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浮雲の賦  作者: 神尾 宥人
第二章 暗雲
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(三)

 氏理はじっと盤に目を落としたまま、もうずいぶんと長いこと黙り込んでいた。局面は明らかに白の優勢。しかし大事なのは勝敗ではなかった。だから善十郎も口を出さずに、黙って黒の手を待っている。

 帰雲屋敷の奥の間、氏理の居室である。はじめて対面した日、最後に持ち掛けられたのがこの、碁の指南であった。

 上達の秘訣を尋ねられた善十郎は、即座に「ただひたすら、場数を踏むこと」と答えた。おのれがそうやって覚えたことだからだ。幼き頃は祖父や父と、長じてからは兄や弟たちと。特に兄は、戦の前にはいつも善十郎相手に盤を囲んでいた。猛きこころを鎮めるためか、あるいは戦への恐れを振り払うためか。いずれかはわからぬままであったが、そうしたときほど兄の手は冴え渡っていたものであった。

 よって氏理相手にも理屈は並べず、とにかく時が許す限り打ち続けた。最初は黒の石を九個先に盤に置いてはじめる九子番から。それから徐々に置く石の数を減らしてゆくつもりだったのだが、氏理はそれだけの手合割でもなかなか善十郎に勝つことができずにいた。

 といっても、氏理がそれほど下手というわけでは決してない。ただあまりに常識的で、無難な手しか打てないのだ。それだけに、善十郎には数手先までが容易に読めてしまう。実直で裏表のない人となりが良く出ているのであろう。それは人としては好ましいことではあるのだが、あまり勝負事には向いていないとも言えた。

「ところでおぬし、七郎(しちろう)とはもう打ったか?」

(とう)どのでございますか。いえ、まだ」

 七郎というのは氏理の姉婿、(とう)七郎左衛門常堯(つねたか)のことだ。齢は氏理より二十ほど上で、髪も髭もすっかり白い。それだけに現在はほぼ隠居の身で、専ら碁や詩歌に興じる日々を過ごしていると聞く。

「東どのは、お強いのですか?」

「さて……ここには他に、碁を打てる者もおらぬのでな。少なくともわしよりは強いようじゃ。しかしこちらも意地というものがある。いつまでも負けっぱなしというわけにもいかぬのよ」

 それで配下の善十郎にまで教えを乞うて、腕を上げようとしているわけか。しかし生来の人の好さの問題であり、なかなか道は険しいと言う他なかった。

「ところで、孫次郎はどうじゃ。槍の見込みはあるかの」

「若殿でございますか。殿に似て真っすぐな気性で、好ましいですな」

 善十郎はそう、(すなお)な印象を口にした。槍というものも碁と同じで、まるで素裸になったように心根が見えるものだった。

「まるでそれでは、孫次郎の槍も弱いと言っているようではないか」

「そうではござらぬ。槍には碁ほど、難しい技倆は要りませんからな。言ってしまえば叩く、突く、それだけにございます。刀などよりもよほど単純。むろん極めようと思わば別でございますが、殿もそこまでは望んでおられますまい」

 氏理は顔を上げぬまま、「……まあの」とだけ答えた。気を悪くしているわけではないことは善十郎にもわかっていたので、構わず言を続けた。

「となると肝要なのは、やはり性根でございましょう。その点、若殿は腹が据わっておられます。ひとたび槍を払っても、また叩き伏せても、すぐに立ち上がってこられる。兵を率いる者として、大事な素養はしっかりと持っておいでです」

 ふむ、ふむ、ふむ。盤面を見つめ、次の手を考える振りをしながら、氏理は細かく何度も頷いた。善十郎の答えに嬉しさを抑えられずにいるのは、顔を見ずとも伝わってくる。

「して、他の者どもはどうじゃ。大和や備中も、家中の者を送ってきておるぞ?」

 裏庭での鍛錬には、氏行や小太郎の他にも多くの者が参加している。その中には、家老の山下大和守、川尻備中守の子息もいた。ここで馬廻として経験を積み、いずれは跡を継いで城主となるためである。

「山下さまのところの半三郎(はんざぶろう)どのは良いですな。些か消極的ではありまするが、その分対手の動きを見て、先の先まで読もうとしておるのがわかります。その慎重さと思慮深さは、長じれば若殿の良き補佐役となることでしょう」

