿密に織り上げた計略にて包囲し、干殺しにするがごとく落としていったと。それを聞くに、あの折感じたものを思い起こしまする。もしもあれが筑前という者だとするならば、決して抗ってはならないものであるのやもしれませぬな」

「柴田修理などでは、とても敵わぬか……」

 言いながら、老人は黒の石をぴしゃりと打った。善十郎も即座に、その手の先を塞ぐように白を置く。置いたのちに、この手で決まりだと感じ取った。あとはいかに足掻こうと、黒の手は伸びようがない。手強い相手ではあったが、どうにか勝ちを拾えそうだった。

 常堯はじっと盤に目を落とし、長考に入った。そのままの姿勢で、ぽつりと独り言のようにつぶやく。

「佐々内蔵助……どこかで見切らねばならぬか」

「我が殿に、見切れますでしょうか」

「できぬであろうの……それがあの殿の可愛いところよ。ならばそれで滅ぶのも、また一興というものかな」

 ずいぶんと軽く、滅ぶなどという言葉を口にする。されどこの老人もまた、ひとつの家の滅びを知っている者であった。

 そうして常堯はついと顔を上げ、まただらしなく相好を崩して笑った。

「いや、これは参りましたな。わしの負けじゃ。さすがは指南役、お強いのう」

 それでも接戦ではあった。何とか一度も優位は譲らずに済んだが、次もそう行くとは限らない。氏理をこの強さまで指南するのは、なかなか難儀と言えた。

 頃合いと見たか、蔦が茶を運んできた。以前に氏綱から分けてもらった茶葉であろうが、先ほどの鍋の中身が仕込まれていないかと一瞬躊躇する。

「これは御内儀、わざわざ済みませぬな」

 そう言って、常堯は美味そうに椀の中身を啜る。女は無言で善十郎を小突き、ちゃんと言えと急かした。

「それがですな」と、仕方なく善十郎は言った。「この女は、(さい)というわけではございませぬ」

 常堯は「さようでござったか」と、驚いたように答えた。かように恐ろしき女子を妻にするほど豪気ではござらぬ。ついついそう言い添えそうになるのを、善十郎は慌てて堪える。

「はい、ただの下女でございます。ゆえ、何事も遠慮なくお申し付けくだされ」

 ほうほう、ほうほう。また梟のような声を漏らしながら頷き、常堯は好色そうな笑みを浮かべた。

「ではどうかな、わしのような男は。こう見えても、閨ではまだまだ……」

 老人がそう手を伸ばしかけたところで、不意に声が聞こえた。柔らかく、それでいて冥府から響いて来るかのような低い声。

「こちらにおられましたか、お前さま」

 常堯はびくりと身を震わせ、恐る恐る振り返った。いつの間にか庭に、侍女を侍らせた女が立っていた。齢の頃は五十をいくらか過ぎたところであろうが、まだまだ凛とした美しさと艶を保っていると見える。

「これはお方さま。ご機嫌うるわしゅうございます」

 蔦が恭しく頭を下げた。それでこの女が誰であるかわかった。氏理の姉にして七郎常堯が室、阿通(あつう)の方であった。名は知っていたが、対面するのははじめてである。善十郎も倣い、縁に座ったまま平伏した。

「かような場に足をお運びくださり、恐悦至極に存じまする」

「よい。こちらこそうちの旦那さまが、迷惑をかけましたな」

「滅相もございませぬ。面白き対局にございました」

 阿通の方は「ふふ」と艶めいた笑みを漏らし、猫の子でも摘まむように常堯を連れて帰って行った。「今後もどうぞ、旦那さまをよしなにな」と言い残して。

 そのあとに続く侍女がふと足を止めて、肩越しにこちらを振り返った。そうして善十郎に向けて、ちちち、と鳥の鳴くような声を出してみせる。それはあのとき、夜の林の中で聞いた声に違いなかった。

 善十郎はちらと蔦へと目を向ける。されど女は白を切るように、そそくさと立ち上がって奥へと戻って行った。どうやらこの透波、早くも家中におのれの駒を忍ばせているらしい。

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