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浮雲の賦  作者: 神尾 宥人
第一章 浮雲
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(一)

 戦端が開かれたのはまだ夜明け前、丑の刻をわずかに過ぎた頃であった。そして稜線に日輪が顔を覗かせんとしている今になっても、筒音は間断なく響き渡っている。織田勢の攻撃は小休止するどころか、さらに激しさを増すばかりであった。

法幢院曲輪(ほうしょういんくるわ)が落ちた。もはや一刻の猶予もないわ!」

 鎧姿の大男が、髭面を歪ませながら叫んだ。男の名は渡辺金太夫(きんだゆう)。もとは徳川に仕え、姉川の合戦では一番槍の功名を立て、かの信長より「天下一の槍」と称えられたほどの猛将である。しかし高天神城落城のおりに捕らえられ、その後は武田の麾下として取り立てられていた。そして此度の織田・徳川勢による侵攻にあたり、城主である仁科五郎盛信(もりのぶ)より徳川への帰参を許されたが、それを断って武田に残ったという忠の者でもある。ゆえに盛信からの信も厚く、今も二百の兵とともに、城の要である大手門の守りを任されていた。

「下知はくだった。我らはこれより城を出て、城介(じょうすけ)(秋田城介。織田三位中将信忠の前の官位)が首を獲る。誰ぞ、我と槍を並べる者はおらぬか!」

 その金太夫が、三間の長槍を頭上に掲げて吼える。されど誰ひとりとして応える者はなく、皆その姿を眩しげに見つめているだけだった。もちろん、怯んでいるわけではない。各々の目にあるのは、怖れではなく畏れであった。天下一の槍上手と並んで先駆けなど、いくら何でも烏滸(おこ)がましいとでも思っているのか。

 飯島善十郎(ぜんじゅうろう)は小さくひとつ息をつくと、大男を取り囲んだ輪の中へと割り入っていった。そうして静かな声で言う。

「では、(それがし)同道仕(どうどうつかまつ)ろう」

「おおっ、これは飯島どのではないか!」と、金太夫は厳つい顔を綻ばせる。「聞いたか、皆の者。伊那の赤鬼がご加勢くださるぞ。かの山県が赤備(あかぞな)え、信州先方(さきかた)衆にその者ありと謳われた豪傑ぞ。無双の槍捌きをとくと拝ませてもらおうではないか!」

 大手門前に集まった城兵たちから、地響きのような歓声が沸き上がる。その一瞬だけ、門の外の筒音がかき消えた。善十郎は苦笑いしながら、大男の隣に並びかけた。

「猿芝居に付き合わせて悪いの。じゃが、これで士気も上がる」

 金太夫は顔を寄せ、囁くように言った。善十郎とて決して小兵ではないものの、金太夫と比べれば三、四寸ほどの差がある。おのずと、大きく身を傾げる格好になった。

「それで、どうするのだ。まことに行くのか?」

「言ってしまったからには、行くしかあるまいよ」

 善十郎はこともなげに答える。金太夫は呆れたように首を振り、顔を上げた。その目の先には、まだ固く閉じられたままの門があるだけだ。しかしその門も、このままでは遠からず破られる。

「ああは言ったが、我らの役目は風穴を開けるまでぞ。それが精々であろう。つまりは捨て駒よ」

「わかっておる」

 と、善十郎はなおもあっさり頷いた。何しろ実に三万余の敵に、わずか二百で討ち入ろうというのだ。生きて戻れる望みはまずあるまい。

 

 天正十年、三月二日。ところはかの山本勘助晴幸が築いたという名城・高遠城である。

 織田・徳川・北条による武田領一斉侵攻は、その前月、木曽福島城主・木曽伊予守義昌が織田方へと寝返ったことを契機にしてはじまった。四郎勝頼率いる武田本軍は義昌を討つべく新府城を発したが、上原城まで達したところで、宿老穴山梅雪斎の手引きにより徳川勢が侵攻してきたことを知る。背後を突かれることを恐れた勝頼は、相次ぐ裏切りに臍を噛みながらも、やむ無く新府へと引き返すしかなかった。