「覇気がなく臆病じゃと、大和は案じておったがの」

「臆病と慎重は、似て非なるものかと。少なくとも半三郎どのは、打たれることを恐れてはおりませぬ」

「なるほどのう……備中ところの、右近(うこん)刑部(ぎょうぶ)はどうじゃ」

「おふたりは少々気負いが見られますな。父君である川尻さまの武勇は聞き及んでおりますが、それだけに重圧もあるのでございましょう。特に右近どのは嫡男とあってか、焦っておられるようで……」

 川尻備中守のふたりの子の話になると、氏理は思案げに小さく唸って黙り込んだ。どうやらかの者らのことは、これまでも頭を悩ませている懸案であったらしい。

「ちらと耳に挟んだことでありますが、川尻さまにはもうひとりお子がおられるとか?」

 そう問うと、氏理はようやく顔を上げた。そうして憤るような、それでいて申し訳なさげな目で、じっと善十郎を見返してくる。

「そのこと、決してふたりの前で触れるでないぞ」

 どうやら迂闊に尋ねてはいけないことだったらしい。氏理はしばし迷った挙句、気鬱げにひとつ頷いて続けた。

「備中には右近の上にもうひとり、男子がおってな。名を勘兵衛(かんべえ)という。身の丈大きく剛力で、幼き頃から手ずから指南してきたというだけあって、槍の扱いも若衆の中では飛び抜けておった」

 右近の上であれば長子であり、問題がなければ嫡男でもあったのであろう。しかしそれなら、どうして今その者はここにいないのか。

「気性もまことに、備中に似ておった。似過ぎておった。おまけに気位も高かった。それだけに備中も可愛かったようだが……」

「何があったのでございますか?」

「備中の配下に、やはり槍上手の牛首(うしくび)権左なるものがおってな……その者があるとき、鍛錬においても対手を容赦なく打ち据える勘兵衛に、それは()しと(なじ)ったのよ。若様はいずれ、父上の名跡を継いで川尻の家を率いる身。強きをひけらかすだけでなく、教え導くことも肝要と」

 善十郎は「その通りでございますな」と頷く。

「されど勘兵衛は、牛首に対して言い返した。戦場に於いて良しも悪しもなし。敵の首を獲るのみが良しであろう、と」

「それもまた、道理ではあります。ただしそれは、まことの戦を知る者が口にすること」

「その通りよ。ろくに戦場にも出ておらぬ若造が言ったところで、ただの言い訳でしかないわ。備中もそれがわかっておったのであろう。皆の前で、勘兵衛を厳しく叱責した」

 それで済んだ話ではないことは、氏理の苦々しげな顔でわかっていた。ゆえ、「それで?」と先を促す。

「その夜、勘兵衛は徒党を恃んで牛首を闇討ちし、嬲り殺しにした。そしてそのまま出奔したという次第じゃ」

 汚いものでも吐き出すような声音だった。善十郎も薄々勘付いていたとはいえ、ため息をついて首を振る。

「川尻さまは、追手は差し向けなかったので?」

「備中も激しく怒っておったが、それはしなかったとのこと。血を分けた子に、さすがにそこまではできなかったのであろうよ。勘兵衛の行方はその後知れず……どこぞで野垂れ死んでおるか、あるいは野盗にでも成り果てておるか」

 そこまで言ったところで、氏理は手にしていた黒の石を手元に戻した。この局は降参ということであろう。善十郎も頷いて、盤上の石をひとつずつ拾ってゆく。

「……実はの」再び盤上が綺麗になったところで、氏理がまた口を開いた。「その鍛錬のときに打ち据えられておった対手というのが……右近での」

「……それは」

「勘兵衛はふたりの弟に、日頃からずいぶんと辛く当たっておったようじゃ。その上、おのれを庇った牛首の無惨な骸を目の当たりにして、右近はすっかり兄に怖気を抱いてしまったというわけよ」

 ゆえ、かの者の前で兄の名を出すなということか。長い話であったが、善十郎もようやく得心した。やがて氏理は当たり前のように先に九個の石を置き、飄々とした声に戻して言った。

「ところで善十郎。次はあと幾つか、先に石を置かせてはくれぬかのう?」

「九子番よりさらに下の手合割など、ありませぬ。殿はまことに強くなる気がありや?」

「やれやれ、善十郎は厳しいのう。右近らの苦労がわかるわ」

 そう困ったように笑いながら、氏理は小さく肩をすくめた。

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