しみったれた名前だねえ
受験シーズンが終わりを迎える頃、学校から帰ると、母親が薄ら笑いの表情で私を待ち構えていた。
「これ。届いてたよ。」
差し出されたのは、分厚い角形2号の封筒。
……封が開けてある。
差出人は、受験した大学。
「自分の目で見れば!」
封筒の中身を出して、確認してみる。
―――合格通知書―――
私は、無事、希望大学に合格することができたのだ。
前の週に、ペラペラの長形3号の封筒で、不合格通知を二通も貰っていたので、喜びはひとしおだった。
……よかった、これで自分の人生を生きることができる。
どの大学にも合格しなかったら、私は祖母の進める洋裁学校に入ることが決まっていた。
つまらない短大に通うくらいなら花嫁修行をしろと命令が下ったのは、入試がすべて終わった日の事だった。
そこに通いながら、祖母の進める見合い話を受けなければならないと言われていたのだ。
「ふん、そんな遠い学校に行って。通学時間がもったいないわ。」
私の大学合格を祝う人など、この家には一人もいなかった。
憎々しげに私を睨み付ける祖母をスルーして、高校へと電話を入れて合格を伝えた。
「ああ、そう。おめでとう。」
お祝いの言葉をもらったのは、この一言だけだった。
翌日、学校に行って友達に合格を伝えたが。
「なんで?一緒に短大行こうって言ったじゃん、裏切り者!」
私は、滑り止めとして友達が受けた短大を受験していた。
私の第一希望は、合格した大学だった。
友達は、短大の合格発表前に進学先を決めた私がゆるせなかったらしい。
短大に揃って合格した暁には、一緒に通うものと信じていたようだった。
友達は、私をお祝いしてくれなかった。
「受かったんだって?いいなあ、私まだどこも受かってない。」
「俺なんか浪人決定なのにさあ、ずりーなあ。」
「金持ってるやつは良いよな、私立いかせてもらえるしさ。」
「自慢乙!うちらは勉強しないといけないから。」
同級生は、私をお祝いしてくれなかった。
「大学なんか行っても無駄じゃん。就職しとけばよかったのに。」
「二時間かけて通うの?ありえなーい!」
「四年後、就職先あるかな?」
「どうせモテないんだからおとなしく嫁に行けばいいのに。」
誰も、お祝いしてくれなかった。
翌週、私の名前が、新聞に載った。
当時は、大学の合格者は高校ごとに名前が記載されていたのだ。
「ちょっと、アンタの名前載ってるけど。」
母親に差し出された、新聞を見た。
瑠璃川華菜姫
土田正子
私の名前の横に、同じ学校に通う女子生徒の名前が並んでいた。
クラスは違うが、名前だけは知っている子だった。
生徒会長を務め、友達がたくさんいる、人気者の女子。
特進クラスに在籍している、自分とは明らかに違う、人種。
「隣の子、華やかな名前でいいねぇ!それに比べてアンタはしみったれた名前だねぇ!」
「ホント冴えない地味な名前だわ。名は体を表すってね!四角い顔しちゃって、見苦しい!わしは可憐な名前で良かったわ!」
瑠璃川華菜姫
土田正子
同じ高校の枠に並ぶ、対照的な名前。
華やかで美しさの満ちあふれた、見目麗しい名前に対し、私の名前の、地味でつまらない事と言ったら、もう。
見た目だけでなく、画数も断然負けている。
薄汚い土色が、瑠璃の鮮やかさに敵うはずもない。
数字を数えるためだけの漢字が、華に勝てるわけがない。
並ぶのが申し訳ないくらい、みじめだった。
明らかにSSSRカードとノーマルカードだ。
下手をすれば、開封直後にゴミ箱に投げ捨てられるレベルのくせに、何で横に並んでしまったんだろう。
私の名前は、祖母がつけた。
正しい子に育つよう、名付けたらしい。
口数の少ない父親も、祖母に逆らえない母親も、私の名前について、口出しすることができなかったのだそうだ。
両親は、自分で付けた名前ではないので、思い入れもなく、むしろ気に入らないようだった。
付けた本人すら、自分の名前の美しさを誇るための引き合いとして利用する有り様だった。
事あるごとに、私の名前をバカにした、母親。
なにも言わず、傍観を貫いた、父親。
思い出したように、私の名前を笑った、祖母。
今回も、嬉々としていじり倒すつもりのようだ。