 一方、木曽口より攻め入った織田勢は、鉄壁を誇ったはずの武田の信州防衛線を瞬く間に呑み込んでいった。松尾、飯田、大嶋といった各支城を守るはずだった重臣たちは、ある者は敵方へ寝返り、またある者は城を捨てて逃走し、ろくな抵抗も見せなかった。

 その中で唯一大軍の前に立ち塞がったのが、飯島一族が守る飯島城であった。城主である飯島民部少輔為次(ためつぐ)は、幾度も差し向けられてきた調略の使者をすべて撥ね付けて武田方に残り、天竜川を堀とした要害で織田勢を迎え討つ。しかし城兵は千にも満たず、周辺の城からの救援も受けられぬまま、為す術もなく城は落ちた。為次も一族とわずかな手勢を連れて、高遠へと落ち延びるしかなかった。この為次の弟・飯島善十郎為佑(ためすけ)もその中のひとりである。

 しかしそうして拠ったこの高遠城にも、織田勢は迫ってきていた。敵は総大将・織田三位中将信忠以下、木曽・小笠原の軍勢まで加わって、いよいよ三万余にまで膨れ上がっている。対する守勢はわずかに三千。しかも後詰(ごづめ)はない。それではいかな堅城といえど、遠からず押し潰されるのは目に見えていた。古来より籠城とは、後詰があることを前提とした戦術なのだ。

 となれば、あとは城を出るしかない。乾坤一擲の突撃で、敵の大将の首を獲るのだ。それ以外に、此方が勝つ策はなかった。大将である五郎盛信もその心積もりで、切り札とも言える小山田備中守昌成(まさしげ)隊五百と、盛信本隊の五百を温存していた。

 敵はろくに策もなしに、横に広がり城を包み込むようにして、力押しに押してきている。物見によれば大将の信忠みずから前線に立ち、矢弾を潜りながら気勢を上げているという。父親譲りの(かん)の虫が騒いだのであろう。ならばそこが付け込みどころだった。

 此方はまず、金太夫率いる決死隊が大手門を出て、真っすぐに斬り込む。薄く広がった敵のどてっ腹を(やじり)となって突き進み、包囲に風穴を開ける。次いで小山田隊五百がありったけの騎馬とともにひた走り、その風穴を通り抜ける。そして敵の後方を回り込み、信忠の本隊を背後から急襲。思わぬ攻撃に混乱したところで、正面から盛信の五百が出陣し、これを挟撃する。

 慥かに無謀な策だ、と善十郎は思う。しかしこれ以外にはないのもわかっていた。そしてすべては、先陣を切る決死隊の働き如何にかかっている。たとえ一瞬でも敵軍を割り、風穴を開けることができれば此方の勝ちだ。しかしその場合でもおのれらは、すぐ万余の敵に呑み込まれ、生還はまず望めぬであろう。後続を通すためだけの、まさに捨て駒であった。

「だが勢い余って城介が首、我らで上げてしまっても構わぬのであろう?」

 そう軽口を叩いてやると、金太夫は一瞬だけ目を見開いて、それから笑った。

「恐ろしくはないのか、飯島どのは」

「残ったところで、負ければ死ぬのだ。なら、行くも残るも同じことよ」

 それは決して虚勢ではなかった。いざここに立っても、こころは奇妙に凪いだままだ。

 慥かに間断なく響く筒音は、設楽原(したらがはら)(長篠)の戦場を思い出させる。善十郎もあのときは、恐ろしくて仕方がなかった。幾度も耳元をかすめてゆく鉛玉。次々に弾かれたように倒れてゆく兵たち。血と玉薬の臭いが入り混じり、粘ついたように重い空気。あの地獄は幾度も夢に見て、夜中に汗みずくで跳ね起きたものだった。

 けれど今は、その記憶も霞がかかったように(おぼろ)だ。あるいはこれが「死人(しびと)になる」ということかとも考えた。父である美濃守為昌(ためまさ)が、戦の極意として語っていた言葉である。しかし今の心持ちは、それともまた違う気がした。

「渡辺どのもそうではないのか。某などよりも余程、多くの戦場(いくさば)を駆けてきたのではあるまいか?」

 善十郎はそう尋ねながら、大男を横目で見上げた。すると金太夫は、ひひっと喉を鳴らして引き攣った笑みを浮かべる。

「まあの。だがやはり、わしは恐ろしい。どれほど修羅場を潜ろうと、戦が恐ろしいのは変わらぬ」

「……まさか」

「まことだ。恐ろしいから叫ぶのだ。叫んで、走って……それでどうにか、今日まで生き延びてきた」

 そう言って、金太夫は最後に「……誰にも言うでないぞ」と付け加えた。その声は細かく震え、唇は血の気が引いて青ざめていた。どうやら嘘を言っているわけではないようだ。

「凄いのう……渡辺どのは」

 善十郎は心の底からそう思った。この男は、それでも残ったのだ。十中八九、落ちると決まったこの城に。敵方はかつての主家、逃げることだってできたはず。しかしそれもしなかった。恐ろしくとも残った。そして恐ろしくとも、また槍を携えて戦場へ出てゆく。おそらくはそれこそが、勇というものなのであろう。

 翻っておのれはどうなのだ、と善十郎は自問する。今こうして平然と立っているのは、ただ捨て鉢になっているだけだ。生まれ育った里は敵に蹂躙され、もはや帰れぬ。妻も子もとうに病で亡くし、守るべきものもない。ならばおのが命など、このへんで終わってしまってもいいではないか。まるで他人事のように、そう投げ出してしまっているだけだった。こんなものは、とてもではないが勇などと呼べまい。

 滑稽よの。誰に言うでもなくつぶやいて、冷笑を漏らす。そのとき、背後からよく聞き知った声が聞こえてきた。

「やはりここにおったのか、善十郎」

 振り返るとずんんぐりとした小柄な影が、具足を鳴らしながら近づいてくるのが見えた。七歳上の兄・為次であった。民部少輔の官位を自称しており、国許では民部どのと呼ばれ敬われていた。

「かようなところへ何をしに来た、兄上」

「聞くまでもなかろう。我もともに参る。五郎殿にもお(いとま)をいただいて参った。然らば、あとは我の勝手よ」

「それはならぬぞ。兄上は一家の長なのだ、何としても生きてもらわねば」

 善十郎がそう言っても、為次はゆっくりと首を振った。城を落ち延びての逃避行の間に、すっかり(びん)に白いものが増えた。それでも面差しは、憑き物が落ちたように明るかった。

「まことなら、飯島の城とともに灰となるべきだった身よ。今さら命は惜しまぬ。それに伝兵衛さえ生き延びれば、飯島の家は残る」

 伝兵衛とは、三年前に元服して為仲(ためなか)という名を与えた嫡男である。すでにふたりの男子をもうけており、妻子を連れてここまで逃げ延びてきていた。慥かにかの者、あるいはせめてその子らだけでも生き残れば、一族が滅びることはない。

「そのためにも、わしは行かねばならぬということよ。止めるな、善十郎」

 兄の決意は固いようだった。その目には、もう動かしようのない覚悟が漲っている。これもまた、勇なのだろう。そう思うと、胸の中にまた苦いものが込み上げてくる。

()いかぁ!」

 金太夫が再び兵たちの前へ進み出て、叫んだ。その怒号に、地響きのような「応」という声が返ってくる。大男は満足げに笑みを浮かべた。その顔にはもう、先ほどの怖気は露も見えない。

「この門を一歩出れば、そこは地獄じゃ。覚悟せい!」

「応!」

「周りにおるのは、すべてが敵じゃ。手当たり次第に薙ぎ倒して進めぇ!」

「応!」

 傍の兄も、ひび割れた声で「応」と叫んでいた。善十郎も苦い胸の裡を押し隠し、それに倣う。

「征くぞっ、門を開けぇっ!」

 その合図とともに、(かんぬき)が外された。開きはじめた大手門の向こうから、波のような筒音が押し寄せてくる。前方に朝日を浴びて翻るは、右三つ巴の旗印。河尻肥後守が軍勢だった。

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