今回も、黙々として口を開かないつもりのようだ。
今回も、凛々として貶す事に力を注ぐつもりのようだ。
……なにもいいかえすことなど、できない。
大学に合格したというのに、進路が決まったというのに、テンションが上がらない日々が続く。
「ねえ、会長と同じ学校行くんだって?」
「お前みたいな凡人が会長と同じ学校とかマジかよ。」
「つか、お前頭よかったの?こんなにバカなのに。」
「どうせカンニングしたんだろ。」
「人生の運使い果たしたな、お前もうじき死ぬんじゃねぇの。」
合格してしまえば、あとは学校に行かなくてもよかったのだが。
「あんた学校もう行かなくていいんでしょう、家の掃除とご飯作りやって。あと婆さんの買い物に付いて行って墓参りも行ってきて。おばさんの家の手伝いもしてきて。早く机の中のゴミ全部捨ててよ、邪魔なんだから。」
「肩揉んで、背中掻いて、足の爪切って、シップ買ってきて、アイスクリーム食べたい、新しい服欲しい、たった一人の大切なばあちゃんの言うことくらい聞いてくれなきゃ困るわ!本当に愚図だねぇ、役に立たないったりゃありゃしない。」
あいにくと我が家には、私の休める場所はなかった。
皆勤賞を狙っているからという理由で、卒業式まで毎日高校に通った。
学校帰りには、図書館に立ち寄って、時間を潰した。
卒業式の次の日から、近所のコンビニでアルバイトを始めた。
家を出るために、黙々と貯金をしようと決めたのだ。
「子供がこんな大金もっちゃいかん!わしが使ってやるわ!」
時給650円の時代。
毎月6万ほど稼いでも、すぐに祖母が奪っていった。
結局大学在学中に家を出ることは叶わず、就職してようやく実家から解放された。
世の中の優しさを知り、お金は貯めることができるのだと知り。
正しい子に育つよう名付けた祖母の、正しくない生き方を知り。
不器用ながらも、家庭を持つことになり。
自分の、娘が、生まれた時。
私は、少し華やかな、名前をつけた。
心ない人たちに、しみったれた名前だと言われないように。
つまらない人たちに、嘲笑されないように。
「変な名前だねえ、婆さんになったとき恥ずかしいわ!」
「この顔でこの名前?似合わないねぇ、美人ならいざ知らず、親の顔見たら将来は絶望的なんだからさあ。」
娘はまだ赤ちゃんだから、心ない言葉が理解できない。
これから、言葉をたくさん覚えて、いくのだ。
これから、素敵な言葉を、たくさん覚えていくのだ。
幸せに生きていくのに必要ない言葉を、聞かせるつもりはない。
実家に寄り付かず、不器用ながら、一生懸命、心をこめて、家庭を切り盛りした。
娘と共に、言葉を学ぶ、毎日を、過ごした。
温かい言葉を、得た。
優しい言葉を、得た。
力強い言葉を、得た。
愉快な言葉を、得た。
安らぐ言葉を、得た。
沁みる言葉を、得た。
たくさんの、言葉を、得た。
自分の知らない言葉を知り。
自分の知らない家庭を知り。
自分の知らない世界を知り。
私が暮らす場所には、穏やかな日常があった。
「あんたは、誰だったかいな。」
私の名前を笑う人が、一人消え。
「……どうも。」
私の名前を呼ばない人が、一人消え。
「………。」
私の名前をしみったれた名前だと吐き捨てる人が、一人消え。
「お母さん!まーちゃん!明日のお弁当、サンドイッチでお願い!」
「お母さん、ベビーベッドどうしよう!」
「お義母さん、僕車出しますよ!」
「まーちゃん!今度の休み、どこ行く?」
「まーちゃんいる?お寿司作ったから、おすそわけ!」
「おくさーん、この前ありがとう、これお礼ね!」
賑やかな毎日を、送る、私。
「ね、生まれてくる赤ちゃんの名前、なんか良いのないかな?悩んじゃってぜんぜん決まらない!」
「いよいよお母さんもおばあちゃんだね!僕もおじいちゃんかあ……。」
「お義母さん、この中でどれが良いかな?」
ずらりと並ぶ、はなやかで、かわいらしい名前。
「どれも、素敵な名前だと思うよ。」
……娘が、素敵な名前を考える事ができるように育って、良かった。
……私が、素敵な名前をみて、喜べるようになれて、良かった。
私は、まだ娘のおなかの中にいる、孫をそっと撫でて、ニコニコと、笑った。